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伊予市誌

1 伊予農業協同組合

 発足までの経過
 伊予農業協同組合は、一九七三(昭和四八)年四月一日に郡中・北山崎・南山崎・上灘・下灘の五農協が合併して発足した。その経過は次のとおりである。
 経済の高度成長によって、農業及び農村に厳しい変化を来たしたので、これに対応する農業協同組合の働きは、広域合併農協でなければその機能が果たされなくなった。昭和四五年二月一三日、県農協中央会の主催で、新しい農村の建設のために農協合併はどうあるべきかの問題を掲げて、愛媛県農協大会が松山市南堀端の農協会館で開催された。討論協議の結果、県下の総合農協一一五と専門農協三七組合を昭和四八年までに一三組合に整理統合することが決議された。
 伊予市・伊予郡は一一の総合の総合農協と一青果専門農協があったが、これらを一組合に統合する計画であった。昭和四五年五月一五日、伊予地区農協合併研究会が一二農協の代表者によって発足し、会長に南山崎農協長大西要が就任した。その後、幹事会・研究会が一三回にわたって開催され、研究討議がなされた。
 昭和四七年六月二日には、伊予地区農協合併促進協議会を結成した。参加した農協は南伊予・郡中・北山崎・南山崎・上灘・下灘の六農協で、他の農協は時期尚早ということで見送ることとなった。六農協では、将来の理想を目指して合併し伊予地区の一本化を実現して中心的な役割を果たしていくことを確認し、協議会結成に踏み切った。会長には、伊予市長玉本善三郎、副会長には双海町長仲野和と南山崎農協長大西要を選出した。
 その後、全大会・役員会・専門部会・事務局会などを二三回開催したが、途中南伊予農協が六農協合併では規模が小さいとの理由で協議会から離脱した。昭和四七年一二月一八日に合併構想を樹立し、四七年二月一七日に五農協が一斉に合併の可否を問う臨時総会を開催しいずれも合併を可決決定した。こうして同年四月一日に伊予農業協同組合が発足した。初代組合長に岡本要、専務に大西要、参事に永木定が選出された。

 事業活動
 伊予農協が発足してから十数年が経過した昭和六〇年三月末の組合員数は二、九九八人で、協力組織としての青壮年部は一三四人、婦人部は一、五九八人が登録されている。生産組織は、レタス・なす・きゅうり・ハウス・スイートコーン・ハウスなす・あけび・肉牛・生産牛・養鶏・養豚・ブロイラーの各部会が結成された。主な施設としては本所一、支所五、支店一、経済センターが設置された。同時期の事業量は、貯金一四三億円、貸付金四一億円、長期共済八四四億円、購買二三億円、販売一七億円と発展している。
 昭和五九年一二月一日にオープンした伊予農協会館(施設面積三、六三六・二二平方メートル、建設費七億四、九五二万六、〇〇〇円)は、同館内に本所・市場支店の事務所と営農相談室・生活改善室・組合員会議室(六〇〇人定員)を有し、二階部分には結婚関連施設を設けるなど従来の農協施設のイメージを一新するものであった。
 昭和五八年四月に策定された「第二次営農生活振興計画」によると、昭和六二年度を目標年度として年間一戸当たり三六〇万円の農業所得を目標に営農計画が策定され、水田・樹園地の土地基盤の整備、土づくり、ハウス一反運動、予冷施設を利用した野菜の有利販売、農地の流動化、農作業の受委託など地域農業振興などが重点事項として取り上げられている。
 歴代組合長は、初代岡本要、二代大西要であった。