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伊予市誌

二、戦後の農業協同組合

 戦後の農業会
 農業会は一九四五(昭和二〇)年八月の終戦から一九四八(昭和二三)年八月まで存続した。この期間は、連合国軍の占領下にあって、長期にわたる戦争によって破壊された国民経済が占領政策のもとでようやく復興に立ち上がろうとする準備段階であって、政治的にも経済的にも日本国民が未だかつて経験したことのない激動期であった。農業会はこうした情勢の変化に対応してある程度の民主化を実現した。また、その機能を変質させて、食糧の増産と供出などに一定の役割を果たした。長期にわたる法案作成の過程を経て、一九四七(昭和二二)年一一月、新しい「農業協同組合法」が公布された。それ以後、農業会の解体過程と農協の設立運動とがほぼ同時並行的に進められた。この期間の末期は、単位農業協同組合及び府県農業協同組合連合会の設立時期に当たっていた。戦後の農業会の歴史は、その事業運営のあり方の変化という観点から見て、三つの時期に区分することができる。
 第一の時期は事業の積極的展開期で終戦から昭和二一年九月まで、第二の時期は事業防衛の時期で昭和二一年一〇月から同二二年四月まで、第三の時期は整理と解散の時期で昭和二二年五月から同二三年八月の法定解散までである。第一の時期には、農業会が戦時中の国策即応の統制機関としての性格を拭い去り自主的な協同組合に改組されたなら大いに活躍できるという望みがあった。系統農会は、積極的に機構の拡充を行い、食糧の増産と供出の促進、開拓事業への進出、荒廃した養蚕、茶業の復興などに乗り出し、戦後の農業復興の中心的組織にならうと努力した。しかし、農業会に対する農民の不満は強く、占領下の民主化政策とこれに刺激されて起こった民主主義運動の双方からの批判は厳しく、公職追放令などによる農業会指導層の動揺もあって、事業はなかなか進展しなかった。農協法立案の発端となったものは一九四五(昭和二〇)年一二月九日にGHQが日本政府に与えた、「農地改革についての覚書」であった。この覚書は農地改革の実施を指令したものであるが、農地改革との関連において自主的な農業協同組合の育成についても指示している。覚書の中には、「小作人であった者が再び小作人に転落しないための合理的保護の規定」に含まれるべき事項として、次の五点を挙げている。「合理的な利率で長期又は短期の農業融資を利用しうること。加工業者及び配給業者による搾取から農民を保護するための手段。農産物の価格を安定する手段。農民に対する技術的その他の知識を普及するための計画。非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的・文化的向上に資する農業協同組合運動を助長し奨励する計画。」このうち最後の項目が新しい農協法の立案を指示したものである。政府は昭和二一年三月一五日に農協法の第一次案を作成したが、最終案の第七次案が成立して、同二二年一一月一九日公布されるまでには実に一年半以上の歳月を要した。
 新しい農業協同組合は、従来の農業団体の批判と民主的協同組合の諸原則の採用と日本の政治的・経済的要請から生まれてきたもので、その根本となる考え方として次の点が強調された。①農地改革は、農民を封建的土地所有制から解放し、農業のためにその近代化への道を開く。②このような協同組織は、勤労農民を主体とするものでなくてはならない。農民は、もはや動かされるものではなく、協同組織を通じて自ら動くものである。③協同組織の結成と運営は勤労農民の自主的意欲に基づいて民主的になされる。④農民はその生産と生活を通じて協同活動によって、民主主義的教養を身につけ、経済民主化の基盤を培う。⑤従来の農業団体を解体して、古い機能がそのまま協同組合によって承継されることを防止する。このように組合員の民主的運営が強く叫ばれ、組合の設立も極力民主的に行われるよう念入りな規定が設けられた。

 県農協連合会伊予支部と町村農協の設立
 昭和二二年一二月の農業協同組合法の実施によって、愛媛県農業協同組合連合会伊予支部が郡中町大字米湊に設置されることになり、各町村には農業協同組合を設立した。また、愛媛県農業協同組合伊予支部は、経済・指導・信用の三部門に分け、別に独立した支部を設けた。一九五〇(昭和二五)年当時の組合長・組合員数・出資金は次のとおりである。
 なお、これ以後の歴代組合長は次のとおりである。
 郡中農業協同組合-岡部仁左衛門・宮野鎮<広鳥>・沖喜代市・国西尚公、南伊予農業協同組合-松野夏吉・渡辺林松・篠崎猪佐男、北山崎農業協同組合-岡本要、南山崎農業協同組合-佐川清光・重森千代重・西岡半次郎・大西要

 初期の農業協同組合
 昭和二三年に農業協同組合(以下「農協」と呼ぶ」が設立されてから、同二六年までの初期は、農協が全般的に振るわなかったので、振興のための運動が展開された。主なものは、①事業運営の統合計画化、②販売事業の計画化、③資産の増強と財務の健全化、④系統組織の整備強化、⑤農協教育の徹底などであった。これらの事項を実現するために、「全系統農協を打って一丸とする。」運動が展開された。

 再建整備の時期
 昭和二六年四月から同二八年七月までは、戦後農協の質的転換期であった。この時期は系統農協の再建がある程度進み系統事業の基盤が不十分ながら確立されたが、他方ではこれから伸びようとしていた農協の自主性と農協における農民の主体性が阻まれた。

 整備促進体制下の農協
 この時期は、昭和二八年八月の「農協連合会整備促進法」の制定から昭和三五年三月の刷新拡充三か年計画の終了までである。その前半は整備促進体制の確定期であり、その後半は三か年計画実施の時期であった。三か年計画そのものは整備体制の基礎の上に立って農協を強化拡充しようとする方策であったが、この間に経済情勢の変化に促されて、農協は徐々に新しい変化が表れてきた。
 昭和三四年度における市内農協の事業内容は第116表のとおりである。
 昭和三五年四月から現在までの農協運動は、組合員の自覚と役職員の努力とによって、着々とその成果を上げてきたが、系統農協を取り巻く諸般の情勢は日に日に厳しさを加えてきた。これに対応して農協運動本来の使命を達成するためには、全系統を通じて農協が真に組合員に根ざしての運営になっているかどうかについて、自らの現状を深く反省し、自主的に改善の目標と方途を確立し、その実行に格段の努力をしなければならなかった。そこで、体質改善の一般的目標が立てられ、①協同組合の本質を明確にする。②営農改善目標を確立し、それに直結して生産、販売などの各面における協同活動を推進する。③生活向上のための組合活動を積極化する。④指導金融の徹底を図る。⑤組合員のグループ活動及び最寄りの組合間の協同を推進する。⑥経営管理の刷新を図る。⑦系統機関の運営について、⑧系統組織の整備について、の項目が挙げられた。その後、農協はますます発展していった。伊予市内の農協においても、機械化が進められ経営の改善への努力が続けられた。

町村農協

町村農協


第116表 昭和34年度における市内各農協の事業概要

第116表 昭和34年度における市内各農協の事業概要