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中山町誌

六、 青銅器の使用

 鉄器は農具・工具・武具・漁具など多岐にわたっているが、中心となるのは利器として製作した工具・農具であった。
 これに反して青銅器は、初期において舶載の鏡・利器・装身具など宝器として用いられた。青銅器は、国産化されると共に、祭器的性格を強めた。そして近畿地方の銅鐸や島根県荒神谷遺跡と同様に出土遺跡か埋納遺跡になった。このことは農耕儀礼に結びつけられる祭器であることを意味している。この鉄器と青銅器の使用上の区別は、当時の日本人が始めたのではなく、これを伝えた中国・朝鮮の使用方法を模倣したにすぎない。
 愛媛県では銅鐸と銅戈は発見されていないが、石戈は発見されている。銅剣・銅鉾・銅戈は、当初は武器として使用されていた。
 細形銅剣は土居町西番掛遺跡で二口、今治市竹谷で一口、中細形銅鉾は温泉郡川内町北方宝泉で一口出土している。平形銅剣は中部瀬戸内海沿岸に分布し、平形銅剣文化圏を形成している。平形鋼剣は松山平野道後温泉周辺の道後今市から一〇口、道後樋又で八口、道後公園東岩窟で三口、道後祝谷で一口の計二二口が出土しており、他に松山平野南部では谷田Ⅳ遺跡で一口出土している。
 東予地方では川之江市芝生で二口、新居浜市横山で一口、東予市広岡で二口、同天神で六口、朝倉村保田で五口の計一六口が発見されている。
 南予地方では、宇和町観寂寺周辺出土とされる三口があるが、道後周辺出土のものと同形態であり、また樋又出土品の出土数に疑問が残される。
 中広形銅鉾は、川之江市の金生川・立石で各々一口、東富山で一口、道前平野の大黒山で一口が発見されている。
 広形銅鉾は、宇摩郡新宮村で一口、伊予市上野で一口、南予の宇和盆地大窪台で七口が発見されている。
 銅剣の内、細形や中細形銅剣は、宇摩・道前・今治平野で出土しており、松山平野では中期の銅剣は出土していない。また平形銅剣においてもやや退化形態を示す。銅鉾は南予地方が中心であり、北九州の銅鉾文化圏重信川より南予域に含まれる出土状況となっている。