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伊予市誌

7 平岡部落の境界変更

 境界変更を必要とした事由
 当該地域は、中山町の北端、中山町役場から約八・五キロメートル、同佐礼谷支所から約三・九キロメートルの地点にあって伊予市に突出隣接しており、伊予市大平支所、同農協・園協及び小・中学校までが約一・五キロメートルに位置しているため、生活必需物資の購入その他地理的に密接な関係があった。また、同区域内の住民の大部分は、果樹(みかん)栽培に従事し、その耕地も伊予市大平地区の果樹園に隣接しているため、全員伊予市の園芸協同組合及び農業協同組合に加入し、生産物の協同販売を実施しており、伊予市とは密接な関係にあった。
 児童生徒においても一部は、伊予市南山崎小・中学校に通学するほか、人情・風俗においても共通していた。

 境界変更に至るまでの経緯
 一九五五(昭和三〇)年二月一日、旧中山町及び旧佐礼谷村の町村合併に際し、当該地区住民は、旧佐礼谷村から分離し、伊予市への編入を強く要望したが、「境界変更については、県において、町村の境界変更統合整理実施の際処置する」旨の協定のもとに、旧中山村と旧佐礼谷村との町村合併が実施せられた。
 爾来、当該地区住民は多年の要望と、町村合併実施の際における協定事項である境界変更の実施方を町当局に陳情した。町当局でも住民の福祉増進の精神にのっとり、円満解決をみて一九五八(昭和三三)年九月二九日、中山町及び伊予市議会において議決された。この時の議決書は次のようであった。

  議案第五六号
     市の境界変更について
   伊豫郡中山町大字佐礼谷字越木丙六一八番地から六二二番地まで、字平岡丙六二三番地、字越木丙六二四番地の一、六二四番地の二、字平岡丙六二五番地の一から六二八番地まで字越木丙六二九番地から六三五番地まで、字平岡丙六三六番地から六四九番地の四まで、六五一番地から六八一番地まで、六八三番地の一から七一一番地の一まで、七一一番地の三から九一二番地まで、一三三一番地、一三三二番地、字タカツキ第九号三一番地から三五番地まで、四〇番地、字大クビ第九号七四番地から九九番地まで、字スミトコ第九号一〇〇番地の一から一五五番地まで、
   一八一番地甲、一八二番地甲、一八三番地甲、一八五番地、一八七番地から一九〇番地の二まで、一九五番地の一から一九八番地の二まで、二○三番地の一から二三一番地の二まで、字コモケ谷第九号二三二番地の一から二四九番地まで、字スミトコ第九号二五〇番地の一から二五五地まで、字コモケ谷第九号二五六番地から二九七番地まで、字ハノラ谷第九号二八〇番地の一から三四五番地の二までの区域(通称平岡)を伊豫市に編入し、昭和三三年一一月一日から施行することを愛媛県知事に申請するものとする。
    昭和三三年九月二十九日提出
                    伊豫市長 城 戸 豊 吉

 これと同時に前記区域を伊予市に編入する場合において、中山町の同区域に所在する一切の財産(権利義務)は伊予市に編入と同時に帰属する旨の議決をも行った。
 以上の経緯によって一九五八(昭和三三)年一一月一日から平岡は伊予市に編入され、鵜崎の一部は砥部町へ分離し、それぞれ愛媛県告示第八三四号をもって平岡部落の境界変更と愛媛県告示第八三五号をもって鵜崎部落の境界変更が行われた。
 境界変更後における面積・戸数・人口は次のとおりとなった。

境界変更後

境界変更後