データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

4 唐川の砥石

 古く藩政時代から行われて明治時代に最盛期を呈したものに、唐川の砥石がある。

 砥石採掘業 
 一八五四(安政元)年に上唐川村庄屋影浦喜右衛門為従が自分持の山林である砥ノ谷において、砥石があることを発見し、一八五八(安政五)年四月この砥石を大洲藩主に献上した。藩主はこれをよろこばれ、直接砥石の掘り採りを経営して、一年間の産額は二万五、〇〇〇個であった。廃藩置県の際官有地に編入されたので、続いて上唐川村村民から借地の許可を受けて事業を継続した。一八七三(明治六)年影浦定次郎というものが、この官有地に接する自分の所有山林において同業を開始したが、一八八四(明治一七)年には郡中町の梶野重郎に売り渡した。一八八六(明治一九)年一〇月一四日、影浦定次郎は官有地内へ新たに借地の許可を得て、上唐川村山と並行して事業を再び継続していたところ、一九〇七(明治四〇)年に国有林特別処分が行われたとき、払い下げを受けて民有となった。
 一八八〇(明治一三)年に両沢の白滝山において村民が新たに発見して、砥石の事業を開始した。その後、両沢や上唐川では各所に石脈を発見し、この事業を盛んに営んだ。
 当時の産地・産額を示すと第40表のとおりである。
 これらの砥石は、郡中港から大阪・広島方面に積出され、全国各地に送られた。一九〇九(明治四二)年には五万五、〇〇〇挺大阪方面に積出されている。
 砥石の副産物として、その色が虎皮に似ていたことから名づけられた虎硯は影浦氏と伊予砥業組合(明治二三年発足)との共同事業で、これも盛んに生産していた(『南山崎村郷土誌』明治四三年作成)。
 また、明治時代中期ごろ、唐川砥の販売先についての問題が起こり、製砥者と砥石業者(問屋)・買受人の間に取り決めが行われている。その契約書によって当時の唐川砥の一端をさぐることができる。

   契約書
 今般下浮穴郡砥部村大字外山同郡原町村大字大角蔵、伊予郡大字上唐川両沢、鵜崎産出の砥石は従来大阪市小山弥一郎氏へ専ら売り渡し来りたる所、近年間に全店の外に売り渡すものあり。之れがため販路を乱し、価格非常に下落を生じ、製砥家一般に損害を蒙り、その極、竟に損害を償わざるに至る。製砥家中の有志大いに憂慮し、之れが挽回を謀り、茲に製砥家一結申し合わせ小山氏に請うて一定便利の売買をなすことを得たり。依って同氏は製砥家の間に左の規約を設け、正実以って遵守する事を約せり。

第一条 本契約に記名調印する製砥家諸氏の自製又は宛て付けに拘わらず、その持山借区等の諸氏の関係する総ての砥石は小山弥一郎氏一手に売渡すものとす。

第二条 砥石の寸角品質は豫て小山弥一郎氏と各村総代諸氏が協議決定したる見本を小山出張処に備え置くものとす。之れより廉悪なるものは売買の目的となすを得ず。

第三条 買受人小山弥一郎氏に於て販路の広狭を謀り、製砥家諸氏に於ては疎造乱出の弊を防ぐため、事毎売買すべき石数を予定す。
一 外山上石間石赤星とも大砥    二万九、二九一挺八厘
二 上唐川上石間石赤星柳とも大砥  一万六、八七九挺六分一厘
三 両沢上間石赤星とも同      四、九六四挺五分九厘
四 大角蔵上石間石赤星とも同    三、九七一挺六歩七厘
五 影浦定次郎氏上石間石赤星とも  六、九五〇挺四歩山厘
   但し外に六〇挺は別に出砥する事
六 梶野重郎氏上間石赤星とも同   八、四五〇挺四歩三厘
   但し外に六〇挺は別に出砥する事
七 灘井平吉氏上間石赤星とも    一、五八九挺八歩六厘
八 鵜崎上石間石赤星共       二、五〇〇挺
                  此石高七万四五九七挺六分七厘
 引渡しは概して毎年平均し、厚薄なからしめんため、各村惣代諸氏は豫め協議をなすべきものとす。また赤星砥は惣石数の一割即ち七万四、五九七挺六分七厘の内七、四五九挺七分六厘七毛を超過するを得ず。

第四条 第三条に予定する石高は臨時増減せらるべきものとす。
一 石数増加買請人の請求により臨時約定するを得
二 買受人に於て所蔵未売高一万六、〇〇〇挺を超過するときは、その超過したる石高は第三条予定買約高を減除するを得
三 各村惣代に於て、未買高の調査をなすの権を有す

第五条 第四条二項に規定する減石高は買受人の通知に専従し、敢て故障なきものとす、減石各村持主への割当者第三条出石予定高に準ず

          中  略

第二四条 本売買契約は明治二三年九月より明治三四年八月まで十か年間継続維持するものとす。当期限満了後尚本契約に基き売買するを得
 以上の条項は本契約者に於て反覆熟考し相当なるを信じ、後日異変なきを保するため、各自記名調印し、且、正本九通を作り外山、上唐川、両沢、大角蔵、鵜崎名惣代諸氏影浦定次郎、梶野重郎、灘井平吉の各持主諸氏小山弥一郎氏に於て各一通を処持するものとす。
  明治二三年九月
      伊予郡々中町大字湊町  売請人  梶野 重郎(印)
      伊予郡々中町大字灘町  売請人  灘井 平吉(印)
                  売請人  影浦定次郎(印)
      伊予郡々中村大字両沢  売請人  影岡馬五郎(印)

第40表 唐川砥の産額表

第40表 唐川砥の産額表