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伊予市誌

2 微税制度の変遷

 旧藩政時代の税制は、年貢を正租とする本途本成(ほんともとなり)と運上・冥加などの年貢以外の営業税を雑租とする小物成(こものなり)とに大別され、土地に対して課税される年貢が中心で商工業者に比較して農民に過重なものとなっていた。
 明治維新当初も旧藩政時代の税制が継承され、米による物納が行われていた。しかし米は年によって収穫に差があり、また地方によっても税率がそれぞれ異なっていたため政府の収入は不安定であった。このことから税負担の公平と安定した収入を確保することにより新政府の財政基盤を確立するため、土地所有者に地券(所有者の名前、面積、地価、地租額を記入した証書)を交付して土地の所有権を認め、課税の基準を収穫高から地価とし、米を現金に替えて納める地租改正法が一八七三(明治六)年に公布された。
 しかし政府の収入が減らないように地価を高めに設定したことや地租を物納から金納としたことから、米を換金する際に商人から買いたたかれるといったこととが相まって農民の生活が窮迫して不満が高まり、各地で地租改正反対の農民一揆がぼっ発するなどの反対運動が起こり、政府は一八七七(明治一〇)年に地価の三%から二・五%に地租を引き下げた。
 一八七五(明治八)年に国税と地方税との区分が明文化され、一八七八(明治一一)年には府県税を地方税として府県財政と町村財政との区分も明確となった。この時には、地方税の大半が国税の付加税で町村税の大半も地方税(府県税)の付加税とするものであった。
 一八八七(明治二〇)年には、農民と商工業者とか資産の保有等に応じた負担の均衡を図る目的で所得税が導入され、経済の発展に伴い税収の増加が期待できるようになった。
 一八八八(明治二一)年には、市制及び町村制が制定されたことに伴い市町村税も明文化され、また一八八九(明治二二)年には国税徴収法が制定されて地租と所得税や営業税などの国税の徴収が市町村に委託された。
 一九〇四~一九〇五(明治三七~三八)年の日露戦争は多額の戦費を必要とし、そのため、政府は第一次・第二次非常時特別税により地租や営業税、所得税、酒税など税目ごとに増税が行われた。
 日露戦争終結後も財政の規模は縮小せず非常時特別税法は継続され、相次ぐ増税に国民の負担は増加し、府県や市町村の財政にも大きく影響し滞納が増えてきたため、この対策として各地に納税組合が設立された。
 郡中村においては、一九一一(明治四四)年税収の確保を図るため、納税組合による納税を奨励する納税奨励規程を制定して納税を奨励した。

     郡中村納税奨励規程
  第一條 諸税金ヲ指定期日迄ニ完納シタル納税組合ニ対シ本規程ニ因リ奨励金ヲ交付ス
  第二條 奨励金ノ交付ヲ受クベキ納税組合ハ左ノ資格アルモノニ限ル
   一 各部落ノ範囲ヲ以テ組織シタル組合(後略)
     明治四四年納税組合設立時の郡中村の記録
   「町村の事務の最大多数を占むるものは納税の事業にして若し村内において之が滞納者多く、為に事務の渋滞を来たさば延て一般事務の渋滞を惹起し、折角の有利なる事業も之放任するの已むなきに、至らしむ。本村は茲に見る所あり、近く納税組合を組織せしが、其の成績良好にして一人の滞納者もなきに至れり。之実に歓ぶべく祝すべきなり。希くはこの美風の永続して緩まざることを」

とある。
 一方、当時の郡中町の記録には、

   「何時の頃よりか納税渋滞の悪風広まり、従って行政機関の運転自由を欠ぎ、町発展を阻害し、郡の中心として誇るべく謳ふべき当町は、却って他に遜色あるに至れり。」(下略)

とあり、税務行政の重要性と困難性が述べられている。
 納税組合による納税は、二〇〇一(平成一三)年に個人情報保護の見地から納税奨励制度が廃止されるまで徴収税確保に寄与してきた。
 一九四九(昭和二四)年には、我が国における長期安定的な税務行政の確立を図ることとしたシャウプ勧告書が提出された。この基本原則は一九五〇(昭和二五)年の税制改革に反映され、国税と地方税にわたる税制の合理化と負担の適正化が図られてきた。
 その後の高度成長は、企業利益の増大をもたらした。また、個人の所得の伸びや納税者の増加等に伴い、コンピュータ化による事務処理や課税の公平を支える税務調査の充実などの改善が図られている。
 徴税については、納付組織への納税奨励制度の廃止に伴う徴収対策として、納税者がその都度に納めに行かなくても自動的に引き落としができる口座振替を促進していくなど効率的かつ効果的な収納対策と滞納整理を通じて、税の公平・公正を確保し、期限内納付の基盤を確立することにより滞納を圧縮して収納率の向上に取り組んでいる。