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伊予市誌

4 大洲若宮騒動

 流言飛語 
 大洲若宮騒動というのは、廃藩置県後大洲領全郷村民が、諸種の泣言に端を発して、知事罷免は大参事山本尚徳の陰謀なりとして、大参事退任・知事復職を強訴するため大洲若宮河原に屯集した騒動である。廃藩から騒動ぼっ発に至る間には、郷中には種々の流言が飛んだのである。大洲藩(県)が政府の方針に忠実に実施した種痘は、行事事務としてはむしろ極めて整った企画によって急速に進められた。手際よく進めたことがかえって農民の疑惑を買い、血や油をとるためだとか、唐人の餌食にするためだとかいう流言を生み、洋医排斥の風潮をあおりたてた。郡中出役所民事庶務方であった豊川渉の『大洲騒動略記』(以下郡中関係はすべてこの史料による)によれば、郡中方面でも、知事の帰京といい戸籍調べといい、これはみな山本大参事の処置で、戸籍改めはその生まれ年によって外国へ借金の質として渡されるなど、流言がしきりであったという。
 当時大参事児玉精・権大参事口分田成美はともに東京駐在であったため、その責はすべて大参事山本尚徳にかかっていた。

 騒動ぼっ発と郡中勢 
 八月九日早暁農民らは立ち上がった。まず川下方面の手成村・戒ノ川村農民が出動し、これに八多喜村・春賀村が加わり、東宇山村・五郎村も応じて若宮河原に屯集した。この夜は一七か村といわれる。翌一〇日早朝には長浜も来着、以後小田・内山地区も陸続参集した。
 郡中方面は一〇日から動き出した。午後二時ごろ三秋村の者から出役所に内報があり、下方五か村が大洲に行くため稲荷社に集合した由であった。加えて上方各村も不穏の風聞があるので、出役所在勤者は諸村に出向いて説諭することになった。しかし農民らは「大洲へ行けばわかる」と強弁し、納得するどころではなかった。

  既ニ下方諸村ハ一家必ズ一人ズツ蓑笠竹槍ニテ、村名アル幟ヲ真先二大洲街道ニ向カツテ押出シタリトノ報アリ、同時上方各村ニ於テモ、同ジク一戸一人出デザルニオイテハ焼打ツベシトノ脅迫ニヨリ、遂二灘、湊両町モ焼打ヲ恐レテ、ソノ理由ノ如何ヲ問ワズ同行スルニ至リシ事。

 出役所長の大属中村惇は、一村でも説諭して引き止め、やむを得なければ郡中だけは町郷一体にまとめようと、病を押して大平村大地蔵に出かけて農民らに呼びかけた。しかし彼らの聞くところとならないので、中村は豊川・正岡両名の部下に農民との同行を命じた。既にこのときは一一日の夜明けになっていた。
 中山に着いたころ先方から四、五人が来るので尋ねると、鉄砲を取りに戻るのだという。また後から来た者が火縄銃を持って追い抜いて行く。訳を問うと、「大洲ヨリノ報ニ、敵ハ大参事ヲ始メ官員ナレバ、知事様ノ御味方シテコレヲ打払ウ為二鉄砲ノ必要アリトノコトニ持参スルナリ」と答えた。この日夕刻郡中勢は若宮河原の屯集に加わった。
 事態の収拾に苦慮した大参事山本尚徳は、一〇日には元知事泰秋に善処方を願わないわけにいかなかった。泰秋は次の人々に取扱掛を下命した。
  加藤玄内(元家老、隠居)
  中村俊夫(前大参事、明治四年一月隠居)
  森脇守志(前大属、元郡奉行)
  滝野佐衛(前小参事、元郡奉行)
  吉田素水(小参事)
  梶原郡平(大属、元用人)
  染木正平(隠居)
 町会所を泰秋の出寮と定め、右の掛やその他近侍者がここに出動した。

