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伊予市誌

2 農業技術の指導

 明治期の農事指導
 一八八七(明治二〇)年ころの地主たちは、一方では政府や農会を動かして農業改良を進め、他方では小作料を確保するために農業改良に力を尽くした。明治時代に、水稲の新品種を選びこれを普及したことや農機具を考案したことなどの多くは、地主によって行われた。一九〇三(明治三六)年に農商務省は「農事改良必行事項」を指令した。特に、もみ種の塩水選、麦の黒穂病予防(温湯浸法)、苗代の改良(愛媛不耕式折ちゅう錬苗代)、稲の正条植えなどは県令(県布達)を出して、町村長や農会は勿論、警察官までも動員して強行した。しかし、新しい農法に移るには色々と困難なことが多かった。例えば、定義を用いて正条植見をするにしても、夫婦が定規の両端にいて、一方が「上げた」「下げた」とやかましくいうので喧嘩になって夫婦別れとなったということもあった。しかし、このような権力による農事改良施策は、大正期における資本主義経済と自由主義思想が入ってきて影を潜めた。一九一八(大正七)年の米騒動後には、前記の県令なども有名無実となった。

 農会による指導
 国や県に代わって、農事試験場や農会の指導体制が強化され、農家を動かすようになった。一九二二(大正一一)年四月に「改正農会法」が公布されて、帝国農会・県農会・郡農会・市町村農会が置かれて農会の系統組織が確立した。これから各種の指導体制が取られた。その事例を挙げると、農事講習会・品評会・農機具展示会、技術員設置、縁肥栽培奨励、生産者販売斡旋、害虫駆除奨励(めい虫の蛾及び卵の買い上げ、誘蛾灯の設置)、種子のあっせんなど、充実した活動が行われた。特に技術員の設置については、農林省は大正一五年度から三か年間は相当の補助をした。また、農会の技術指導とともに奨励事業の補助金を配付することになった。したがって、大正時代の中頃から農事改良施策は政府の補助金と農会の技術指導とによって推進された。

 昭和時代の農業指導
 一九三七(昭和一二)年に起こった日中戦争が拡大するにつれて、戦時経済体制が強化された。特に、一九三九(昭和一四)年の西日本や朝鮮の干害によって食糧の需要が均衡を失ってからは、食糧増産が緊急課題となった。以来、戦後にかけての農業技術の普及は農業一般の改良から食糧増産を目指すものに変わった。そして、従来の補助奨励を強化したうえに技術動員とも言われるような体制を取った一九四三(昭和一八)年の「農業団体法」の制定によって、農業会が発足した。従来の農会技術員は、これに吸収された。このように戦前の農業指導は農業団体が主体となって実施してきた。その活動は、政府の要請に基づいて農産物の増産に重点が置かれた。

 戦後の普及事業
 戦後の農地改革などと並んで、農村の近代化・民主化を促進するために生まれてきたのが普及事業である。従来、我が国の農業に関する技術指導などは農業団体が主体となって実施しており、その活動の内容は政府の要請に基づいて農産物の生産に重点が置かれ、生産者である農家の生活の向上などについてはあまり意が用いられなかった。普及事業では人を対象としたこと、すなわち自主的に農業を営むことのできる農業者の育成といったことに主眼を置いたこと、また、従来指導の対象にならなかった農家の主婦、農村の青少年も含むようになったことなどが特色として挙げられる。
 普及事業の根拠となる「農業改良助長法」は、一九四八(昭和二三)年七月一五日に公布された。翌昭和二四年一月から三月にかけて全国で普及員の資格試験が行われ、同年四月に試験合格者の中から、正式に任命された改良普及員が誕生した。当時の市町村に対し普及員の割合は、概ね二か町村に一人の割合で市町村役場あるいは農協に机を置き、そこを拠点として活動を開始した。昭和二三年、農業改良普及事業の創設に伴い、初めて生活改善普及事業が発足した。普及事業の経過を見ると、次のとおりに大別することができる。

