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伊予市誌

2 背後に山を負った農村集落

 八倉から森・三秋・大平にかけての山腹やふもとの各所に、古墳が発見される。これは先史時代すでに人間がここで狩猟や漁ろうをして生活していたことを示すものである。
 時代の経過につれて山の前面に開けた平地に移動し、稲作と畑作や林業を行う地域・稲作と畑作の地域・稲作に漁業を兼ねた地域・稲作を主とする地域などが出現し、そこに集落を形成していった。
 肥沃な土地と温暖な気候は農耕の進展をすすめ、律令時代の条里制実施にあたっては、下三谷付近を南限とする条里、別に北山崎地区に独条が設けられたことが明らかに残され、耕地の整備が進んでいたことを物語っている。すなわち、伊予市における「保乃木」にそれを見ることができる。下三谷には、北口田・中口田・南口田・北十四・十八・中十四・南十四、四反地・五反地・八反地・九反前と呼ばれている小字名があり、宮下や八倉にも、三反地・五反地・七反地・八反地・一丁地、中うね・一のうね・二のうねなどと呼ばれている所がある(松山商大図書館蔵「伊予郡保乃木」)。
 第43表一八三一(天保二)年の「郡中邑々家数人数控」と第44表一九五五~二〇〇〇(昭和三〇~平成一二)年の「伊予市の集落別の人口」を比較して考えてみると、藩政中期には南伊予地区・郡中村地区の大生産地を中心に次第に周辺に及び集落の戸数、人口がほぼ固定化されてきたことがうかがえる。これを一八三一(天保二)年の家数と二〇〇〇(平成一二)年の世帯数で比較してみると、鵜崎が〇・三と減少したが、下三谷、両沢、上唐川、下唐川、三秋が一~一・五倍の増加が見られるほか、灘町の五・六倍、産業構造・道路整備などの変化に伴う住宅群や人口増加によるものとして米湊の一八・四倍、公営などによる住宅の増加による中村の三・五倍、尾崎の九・九倍を除くと、ほかは二・二~二・八倍と増加している。
 今後は、少子・高齢化の影響による人口の減少が予想され、道路網の整備、産業界の変化などにより、従来の集落も徐々に変化していく可能性をもっている。

第43表 郡中邑々家数・人数控・1831(天保2)年

第43表 郡中邑々家数・人数控・1831(天保2)年


第44表 伊予市の集落別・年次別の人口

第44表 伊予市の集落別・年次別の人口