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伊予市誌

5 宇和島県・松山県への移行

 大洲県移管 
これまでの県を廃し新県を置く太政官布告は、一八七一 (明治四)年一一月一五日に発せられた(『太政官日誌』明治四年九五号)。これによって大洲県のうち、伊予郡の一部・風早郡は松山県に、喜多郡・浮穴郡・伊予郡三八か村三町は宇和島県に所属することになる。しかし、このことの大洲県での管内布達は一二月に入ってからであったので、しばらくは新県と旧大洲県との名による民政が続けられた。
 事務整理に日数を要したと見え、権大参事口分田盛美は、一八七二(明治五)年三月二二日喜多郡・浮穴郡を宇和島県に、同月二七日風早郡・伊予郡を松山県に交付して、移県を滞りなく完了した。郡中地方も松山県として実質的な新政が始まるわけである。

 新谷県移管 
 新谷県でも一八七一(明治四)年一二月二五日管内に宇和島・松山県への移行を布達した。一八七二(明治五)年三月二四日、旧県引き渡しの命により大参事徳田儀一は大洲県庁に出頭、一切の事務を宇和島県権令に交付した。
 このようにして大洲県・新谷県は、その使命を終わったのである。