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伊予市誌

一、漁村の形成

 伊予市の沿岸に漁村がいつごろ形成されてきたか、古代にさかのぼる資料はないが、奈良二条大路の発掘で多数の水簡が出土した。その中に、「伊予国伊与郡石井郷海部里阿曇部太隅鯛楚割大介」と記された木簡が発見された。このことは、七世紀から八世紀初めにかけて、この地域に阿曇部に統率された海人が生活、海部の里が存在していた。中世に入ると、一一五三(仁平三)年の『山崎庄立券案』の文書に、京都伏見稲荷神社の荘園となった伊予郡吾川郷内山崎荘の東西南北の四至の境界が定められ、この荘域の北側(伊予灘)に五町の海面を取り組むとある。このことは神に供える神饌としての海産物の確保を目指すもので、この文書から、神社に従属して漁労に従事する海人の存在があったことを推察することができる。
 現在の伊予市の漁村の成立は近世以降である。すなわち、一六三五(寛永一二)年に大洲藩と松山藩の間で行われた替地後、大洲藩は郡中小川町(現在の湊町)を漁業地とするため、漁師町四丁一四間三尺一寸五分の地割を施行した。大洲藩にあっては漁業振興というよりは藩主の参勤交替の際の加子役確保のうえからも、また松山藩境に近いところからも、この地に漁村をつくる必要があった。
 一六六七(寛文七)年に実施された『西海巡見志』の伊予国の項を見ると、次のように記されている。

  小川村 家数三一軒 船数六艘、内一艘は四五石積、五艘は猟船 加子役九人
  灘 町 家数五三軒 船数六艘、内二艘は六〇石積と九九石積、四艘は猟船 加子役一〇人
  山崎村 家数三〇軒 船数二艘、猟船 加子役二九人、内九人役加子

 ここにでている家数が必ずしも漁業戸数と見ることはできないが、船数や加子役の数から、当時の漁村の規模を知ることができる。しかし、資本もなく、伝統的技術を持たない漁村は、衰微の一途をたどる結果を招いた。その間の事情を知る文書が残されている。

   御断り申上る願い書の事小川町浜猟師町の儀は、先年出羽守様御取立ての為、家拾軒御立遊ばさせられ候処に、困窮に及び漸々三軒ならでは御座無く候処に、私親上灘村に居り申し、網仕まつりたきと御願い申上げ候えば、願いの通り当処に住居仕まつり、御領内は何方へ参り候て網引き申とも、私網の儀は諸役御運上迄御赦免仰せ付けさせられ候に付、爰許に居住仕まつり網子の者共大勢に罷り成り、只今に相立ち居り申し候、然る処に播州(兵庫県)高砂より網下り、森村に居り申し度と森村庄屋方より御願申し候に付、私親御代官様より御呼び遊ばされ、右の網居え申す時は、其方網に障り申す哉と御尋ね遊ばされるに付、段々障り申す段中上候えば、右願の通り御置遊ばされず候(以下略)(原文は漢文体である)
    正徳四年甲午年十一月十七日
                 御替地小川町 四郎左衛門(印)
              品川平助様
             後藤喜右衛門 様

 この文書からわかることは、湊町の漁村を再興した者は浮穴郡上灘村の四郎左衛門で、彼は藩の許可を得てこの地に移住し、網子を呼び寄せて地曳網漁業を経営した。
 一八二九(文政一二)年四月、大洲藩船奉行後藤勘左衛門から、町老を通じて漁師共へ申し渡された「覚」(『漁業制度調』愛媛県庁蔵)によると、当時は鰡・鰯・鯛漁猟が不漁で漁師共が難儀をしていた。蛸漁をして生活の足しにしている者があり、これに対し、鰡・鰯は運上(江戸時代の雑税)の通り二〇歩一を浜番所へ指し出すようにといっている。この二〇歩一の運上は一六四一(寛永一八)年に定められたもので、この制度は二〇〇年以上続行されたようである。しかし、一七六七(明和四)年一〇月の「口上之覚」(「漁業制度調」愛媛県庁蔵)によると、「高岸村の半兵衛・与兵衛・喜右衛門船が網代で、いわし網・あじ網漁をしたいので、願い出ていたところ許可され、運上として歩合十分私方で請取るよういかれ、承知しました」と、高岸村伝十郎から庄屋官蔵へ間違いのないよう申し出ている。このことから長浜沖と違って、現在の上灘沖から伊予市新川沖あたりまでは、いわし・あじ網漁の運上は一〇分であったと推察される。
 その後、一七八七(天明七)年五月、大洲藩奉行堀尾四郎治からの「定」の中に、「当沖の網代場へ他所の漁師共が入り込んで漁事をしていることを見付けたときは、きまりであるから漁事をしないように申し聞かせ、承知しなければ漁具等損失しないように船を引き連れて帰り、その訳を報告すること。また、沖合いで口論は別として、なぐり合いは決してしてはならない。人に傷つけては、後日双方の争論にもなるから、この点きっと心得ておくこと。以上の通り申し付けるから。油断無く網引きに出て、暮らしのため怠りなく精を出すように、怠っておると自然と他所から漁師が入り込んでくるのである」と漁師に対し紛争を避けるよう指示している(『漁業制度調』愛媛県庁蔵)。
 一八五五(安政二)年一一月、大洲藩船奉行村上要人から町老たちへ、前条と同じ心得について、漁師共へ申し渡すように指示している。一八六八(明治元)年三月にも大洲藩神山求馬から湊町塩屋次郎宛に同様の定めについて指令している。
 その後、漁村内部の人口の自然増加と、近隣からの移住によって、漁村としての形態と機能が整備されるようになり、幕末から明治へと、いわし網漁業すなわち地曳網漁業が継承されてきた。