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中山町誌

三、 永木の周辺

 さて、二本の石柱に願主としてみられる人物たちのうち、梅原沙弥道興については、梅原あたりの有力者のひとりであろうということ以外に史料を欠いている。栗田氏は、大字栗田あたりの領主であろうということは容易に想像がつくが、それ以外にも断片的な史料が残されている。それは、八〇年ほど後の文明一三年(一四八一)のもので、場所は松山市道後の石手寺である。河野氏の本拠道後湯築城のほど近くに伽藍を有していて河野氏との縁も深い石手寺は、同年当時の河野氏惣領河野通直(教通)の手によって再建されたが、その時の棟札には、再建工事に協力した河野氏の家臣たちの名が列挙されている。その中に「越智山奥之大材木」一本を寄進した人物として「栗田殿」の名を見出すことができるのである。この栗田氏は、おそらく住吉神社石柱銘に見えた栗田氏の子孫であると考えて差し支えないであろう。とすると、栗田氏はこの戦国時代初期のころに、河野家臣団の一角を占めていたことになる。
 もうひとりの合田通基も永木周辺の在地領主のひとりであったと考えれる。藤縄の森三島神社にほど近い、永木小学校南の小丘陵上には、えられる宝篋印塔が残されている(明治期に、現在永木小学校駐車場となっている場所から移されたと伝わる)。これが本当に合田通基の墓であるかどうかは検討の余地があるが、こぶりではあるがまぎれもない中世様式の宝篋印塔であり、永木が中世において人々の生活の場であったことを証明している。また丘陵の西端には周辺に散乱していたという小さな五輪塔が集められているが、これも明らかに中世様式であり一般民衆の信仰生活の名残りといえよう。
 さらに、藤縄の森三島神社から藤の郷川の谷を隔てた向い側にある広い丘陵は、合之森城(、田河森城ともいう)の跡で、同城は合田氏の居城であったと伝えられている。同城跡は現在煙草畑に開墾されてかつての面影を失ってしまっているが、永本の集落を眼下に見下ろすその位置は、中世城郭の立地条件としては最適のものといえる。城跡の西端に数基の小さな宝篋印塔が残されていてわずかに往時を偲ぶよすがとなっている。