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中山町誌

四、 コメの増産

 古墳時代には、水田用の水を制御する農業土木の技術が発展し、その規模も大きくなった。松山市南江戸町古照遺跡では、第一堰(一四メートル)第二堰(二四メートル)第三堰(八メートル)の「柵」や「轟」が地下約五メートルの地層から発見された。堰はまず斜材を低い角度で打ち込み、横材を置いて蔓で結び、下流側に縦材を打ち込んで固定している。このような工程を三段に重ねて、上に斜材を緊密に打ち、男木や俵などの編み物を使って目潰しを施し、水が隙間から漏れないようにしている。現在も土地の人々は「轟」と呼び、つい最近まで使用されていた川堰の土木工事である。
 古照遺跡の発見(昭和四八年)以来、生産遺構の発見が全国各地で報じられるようになった。