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伊予市誌

2 明治以降の備荒制度 (郡中貯)

 明治維新後も郡中貯の制度は存続され、一八七一(明治四)年廃藩置県となった際、ほとんどの旧各藩の備荒貯蓄制度は廃止されたが、郡中貯は金穀を各町村に分割しないで、そのまま組合(共有物組合)を維持して業務を続けた。なお、一八七二(明治五)年には、旧藩主加藤氏が大洲より東京に移住するに際しては、郡中貯より献金している。
 また、この頃、郡中町老宮内惣衛は郡中貯より積立米を分離して、藩政時代の積立金を合わせて取り扱ったが、後にこの基金によって郡中銀行が創設される事になった。特に注目されることは、一八七二(明治五)年の学制令発布により明治六、七年頃は、各貸付の外に学校建設のため、さかんに貯金が利用されていることである。
 一八七六(明治九)年の「金方貸付勘定帳」によると、学校資本金一、八五〇円の利子、村々への割り渡しは三七〇円八厘とあり、また陶かん(さんずいに閒)学校(砥部小学校の前身校の一つ)へ一〇〇円、鹿島学校(北山崎小学校の前身)へ五〇円と学校費のために貸し付けている。なお、一八七四(明治七)年にも、山崎学校(旧郡中小学校の前身)へ地処代として貯金四二円を渡している。
 一八七七(明治一〇)年、共有物届出による郡中貯えの現在高を『愛媛県誌稿』によって見ると左のとおりである。

   一、米千石 非常準備として寛政七年旧高制を以て取立利殖せし分
   一、金二千五百七十円二十四銭四厘四毛
      前同断、天保五年より五か年に取立て利殖せし分
   一、粟九百七十一石一斗二升五合
      前同断、天保七年より利米代金を以て買入れ、凶年の際村々へ配当残余利殖の分
   一、干飯四石二斗七合
      前同断、天保三年より製造の分
   一、倉庫五か所(建坪百三坪)
   一、家屋三か所(建坪百一坪)

 これら備荒貯蓄はいうまでもなく、困窮者救済を目的としているものであるが、その運営は江戸幕府の治政の原則である相互扶助の形で行われていた。すなわち、農民に対しても還元の形が取られており、長期に渡って多くの人々が金穀の援助を受けてはいるが、一方藩に対しても還元が行われた。
 そして藩からの援助はあったものの、ほとんど農民の負担によるものであり、毎年年貢米の形で納入することは、農民にとって相当の負担であったものと思われる。
 さて、前述のようにこの制度はほとんどの地方では明治初年にこれを解体したが、郡中貯えの本領は、むしろ維新後に発揮されたといっても過言でなく、明治―大正―昭和へと及び、各町村は長くその恩恵を受けたので、その点県内でも数少ないものである。また、その業務も凶作の救済は勿論のこと、その他、産業組合への貸し付け、各地域の人々への貸し付け、道・橋の修築費、債券の購入、溜池の改修費、学校建設資金等に及んでいた。
 なお、一八七七(明治一〇)年以降における主要関係事項を列記すると、
 一八八一(明治一四)年備荒貯蓄法の発布により施行細則を定める。
 一八八三(明治一六)年一二月、貯えの金穀に関する規約を作成する。
 一八九〇(明治二三)年市町村制の実施により貯え共有物の分配と組合(各村の共有物として)の維持の決定、すなわち郡中貯えの継続と再び規約を制定し、その事務の管理を部長に委託する。
 一八九六(明治二九)年三月、農会設置基準が制定され、同三月~六月までに町村農会、八月までに郡農会を設置する。
 一八九七(明治三〇)年伊予郡役所内に伊予郡農会を置く(この頃、郡農会が郡中貯えの管理権を持つようになったと思われる)。
 明治末期の米麦貯蓄高は七〇〇石、貯蓄金三万余、四分利付きで貸し出しをしている。また、五、〇〇〇円を最低額として高等教育を修める者のために教育資金として貸与することになっている。なお、貸与金額は一人に付き一二〇円程度である。当時の委員は、阿部倍太郎・永井貞市・影浦義幹の三人である。
 一九一四(大正三)年末の貯え財産調べ
  玄  米 七〇〇石
  現  金 三万八、一一一円八銭八厘
  価格合計 (現金およびその他時価換算)
       五万四、六七三円五八銭八厘
 一九三一(昭和六)年伊予郡農会の経営していた郡中農業倉庫―お貯え倉庫―が南伊予産業組合の経営となる(同年七月三一日)。
 こうして、この制度は長らく存続したが、我が国も戦時体制となり一九四〇(昭和一五)年米穀の国家管理が実施され、遂に解消していった。なお残されていた貯え倉庫も、一九四六(昭和二一)年一二月の南海大地震のため、倒壊して取り除かれ、今、往時をしのぶものは何物もない。

第36表 郡中貯分配金額

第36表 郡中貯分配金額