データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

1 商業の近代化

 生活の向上と商店の動向
 終戦後に統制経済は解かれたが、しばらくは物資の流通は大変窮屈であった。一九六四(昭和三九)年のオリンピック東京大会を契機として著しい経済成長を遂げ、一九七〇(昭和四五)年に開催された日本万国博覧会には、世界各国の人々の眼を驚かせる程の目覚ましい進歩と発展を成した。これに呼応して、消費生活においても飛躍的な向上発展をみせ、生活の合理化が叫ばれて機械化・電化され、家庭内にはあらゆる電気製品が持ち込まれて生活は一変した。日常消費物資は店にあふれ、次から次へと目新しい商品が登場して購買心をそそらずにはおかなかった。
 こうした商品の目覚ましい進出は、商店の経営に多大な影響を与えた。まず、新しい商品に目が向くような店舗への改装、大型化やスーパーマーケットの登場、また、座って客を待つ商法から、宣伝とサービスによって客に売り込む商法への転換が余儀なくされた。こうして昔の老舗と言われてきた店は一変し、町の様相もすっかり変わってきた。
 また、商業地域においても、藩政時代は湊町が、明治・大正時代からは灘町が商店街として栄えてきた。一九七〇(昭和四五)年ころからは、国道五六号線の整備とともに、この沿線上に新しい店舗や事業所が増え、各種修理工場、ガソリンスタンド、食堂、工場などが建ち並ぶようになった。一九九一(平成三)年に大規模小売店舗法が改正されたこと、一九九七(平成九)年に松山自動車道伊予インターが開設されたことなどにより、郊外型大型店舗の出店や増床が行われるようになった。

 商業活動の現況
 市内の商店数を伊予市総務課の「伊予市の統計」で見ると、第127表のとおりである。昭和三五年度の商店数を一〇○とすると、平成一四年度は五七・〇となり四三%の減である。これを卸売業・小売業別に見ると、卸売業では五%とわずかに減となっているが、小売業では四一%とかなりの減少を示している。
 国道五六号線の整備・拡幅、また、高速道路伊予インターの開設に伴い、それぞれの地区において、沿線上での出店が増加している。平成一四年度における地区別商店数は、第128表のとおりである。
 第129表で見るように、従業員総数は、平成一四年度では二、三一八人で、八年前に比べると二三一人、一一%の増加を見せている。そのうち小売業は、八年前に比べて一八・五%の増加を示している。従業員の数が減少しているのは卸売業で一〇%の減である。
 年間商店販売額においては、第130表に示されたとおり、年々非常な伸びを示しているが、平成六年度の五七二億二、七〇〇万円に対し、八年後の平成一四年度は九%減の五二三億八〇〇万円となっている。これを業種別に見ると、第131表のとおり卸売業の平成一四年度は二五七億四、七〇一万円で、八年前の二三%減となっているが、小売業は八年前の二三五億八、三四一万円の一・一倍で、わずかな伸び率を示している。しかし、商店数は八年前に比べて一〇%減少している。

 大型スーパーの進出と商店街
 松山市内の主要百貨店と郊外型大型店舗の進出によって、商店街の小売・卸売ともにかなりの影響があった。しかし、昔からの顧客は商店街に定着しているが、更に、これらスーパーマーケットに対抗して商店街の振興を図るために、商店経営者と商工会議所がその施策を話し合い、市の協力を得て近代化へと経営意欲を高めてきた。商店街には、一九八〇(昭和五五)年に四六区画、一九八二(昭和五七)年には五六区画の駐車場が整い、更に一九八三(昭和五八)年に街路灯が整備されて町は一段と明るさを増し、町の様子も変わった。また、同年六月一一日より、ふれあい土曜夜市が第一~三土曜日に開かれ、各商店が協力していろいろな趣向を凝らし、市民から好評を得て盛況を呈している。一九八七(昭和六二)年には、伊予市商業協同組合が設立され(初代理事長・石田美多嘉)、当時、加入店は一六四店であったが、二〇〇三(平成一五)年現在は一一八店となっている。また、一九八七(昭和六二)年四月には伊予市共通商品券が発行され、以降平成一五年度末まで四六万八、三四二枚を発行、金額にして二億三、四一七万一、〇〇〇円となっている。

第127表 伊予市の商店数

第127表 伊予市の商店数


第128表 地区別商店数

第128表 地区別商店数


第129表 伊予市の商店従業員数

第129表 伊予市の商店従業員数


第130表 伊予市内商店の年間商品販売額

第130表 伊予市内商店の年間商品販売額


第131表 伊予市の業種別年間商品販売額の対比

第131表 伊予市の業種別年間商品販売額の対比