 八月一二日 
 雨。この日加藤玄内・森脇守志・堀広馬(家扶、前権大参事)・染木正平らは、若宮村里長(庄屋)桧田卯八郎宅へ出張、農民ら取り扱いの手順をつけた。村役人らを一村から一両人ずつ呼び出し、彼らの言い分を十分に聴取した。願い筋は願書をもって願い出るよう、また言いにくい分は目安箱に投入するよう、懇談と説諭するところがあった。春賀村を含む川下村方からは願書を提出した。
 一方県庁では協議が重ねられていた。泰秋もこれに加わった。探索係を出すことになり、豊川渉がこれに任命された。豊川は若宮村で下吾川村勝蔵に出会い、平素侠気ある者なので、この男に屯集農民一般の挙動探索を命じた。豊川は勝蔵の親戚という若宮村新町の飲食店倉吉の家に入り、その二階から店に出入する者の動静をさぐった。一人の僧侶が入って来ると農民から声をかけた。「和尚ハ何日来着アリシヤ、殿様ノ御機嫌ハ如何ト問ウト、僧答エテ曰ク、知事様ハ御別条ナク町会所二御座アルガ、御身タチ第一二水ニ用心セラレヨ、今モ川下ニ死シタル魚ノ流レルヲ見タリ、井戸ニモ毒ヲ入ルト告グ、百姓ノ曰ク、了承候、私共一同ニ今日五ツ時(午前八時)御城内ニ来レトノコトナリシモ、大砲ヲモツテ撃タレルノ恐レアレバ、一人モ是二応ズルモノナシ」など互に「扇動」の言を発していた。やがてもどった勝蔵は屯集農民の考え方を次のように報告した。

  郡中ニニテ想像セシ処卜大イニ相違シ、知事様ノ御為メニ官員ヲ敵トシ大参事ヲ打殺ス筈ナリ、然ル時ハ隣国ヨリ官軍ニ加勢アルペシ、ソレヲ打取ル、次ハ太政官ヨリ討手来ルべシ、ソレニモ敵対シ、終ニハ外国人卜戦ウノ覚悟ナカルベカラズ、今日中ニハ御領内悉ク揃ウ故ニ、第一ニ御城ヲ取巻クコトトナルベシ、シカシ御城外ニ地雷火ヲ伏セアリトノコトナレバ、注意ヲ要ストノコトナリ、

 立て連ねた農民の仮小屋では、一個所でときの声をあげると各小屋ともこれに応じ、発砲があれば各小屋また発砲して、四方にこだまして騒然たるものであった。農民らは昼夜こうして気勢をあげた。

 八月一三日 
 晴。この日青島からも到着して、村々は勢揃いとなった。忽那島だけは参加しなかったが、総勢二万人余と称せられた。若宮河原の上下一〇町余には、五〇余の小屋がかけられた。社寺の幕をうち回し高張堤燈・幟をたて、祈祷札を数多く飾った。まるで陣屋のようだという者もあった。小屋掛けのために、若宮村の御用藪や五郎村の竹藪も切り尽した。同勢の動きに対して、大野直都は『河原夢噺』に、これまでの騒動とは大いに事変わり、上を恨むというのでなく、山本大参事の政事を憎み、大参事の首を望み、また蘭医を除き人別(戸籍)を拒絶するだけで、「衆人皆一致の事にて頭取等は一向これなく」と記している。
 この夜も加藤玄内・染木正平・永田佐中三人が若宮河原に出向した。無刀・上下・はだしといういでたちであった。河原に幟を立て、元御家老加藤玄藩(玄内)ほか用人方が世話をするから、皆の思惑をこの幟にしかためよと命じ、別に目安箱も設置した。

 八月一四日 
 晴。この日は小屋中静かであった。森脇守志・谷衛門七(旧代官)が河原に出向、一統の説得に当たった。明日は殿様の出馬があるので静かにするよう、特に言い含めるところがあった。鬨の声や発砲などは聞かれなかった。
 この夕刻、郡中の里長某とその弟五本松村の某は、下宿で切腹をばかり大騒ぎとなった。幸いに浅手で、鎌田玄岱の治療で事なきを得た。

 八月一五日 
 晴。泰秋は午前八時供揃えで、若宮村里長宅へ出馬した。お供は加藤玄内・加藤自得・滝野佐衛・森脇守志・堀広馬・染木正平・谷右衛門七、そのほか老分の人だけを召しつれた。正午には河原に出馬、三、四か村(小村は一〇村ほども)を一たてとして、幾たても順次諭解することになった。その次第は、泰秋が馬上で歎願向きは逐一披見する旨を申し渡し、次いで宮脇・滝野から泰秋の諭旨を敷延して演説、歎願書を受け入れ、最後に泰秋よりすみやかに帰村するよう諭すという手順で、これを何回もくり返した。村々は幟を先頭に寄せ場に進み出たが、第一番は郡中勢で、これは三組に分割された。願書は郡中一まとめ一通として提出した。次の二箇条であった。

