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伊予市誌

2 各種の商業

 商業と定書
 一八一二(文化九)年、岡文四郎によって萬安港が創築され、一八一七(文化一四)年と一八三五(天保六)年に更に拡張改築されてから、船の出入りが多くなるにつれ、商業も自然と繁盛していった。
 文化・文政のころには各種の商業が営まれるようになって、だんだん町も賑やかになった。大きな呉服屋、酒屋、こうじ屋、小間物屋、船宿、下駄屋、油屋などの店が建ち並んでいた。こうして商店が活気を呈するようになって、一八〇六(文化三)年に商業税が定められた。これは現在の事業税にあたるものであり、各々の鑑札の所有者だけにこの税が課せられた。次に「商札御定書」を意訳して掲げておこう。これは、一八一六(文化一三)年五月に郡中灘町の町年寄宮内伊兵衛と灘屋才次郎へ当所代官三瀬左平次より渡されたものである。第142図はその「商札御定書」(宮内好一郎蔵)である。

     定
  一 俵物並びに万商売札  銀三拾目
    ただし、店を張って何によらず売買することはもちろん、他所へ差し遣わす俵物も船持ちの穀物を買うことも勝手次第である。
  一 酒屋、糀屋、質屋、呉服屋、萬小間物商売並びに船宿、その他、町人どもで旅人に頼まれ穀物を商売する者は商札 銀一五匁
    ただし、布、木綿、茶、煙草の類と、この他穀物店で計り売りする分はよろしい。他所へ差し遣わす俵物は五〇石に限る。
  一 萬小売商札  銀三匁
    ただし、塩、茶、煙草、菅笠、下駄、魚荷売り、草履、藁縄などの類
  一 商札を所持しないで、売買している者があれば、誰であっても見かけ次第押え捕り、会所へ申し出ると、その者へ褒美として札銭三分を遣わす。
  一 商札を所持している者でも、札を所持しないで所々方々へ商売に出る者は、札銭、過銭を申しつける。
  一 銀三拾目の商札を貸し借りする者があれば、過怠のために銀二枚あて双方から出させる。
  一 銀拾五匁の商札を貸し借りする者があれば、過怠銀一枚あて双方から出させる。
  一 銀三匁の商札を貸し借りする者があれば、過怠のため銀拾匁あて双方より出させる。
  一 札持ちどもが町内へ買い込んでいる穀物を無札者に売り渡したら、町年寄にお願いして売払う。
  一 札の持主が商いに出なくても、一家にいる者に札を持参させて商いに出すことは差し支えない。しかし、別家や借家の者に札を借りて商いに出す者があれば、右定めのとおり過怠を申しつける。付、右の商札を紛失した者があれば、三拾目札の者は白銀一枚、拾五匁札の者は銀二〇目、三匁札の者は銀一〇匁出させる。
  一 飴、野菜、古金、綿実、燈心売りの類のように軽い店売りの者は、先の規則からはずし、無札でよろしい。
  右は御城下町内の商札定であるから、町並の商人どもはこの旨を、とくと心得ておくべきである。
    文化十三庚寅歳四月           稲葉 八左衛門
                        山本  加兵衛
                        長尾  半 蔵
                        加藤  左 盛
                        加藤 伝左衛門
          灘町々老  宮 内 伊兵衛との
          同     灘 屋 才次郎との

 町人の組織
 商人の間には、問屋・仲買・小売商の別があって、お互い同業者の間においては、組合などを作り、営業の安全とその独占を確保していた。そして、組合の運上金や藩への冥加金という税を納めていた。商人の中には、藩の窮乏に際して多額の献金をし、その功によって特別に名字帯刀を許され、藩から保護を受けた者もいた。武士や農民が窮していた時代に、ただ一人富裕な暮らしをしていたのは町人であった。
 大きな商いをしている店には、主従の関係を持った主人と番頭・手代・丁稚・小僧の階級制度があって、店の指図の多くは番頭が行っていた。一〇歳から一四歳くらいまでの丁稚や小僧は、主として店の掃除や使い走り、客の送り迎え、子守りなどに一年中こき使われた。その上で、年季奉公といって、五年から一〇年、その店で勤めあげることになっていた。中でも勤めぶりのいい番頭は、何十年かして「暖簾」分けをしてもらい、初めて独立して店を持つことを許された。独立するということは容易なことではなかった。
 一八五〇(嘉永三)年一二月の「奉公人請状の事」の文書には、次のように書いてある。

    奉公人請状之事
  松山領浮穴郡恵原町村百姓清助と申す者、当戌十二月五日より来亥十二月五日迄、御奉公御約束仕る。給銀として松札五百目下し置かれ、慥か請取申す処実正に御座候、然る上は御奉公中長煩いなどにて勤めつかまつらざる候節は、右下され候給額に加え利足(息)元利共に、滞りなく御返済つかまつるべく候。後日のため仍て件の如し。
    嘉永三戌年十二月         同郡同村奉公人清助
                     同請人
                     五人頭  九郎七
                      
           大洲御領郡中
              加納屋重兵衛殿
   右之通り相違御座無く候以上
                     同郡同村
                     組  頭  新五左衛門
                     
 一八八五(明治一八)年の「奉公人請状」を見ると、奉公人の扱いが嘉永年間に比べて変わっているのが興味深い。

     奉公人請状之事
  一 金拾六円也
  右は私御奉公つかまつり候給金として正に請取り申す処明白也。然る上は十八年旧十二月廿五日より来る十九年旧十二月廿三日迄急度相勤め申し上ぐべく候。ただし毎月廿五日相結(詰)余日は休日に頂載(戴)つかまつり候御約守り、万一奉公つかまつらず候節は請人より人替えまたは給金立戻しなるとも、御指図の通り弁償つかまつり、少しも御損相懸け申すまじく候。後証のため請状一札如件
    明治十八年旧十二月廿日
                 伊豫郡本郡村奉公人   ○○
                      右 親    ○○
                      受 人    ○○
                   同郡同村
                      請 人    ○○
       藤谷豊城殿
                        (藤谷家所蔵)