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伊予市誌

2 めまぐるしい新政

 版籍奉還 
 薩長土肥の版籍奉還上表のことを聞くや、大洲藩主加藤泰秋は一八六九(明治二)年一月同様に上表した(『加藤家年譜』)が、更に改めて四月二七日、泰秋及び新谷藩主加藤泰令は版籍奉還を上表した(『太政官日誌』)。これは嘉納されて六月一九日泰秋は大洲藩知事に、二五日泰令は新谷藩知事に任命された(同上)。藩知事(知藩事)の拝命によって、領地も大洲は「支配所」、新谷は「支配地」と名が改められ、職階や職務等級もめまぐるしく改定されていった。
 一八六九(明治二)年一一月、太政官より大参事・権大参事が発令され、一二月藩知事は小参事以下の役員を任命した。
 以後両藩とも藩制の刷新改革をめまぐるしく進めたが、支配地民にとっては実質的にはほとんど変化がなかった。

       <大参事>     <権大参事>     <小参事>
<大 洲>  大橋 重之     山本 真弓(尚徳)  滝野 佐衛
       中村 俊夫(俊治) 口分田 梓(貢・成美)  山路 俟斎
                                   菅  八鍼

<新 谷>  加藤 弘(弘人)  平野勘兵衛     三橋 藤蔵
       徳田  需(民部)   三橋  肇     西島 寿平
                               小泉 速水

 解放への道 
 幕府の衰運から崩壊、王政復古の過程を経て、能力主義の著しい台頭とともに、客観的にはかつて絶対的であった階級差の権威も色あせていった。しかし、現実においては永年の習性化による格差は一新されそうにもなかった。極めて徐々に、解放というよりも上位階級の崩壊という形象において、まだ遠い平等への徴候を見せはじめた。

 (1) 庶民の身分差
 武士の特権のうち、苗字・帯刀・特定着衣等は、その階層以外では、勲功・献貢等によって一部の富豪・庄屋等に許されてはいたし、また農兵も限定された形で認められて来てはいたものの、それはわずかな数であった。一八七〇(明治三)年九月一日政府は平等主義の政策の一つとして、庶民に苗字の使用を許した。だが一方では同年一二月二四日庶民の帯刀を禁止してもいる。
 大洲藩ではこれまでひらた<舟へんに帯>(底の浅い川舟)の本屋形船は、武士以外の使用を許さなかった。一八七一 (明治四)年四月一七日になって、はじめて平民の乗用を認可した。しかし、七月にはまた逆行して舟行に次のような階級的差別を設けてしまった。

  桐油本屋形 士族
  苫 本屋形 卒ならびに平民

 七月九日には平民の乗馬が許された(『五百木村庄屋文書』)。

 (2) 物産流通
 従来「津止め」(領外移出禁止)であったものも、しだいに解禁の方向に進んでいった。一八七〇(明治三)年になって出津の許されたものは次のようである。

  二月一四日 竹のうち悪竹・女竹
  五月七日  藩買値段に不満の櫨の実(一〇〇貫につき三貫目の品運上徴収)
  五月一七日 古銅・古鉄
  一〇月七日 生蝋・晒蝋(一〇〇斤につき三斤の品運上徴収)

 なお、二月一日から油株を廃止、油絞りを開放していった。
 大洲藩は塩は郡内は須合田塩役所、郡中は塩役所又は問屋で一手に取り扱っていたが、一八七〇(明治三)年一二月二七日には須合塩役所の廃止が布告され、二両札取(もとの三〇匁札取)が自由に売りさばけるようになった(『五百木村庄屋文書』)。