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伊予市誌

一、戦前の農村産業組合

 初期の農村協同組合
 農村の産業発達のために道を切り開いたものは、一九〇〇(明治三三)年に制定された「産業組合法」であった。しかし、産業組合法以前にも少数ではあるが農村産業組合は設立されていた。それは、生糸及び茶の販売組合・信用組合・肥料の購買組合であった。これらの協同組合は農村産業組合の先駆であったばかりでなく、初期の農村産業組合の原型であった。最初の生糸販売組合は、明治一〇年代に群馬県下で設立された製糸原社であった。その当時、生糸は最も重要な輸出品であって、養蚕業が全国各地で盛んに行われ、製糸業もこれに伴って発展した。ついで、静岡県下に製茶販売組合が設立された。これら生糸や茶の販売組合は、農民の自由な商品生産が取引市場に対応する必要から生まれた共同販売の組織であって、製品の品質向上と規格の統一を目的としていた。また、加工段階としての共同処理施設も持っていた。

 信用組合
 一八七二(明治五)年九月、静岡県見付町に報徳社連合信用組合が設立され、各県にも信用組合が生まれた。一八九一(明治二四)年に内務大臣品川弥次郎が平田東助の協力を得て作成した信用組合法案を帝国議会に提出したが未成立に終わったので、品川と平田は熱心に信用組合の宣伝をした。

 肥料購買組合
 一八七三(明治六)年の「地租改正条例」によって地租が金納になったため米の商品化が著しく促進され、また機械工業と都市の発展に伴って農産物市場はだんだん拡大されていった。農家が販売肥料に依存する度合いも高まってきたため、肥料の共同購入の組織が一八八七(明治二〇)年ころから自然発生的に生まれ、一八九三(明治二六)年ころ、農会の指導のもとに各地に肥料購買組合が設立された。当時の販売肥料の主なものは、従来からの魚粕と油粕に加えてこのころから製造されはじめた過燐酸石灰であったが、日清戦争後の一八九六(明治二九)年からは満州産の大豆油粕の輸入が飛躍的に増加した。

 産業組合法
 一八九一(明治二四)年と一八九七(明治三〇)年の信用組合法案と産業組合法案とは未成立となったが、一九〇〇(明治三三)年に産業組合法が初めて成立した。産業組合法は、ドイツの「産業及び経済組合法」(一八八九年)を基にして農商務省の手で作られたものであり、信用組合のほかに購買・販売・生産(後の利用)の事業を行う組合も認めた。購買組合においては、産業用品(生産資材)のほか、経済用品(生活資材)の取り扱いを認めたが、信用組合法案の名残をとどめて信用組合が他の事業を兼営することを禁止した。組合に対しては所得税及び営業税免税の特典が与えられ、また農工銀行からの融資が法的に規定された。産業組合法の主なる対象は地主と農民であり、実際にも産業組合の根幹は農村産業組合であったが、法制上組合は中産以下の人民(小農・小商工業)に広く開放されていたので、労働者や市民による都市消費組合と中小企業者による市街地信用組合もこの法律によって組織され、産業組合法はあらゆる種類の協同組合設立のより所となった。産業組合法の精神は中産以下の農民(とりわけ小農)が協同組合によって経済的自立を図るようにすることであって、政府による保護育成は表面に出ていなかったが、当時においては小農が自主的に協同組合を組織し運営する条件は十分には熟成していなかったので、政府の指導と援助は当然予想された。農村産業組合の組織の主体として想定された「小農」とは、当時の条件から見ると在村の中小地主と自作農上層とであった。産業組合法の制定から第一次世界大戦直後に至るまでの間の農村産業組合は、組合の普及と事業分量の発展はあったがその性格に大きな質的変化はなかった。この時期は、農村産業組合の漸次的発展の時期であった。
 
 農村産業組合の試練
 第一次世界大戦とロシアの一〇月革命の結果、資本主義体制の全般的危機の時代が始まった。戦争を通じて好況を満喫し、独占資本を著しく強化した日本資本主義も危機に見舞われた。この危機の突発的・自然発生的な現れが米騒動であった。伊予市(郡中)においても一九一八(大正七)年の米騒動が有名である。資本主義の危機は農村における地主制度の矛盾と相まって、国内の階級対立を鋭くして、労働運動と農民運動の発展をもたらした。一九二〇(大正九)年には世界的な戦後恐慌が起こり、一九二三(大正一二)年には関東大震災による経済的危機が現れ、一九二七(昭和二)年には金融恐慌が起こり、一九二九(昭和四)年の後半には大きな経済恐慌が勃発し、これに伴い長期にわたって深刻な農業恐慌が続いた。頻発する恐慌は農村経済に大きな打撃を与え、農家経済を著しく不安定にした。経済恐慌と小作人を中心とする農民運動の高揚は、地主制度を大きく揺さぶった。
 このような資本主義と地主制度の危機のもとで、旧来の農村産業組合は大きな試練を受けることになった。農村産業組合の根幹を成していた信用組合が、各地において一九一九(大正八)年から一九二七(昭和二)年までに次々と解散し、その数は五、六〇〇を超えた。信用組合の破綻は、預け入れ銀行の休業、主な貸付先の地主と上層農民の経済的破産、購買販売事業資金の固定化などから起こった。そこで農村産業組合の再建整備が必要となり、その方策として、政府と産業組合とによって取り上げられたのが全国機関の創設とそれによる系統組織の整備と強化であった。一九二三(大正一二)年には全国購買組合連合会と産業組合中央金庫とが設立された。信用事業と購買事業とに比べその発展が遅れていた販売事業でも、一九三一(昭和六)年に全国米穀販売購買組合連合会が設立された。
 全販連の設立は、米穀と農業倉庫の奨励などを中心とする政府の米穀政策の結果、販売組合における米の取り扱いが増大してきたことによって生まれた。政府は、米の買い入れにおいて、農会・産業組合及び農業倉庫に優先権を認め、また、産業組合中央金庫を通じて低利の米穀資金を産業組合に融通したので、政府買い入れ米は次第に産業組合に集中するようになった。

 戦時下の農業会
 戦時経済統制下においては農村産業組合は、農業の経済機関化によって、一九四三(昭和一八)年には農業団体の統合による農業会に転化するに至った。当時の「農業団体法」は、いわゆる公益優先の原理によって、「農業に関する国策に即応し、農業の整備発達を図る」ことを農業会の主目的として規定し、会員のための事業は従属的なものとした。即ち、農業会は農民を増産へと駆り立て、農産物の供出を督励し、農民に貯金を強制した。ここに至って農民の戦時経済政策に対する不満と抵抗が様々な形で現れた。このため農業会は、農民の非協力と抵抗に直面することになって、その機能を発揮することが困難となった。