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中山町誌

一二、 古墳群の発生

 六世紀後半から七世紀前半にかけて、横穴式石室の古墳が爆発的に営造された。封土の省力化のため円墳が多くなっている。また石室の石材にも変化がみられ、巨石を用いるものや、河原石を用いるもの等、横穴式石室の技術発展とともに、石室・床面・羨道部において、色々と変化している。この石室構築の変化が、古墳の営造された時間差を知る手懸りとなっている。一方、生産性が向上するに従って、裕福農民が台頭するようになり、同時に家族墳として、追葬の可能な横穴石室を築造する傾向が生じた。この欲求を満たすだけの工人集団が発生したため古墳築造技術の向上があって、集中的に古墳が造られ、それは県下の所々にみられる。これらの古墳は集落の規模によって、その営造数が決まっていったのであり、それ故平野が広い所ほど数が多くなっている。松山平野を最大に、今治・道前・宇摩・北条平野があり、南予では宇和盆地に群衆墳がみられる。しかし、大洲盆地は肱川の氾濫によって集落立地が悪く、古墳築造にブレーキが掛けられた。