 草創期(昭和二三年~同二五年)
 当時の農業事情は、長い戦争の打撃から未だ立ち直りを見せるまでに至らず、インフレーションの進行と相まって、食糧不足は深刻なものであった。普及員の活動は、このような情勢の中で農家の庭先やほ場を巡回することを第一義とし、その内容は品種・栽培技術・病害虫の防除・肥料・農薬など多岐にわたった。
 生活改善は、まずカマド・台所などの改善に始まり、みそ・漬物・びん詰め・ジャムおやつなどの農産加工、自家生産物を使った栄養料理、洋服式作業衣、蚊やハエの駆除、衣類の更生など自給自足の農家生活の特長を活かしたものから行った。

 小地区期(昭和二六年~同三二年)
 この時期は、引揚者や農業者の増加により、農村に人口過剰が起こった。昭和三〇年には農業従事者数は一、九五〇万人に達し、産業別就業人口の三九%を占め、都市の労働力の需要はまだ高まらなかった。耕地の狭小がからんで、農家の二、三男の就業問題が深刻となった。普及員は昭和二六年には一市二人・一町村一人の割合となり、当初の増員計画は概ね達成された。この時期は各地に農事研究会・青年農業改良クラブが、普及員の指導によって多数結成された。一方、生活改善については、食生活改善、ムダの排除、農繁期の生活調整、家事作業の能率化が主なテーマとして取り上げられ、結婚の改善、共同炊事の実施、農休日の設定、簡易水道の施設などが行われた。

 中地区期(昭和三二年~同三九年)
 食糧の需給も安定し、国民経済は技術革新とともに、飛躍的な発展の段階に入った。このことは農村や農業に大きな変化をもたらし、農村の労働力は都市に多量に吸収され、特に若者層の流出は甚だしく、農業労働の老齢化・女性化の傾向を高め、また兼業化も年々進行していった。一九六一(昭和三六)年には「農業基本法」が制定された。農業改良普及員については特技分担・地域担当がとられ、生活改善にあっては一般指導に加えて地域濃密指導の活動方式が取られ、いわゆる中地区による活動体制が概ね整備された。このころ、畑作振興が強く叫ばれ、園芸・畜産などに関する技術指導の強化が要請された。普及事業でも、畜産・果樹・蔬菜・農機具の四部門について特技普及員を置いて対応した。生活改善については、農村生活の電化、農家住宅の改善・新築などが進み、更にプロパンガスの普及によって、カマドは姿を消した。高度経済成長によって、農家の階層分化、農家労働力の他産業への流出をもたらし、主婦労働の強化、農家生活経営の放漫化、農婦症候の増大、農家嫁不足などを引き起こした。
 一方、向上した農家経済は、生活改善意欲をかつてないほどに高め、生活改善普及事業は指導内容の拡大を迫られた。

 広域期(昭和四〇年~同五三年)
 国内経済は昭和四一年度に入って上昇の経過をたどっていたが、農業人口は依然として減少を続けた。総理府統計局の発表によると、我が国の就業者全体のうち、農林業の占める割合が、昭和四一年は二〇・三%、同四二年には一九・三%となり、史上初めて二〇%を割った。農業労働力の不足から、委託耕作、集団的生産組織の結成などの新しい農村の動きがみられるようになった。昭和四四年に至って米の生産調整が実施され、昭和五三年から水田利用再編対策が実施された。
 こうした農業を取り巻く諸情勢の変化に対応して、普及所の統合と普及指導活動の効率化が図られることとなり、普及員の職務を分化し、農業については市町村担当の地域改良普及員、専門項目担当の専門改良普及員とに分け、生活については広域担当と地域担当とに職務を分けて活動が行われることになった。
 一九七七(昭和五二)年に「農業改良助長法」が改正され、従来の補助金から負担金制度への安定と農政の中における普及事業の位置付けが明確となり、また農業の担い手の養成が強調され、県の農業者教育施設(農業大学校等)が普及事業の中で運営されるようになった。こうした状況を踏まえ、水田利用再編対策の実施と相まって、普及事業は行政普及の道へと移行しつつある(「戦後の普及事業」については、愛媛県農業改良普及事業三〇周年記念会発行の『普及事業の三〇年』から抜粋)。