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伊予市誌

三、戦後の労働運動

 労働者の生活破綻と虚脱状態
 敗戦による戦時経済体制の崩壊と経済危機の進行は、国民の生活破綻と社会的混迷の度を深くした。生産の停滞と終戦処理の名目による通貨の放漫な流出は、闇価格の高騰も加わって実質賃金を低下させ、労働者の生活は混乱と破壊の様相を呈した。当時の労働者の月手取り賃金は三〇円から五〇円、米の闇値が一升(一・四キログラム)三〇円、いわしが一〇〇匁(三七五グラム)三円、大根が一〇〇匁六円五〇銭という状態で、労働者は僅かな貯金を引き出して食糧の購入に使い果たし、家財や衣料を売り食いしながら、飢餓寸前の生活を支えていかなければならなかった。

 労働組合の発生と伊予市職組の争議
 こうしたインフレと物資不足による生活への圧迫は深刻になり、企業に働く者は、生活の危機を自らの力で守るため各職域で組合が結成され、経営者と交渉するようになった。更に、社会情勢と総評など中央からの指導により、生活権を守ることをけじめ、権利や労働条件の改善を主張する方向に進展した。
 このように、組織の飛躍的発展と労働攻勢の高まりを反映して、争議件数は急激に増大した。労働攻勢の激化に対応して、経営者も次第に強硬な態度を取るようになり、争議は民間の「春闘」、公務員の「秋闘」と、例年諸要求を掲げ年中行事のように繰り返されるようになった。
 伊予市では、一九五五(昭和三〇)年一月一日、郡中町外三か村の合併によって市制を施行し、これらの役場職員はすべて、市職員としての身分に引き継がれた。しかし、各町村の財政事情により待遇がそれぞれ異なっていたため、一九五九(昭和三四)年三月、職員間の権衡と待遇改善を目的として、伊予市職員組合(執行委員長水口安男)が結成された。その後、市職組は再三市長に対して待遇改善を要望したが、財政事情の理由から受け入れられなかった。
 一九六一(昭和三六)年一〇月、全国的に報道された集団赤痢が当市に発生し、市の業務も窓口要員だけを残して、全職員が患者の収容や隔離所の作業に日夜勤務した。赤痢も治まった一一月、伝染病防疫手当の問題から職員間の不満と不平が極限に達し、交渉を通じて労働条件・給与の改善、職員間の権衡是正を要求したが、受け入れられなかった。そこで、市職組は大会を開き、ついに宣言して闘争に突入した。
 ちょうど闘争の時期が秋闘のときであり、大洲市職組の八五日争議の影響もあって闘争態勢が盛り上がり、ビラを家庭に配布するなど街頭宣伝を強化した。伊予市・伊予郡の地方労働組合はもちろん、総評愛媛県地方労働組合評議会や全国自治体労働組合愛媛県本部の幹部及び各市町村の職員組合の幹部などのオルグが連日市役所に詰めかけ、指導や応援をした。市庁舎前には、友宣団体の赤旗が数十本立ち並び、ポスターなどが貼られ、朝・昼・夜と組合員の歌う労働歌が流れ、郡中の静かな町での労働争議は、市民の耳目を驚かせた。ようやく市議会などが伸裁に入って、双方の意見を尊重し一応労働条件と待遇改善とを合わせた職員間の権衡是正をして、争議は一二月末に終わった。
 その後は、地方公務員法を遵守した団体交渉に基づいて、職員の勤務条件の改善が行われるようになった。また、市内の産業部門の組合でも、最低賃金確立を中心にした要求を掲げ争議行為が発生し労働攻勢を高めたが、社会経済の発展とともに賃金などの改善が図られ、争議行為も行われなくなった。