  一、知事様御帰京御止リノ上、大参事ノ御職ナリ共仰セヲ蒙ラレタキ事。
  一、戸籍改メハ従前ノ宗門ニテ御済マセ下サレタキ事。

 次いで目安箱が出されたが、郡中の村々も八か村が投入したという。
 中村大属は、郡中民は旧知事対面を機として、郡内勢には関係なくすみやかに撤退するよう、その取り扱いを豊川らに命じた。豊川らは灘町宗平・下吾川村只吉両人にあっ旋させた。郡中勢は納得したが、郡内にさえぎるものがあって決定しなかった。二人の必死の奔走に、夜半過ぎようやく「郡中ハ郡内トタトイ如何様ノ騒動ヲ起コスコトアリトモ、明早朝必ズ引払ウベキ旨確答」した。こうした折、大参事山本尚徳自殺のおもむきを知り、騒動は一挙に終結してしまった。

 郡中騒動 
 (一名竹槍騒動)若宮に集結していた農民らは、八月一六日午前四時前には、はやくより引き上げを決意していた郡中勢を先頭に、陸続と引き払って行った。郡中勢は引き上げには各村分離して、随意の行動をとるということであった。豊川渉は郡中勢と同行して帰任することを命ぜられていた。新谷・内ノ子などでは、引き上げる郡中勢に対して、町役人が町口に出て慰労のあいさつをし、町家店頭には提供の湯茶・香の物・わらじなどが並べられていた。
 郡中勢は撤退行動も整然としていたので、豊川は安心して随伴していたのであるが、市場村近くに帰って来ると、皆早く出よ、灘町にかけつけよ、遅れる者は後難あるべしと叫んで奔走する者に出会い、急ぎ三島町の端に出て見ると、遊廓のある一面の灘町新地に当たって土煙が上がり、鬨の声が聞こえた。打ちこわしと気付いた豊川が宙をとんで現場に出た折は、既に家二、三軒を破壊し、おびただしい暴民の波であった。港内の船から大綱を徴発して天神社の松につなぎ、一方を建家にかけて引き倒し、衣類・家具を破りすて、瓦一枚までも砕きつくす暴状であった。豊川が出役所に戻ってみると、中村大属はまだ帰着していなく、留守役人は何の対策も立てていなかった。民衆は新地を破壊しつくし、町内を襲い出役所を目指していくという風聞であった。出役所吏員は小人数での防衛は不可能であるとして、彼らの為すに任かせるよりないと一決していたが、その襲撃は免かれた。
 新地の一部は遊廓と否とを問わず全滅させられ、その他町内で遊廓より衣類など預かっていると認められた家も災難にあった。また三島町の近藤某(遊廓の発起者で取り締まり)も襲われ、家は半壊、衣類はことごとく破棄された。更に灘町在勤医大高某、灘町開業医馬嶋某の宅では、建具は破壊され薬品はまき散らされた。そのほか乱暴を受けた家は二五軒に及んだ。民衆の乱暴は一七日未明まで続いたが、しだいに退散した。この暴動は、はじめ下方の村四、五か村の者によってぼっ発したが、上方の村や砥部方へは飛脚を走らせて参集させたものであった。三島町なども後難をおそれて、親類・近隣などの別もなく乱暴に加わるほかなかった。
 一八日には旧知事特派として権大属新諌見(かつて郡中詰郡奉行)・同松本堅磐その他が来着して、説諭して沈静させた。次いで灘町町民と新地被害者との間に不穏の行動があったが、これも新らの説得によって収まった。新地その他の遭難者には、被害程度によって扶助米四斗~三石が県から与えられた。
 郡中郷村の中で、庄屋(里長)の不正摘発の紛争なども起こり、人心はなお不穏なものが残った。九月に入って管内諭旨巡郷の郡中担当として、加藤駿父(旧池端家)・徳永安隆(隠居)・中村大属、その他非職者(官員でない旧藩士)九人が出張、各村を巡回して説諭に当たり、民心を安心させた。
 郡中民が大洲若宮騒動に参加した実態の一部として、南山崎村長影浦房五郎は『南山崎村郷土誌』(明治四三年一二月成立)に次のように記している(原文のまま)。

   当今現住者中ニハ此一揆ニ加ハリタルモノ多キヲ以テ、余(影浦)当時ノ精神ヲ尋タルニ、笑フテ日ク、自ラ何ノ意タルヲ知ラズ、只軽挙雷同セシニ過ギズト、今ヨリ僅カ二四十年前ノ事実ニシテ、無智蒙昧ノ度斯クノ如シ。

 加藤泰秋は、管内沈静の模様にもなったので、九月三日から七日まで旧支配地民との離別を行った。九月一六日大洲を出発、長浜からは借り受けた福山藩船快鷹丸に乗船、翌一七日午後二時神戸に入港した。神戸からは土州船夕顔で一九日出帆、二一日夕品川に上陸一泊、二二日下谷御徒町の旧屋敷に安着した。