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伊予市誌

1 消防の沿革

 定火消
 古来我が国における消防の起源及び沿革については正確な系統的記録はないが、法学博士松井茂著『消防練習書』(大正一二年二月発行)によると、「慶安三年六月江戸幕府ハ火消役ナル専務ノ職員ヲ設置シタリ、之ガ目的ハ主トシテ廓内ノ火災消防ニ当ラシムルモノニシテ即チ常備的ノ組織ナリキ」とあるので、一六五○(慶安三)年三代将軍徳川家光の時代に設置されたようである。火消役は二組に分けて、幕府から各組に与力と同心を付属させた。当時、これを武家火消(一名定火消)と称していた。

 消防組
 本市においても消防に関する組織・設備などの起源については明らかな記録がない。旧各町村(郡中町・郡中村・南伊予村)の大正時代初期から昭和時代に至っての予算書又は消防組記録簿などの資料によると、古く藩政時代から水場と称し、大字(現広報区)ごとに三〇人内外の人員をもってこれを組織し、火災に際しては一本太鼓と称する太鼓を連打して警報の用をしていた。消火は水桶をもって水を運搬し、注水消火に努めた程度のもので、いったん火災が発生すると混雑と惨状が想像以上のものであったと記録されている。
 一八八七(明治二〇)年ころになって何か所かの民家(元庄屋など)に竜吐水・雲竜水(第135図)が設備されるようになった。
 竜吐水・雲竜水は一七五三(宝暦三)年に長崎の人がオランダ人の教授を受けて竜吐水(手突木製喞筒(ポンプ))を発明し、その後幕府においてこれを便利な消防機械として採用した。
 発明者は、官許を得て製作販売し、一七一八(享保三)年ころ逐次改良が加えられ雲竜水(木製手押喞筒(ポンプ))が造り出された。
 一八八〇(明治一三)年六月、はじめて東京市(東京都)に消防本部が設置され、消防の独立を見るようになった。その後、消防本部を消防本署と改めて呼ぶようになり、一方、時代の進歩につれて各地方に私設消防組の組織を見るようになった。一八九四(明治二七)年二月、勅令第一五号をもって消防組の規則が制定され、自治消防の基礎づくりが行われた。
 自治消防の設置については、県知事の権限に属し、市町村の申請によって設置することができた。同年一〇月、本庁地区(旧郡中町)に組頭一人及び小頭数人(警察部長の任免)、消防手(警察署長の任免)合わせて六五人の組織と腕用喞筒(ポンプ)三台、その他纏・高張提灯・鳶口・ホース・はしご・大槌・組員提灯・水桶・水杓・斧・刺又など一六六点の器具類(第136図の(2))を装備した消防組が設置された。つづいて、一九一〇(明治四三)年七月、中村地区(旧北山崎村)に組員数四五人、腕用喞筒(ポンプ)一台、その他付属器具類六八点、一九一二(大正元)年五月、上野地区(旧南伊予村)に、一九一三(大正二)年六月、本庁地区(旧郡中村)にそれぞれ村議会の議決によって、消防組が設置された。
 当時消防組は警察官の指揮に従って行動することになっていた。しかし、火災現場においては、警察官の到着までは町村長、又は組頭か小頭が警察官に代わって指揮をとっていた。警防などの区域は原則としてそれぞれ旧町村内のみとされ、他町村内の火災については警察署長、又はこれに代わる警察官の許可を得なければ応援出動はできなかった。監督については、警察部長、又はその委任を受けた警察署長に命じられた以外は、儀式訓練、災害のための集合運動、火災警防訓練などを行うことを禁じられていた。消防組が設置された当時のポンプその他付属品などの購入についての費用は、寄付金をもってこれに当てられていた。
 本庁地区(旧郡中村)の消防録によると、一九一二(明治四五)年三月、有志者の寄付金によって腕用三号喞筒一合を一二○円で購入し、一九一三(大正二)年五月、腕用二号喞筒一台を購入するとある。町村予算に計上されたのが一九一六(大正五)年で、旧郡中村予算書によると、警備費一五円(組頭、小頭、信号担当者、年手当一円)と記録にあり、一九二五(大正一四)年まで報酬、手当は同額であったが、備品類に係る予算は逐次増額し、字費などをもってこれらに充当されていた。
 なお、消防組の手当、被服及び消防組に必要な器具、建物などは、町村議会に諮問して県知事の裁定によって町村が設備し、なお、国、県の補助金などの財源も含めて運用されていたものと思われる。
 消防組の設置状況などは第80表~第82表のとおりである。

 警防団
 一九三七(昭和一二)年七月、日中戦争(日華事変)がぼっ発してから国防上、警防の完全を期さなければならなくなった。一九三九(昭和一四)年四月一日、防空警備の重要性が増し、従来の消防組では任務の遂行が困難になったため、勅令によって町村議会の議決で防空防災の任に当たる警防団が結成された。警防団は、戦後の一九四八(昭和二三)年消防組織法により、消防団と改称された。一九三九(昭和一四)年当時の警防団の状況は第83表のとおりである。

 消防施設
 一九一三(大正二)年から木柱製の警鐘台(高さ地上約一〇メートル)が各広報区(大字)に一ないし二か所新設され、一九二九(昭和四)年ころから大半の警鐘台が従来の木柱製から鉄柱製三角形の警鐘台に改築されてきた。
 また、防火用水(井戸・堀)は、一九一三(大正二)年ころから完備が急務とされ、人家の密集度によって各小字ごとに三立方メートル前後のものから五立方メートル前後の用水堀などが新設された。一九二三(大正一二)年には米湊地区に上水道が布設され、これに消火栓を七か所設置した。これが消火栓の最初であった。

 火災発生の状況
 一九二六(大正一五・昭和元)年及び一九三〇(昭和五)年の火災発生状況は第84表のとおりである。

第80表 消防組設置状況

第80表 消防組設置状況


第81表 昭和10年消防組状況(1935年)

第81表 昭和10年消防組状況(1935年)


第82表 昭和7年当時の消防組経費等(1932年)

第82表 昭和7年当時の消防組経費等(1932年)


第83表 昭和14年4月1日警防団誕生(1939年)

第83表 昭和14年4月1日警防団誕生(1939年)


第84表 年間火災発生状況

第84表 年間火災発生状況