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伊予市誌

1 本郷の塩田

 『北山崎郷土誌』によると一九一〇(明治四三)年ころには、本場・付属建物二五坪のもの三、六〇坪のもの三、三六坪のもの一を持ち、焼がま(高さ六〇㎝・長さ三・六m)を三か所築き自宅で製造していた。塩田面積は一町七反六畝二八歩(約一七六アール)でその産出額は一万一、三一〇石に及び、漸次盛大になって今日に至った。と記録されている。この塩田は第125図のとおり明治時代後期盛んに製造され、大正時代まで行われていたようである。
 本郡での製塩方法は入浜式塩田であり、海岸に堤防を築いて海水の不用な浸入を防ぎ、地盤は干潮の中位とし、一部に溝を掘って取入口から海水を通じた。毛細管現象で塩田に上昇させ、表面に散布した砂に付着しやすいようにした。砂は日光と風で水分が蒸発し「かん砂」となる。時に潮水を「呼び水」と称して掛け、このかん砂を沼井台に集め「藻滴水」を掛けて「かん水」を得る。その濃縮塩水を「せんごう」して塩となるのである。「せんごう」とは濃縮水を釜でたいて塩を得る方法である。釜には竹製のあじろ釜、土釜、石釜、鉄釜があったが、当瀬戸内一帯の一〇州塩田では扁平な石を利用した石釜が主に使われていた。本郡塩田もこの石釜を利用していたようで、現在も石釜に使っていた釜石が残っている。