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伊予市誌

1 財政規模と住民負担の推移

 我が国に初めて近代的な地方制度として、一八八八(明治二一)年に市制・町村制が施行された。翌年四月一日から財務に関する制度は、費用・収入・財産・予算・決算・出納及びその他に区分され、近代的財務に関する制度として、また以後における基礎的な財務会計制度としての形成を見るに至った。こうして市町村においては、これらの制度によってそれぞれ財政が運営されたものである。旧南伊予村の明治から大正年間の決算書は次のとおりであった。
 一八九三(明治二六)年の事務報告を見ると、村長の一か月の報酬が七円、助役は六円、収入役は七円であり、書記は日給一六銭から二〇銭のものが四人であった。教員の給料は正教員が九円から一〇円、準教員は四円の決算がなされていた。
 歳入額一、八一三円一九銭六厘のうち、町村税は一、一七九円三四銭で歳入に占める割合は六五%となっていて、国からの交付金は国税取扱高の百分の四に当たる六円三〇銭二厘のわずかな額であった。そのほか歳入のうち学校の授業料を徴収しているが、一人一銭五厘から二〇銭の段階にわけて徴収されていた。
 歳出は、役場における報酬・給料等人件費が一、〇四一円七銭三厘、学校における教員等の給料が六一三円三銭六厘で、合計一、六五四円一〇銭九厘となり、歳出に対する割合は実に九一・二%を占めていた。
 郡中村の明治・大正年間の精算書は次のとおりであった。
 一八九四(明治二七)年には臨時費としてため池の修理をしているが、その費用の四、一九〇円三二銭八厘は全額を大字部落からの寄付金でまかなわれており、当時の土木事業・教育施設などは税の外に住民負担でまかなわれていた。
 大正年間には、財政規模はあまり大きな変化は見られないが、大正九年頃からかなりの増加を示している。
 当時の農産物の記録を見ると、一九一八(大正七)年以前の数年間は、農産物の価格は非常に低廉であって、米一石が一二円・麦一石が六円位で農村の経済状態は、悲惨なほど窮乏に落ち入った。
 一九一八(大正七)年七月から、米一石が三六円・麦一石が二二円となり、更に、大正八年一二月には米一石が三二円となったが、大正九年四月から暴落し米一石が二四円となったので、経済状態は非常に不安定であった。
 一九二一(大正一〇)年の郡中村役場三役の報酬と給料を見ると、村長の年俸が三六〇円、助役と収入役はそれぞれ三三六円となっていて、明治中期ころの約四倍の報酬が支給されていた。
 郡中村においては一九一七(大正六)年から、南伊予村においては一九二一(大正一〇)年から、決算は厘単位でなく銭どまりの決算がなされるようになった。

第48表 旧南山崎村の村税の収入状況

第48表 旧南山崎村の村税の収入状況