データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

3 村役人

 庄屋 
 村役人は通常村方三役といって、庄屋・組頭・長百姓(百姓代)がよく知られているが、大洲・新谷両藩とも百姓代の名称はなく、そのような役職は五人組頭(五人組、略して五人組)がこれに当たった。
 庄屋は藩から任命される村の長で、関東の名主に当たる。村政一般をつかさどり、貢租納入の決算、入会・水利の維持管理など、農民一般についての統制監督を行い、藩行政組織の末端でもあったが、村落共同体の長としての立場も有した。藩主の村方支配はすべて庄屋を経由した。したがって庄屋は給米を受けたり、高引きといって年貢減を受け、その役職は原則として世襲であった。
 替地に前からの旧令で砥部一円の大庄屋として田中喜三右衛門があったが、田中権内のとき免役になったことは既に述べた。以後大庄屋は大洲領内に跡を絶った。中期以後には目付庄屋を任命して庄屋の監察に当たらせようとした。藩の意図したような実績はあがらず、単に名目に終わったようである。
 庄屋の家運が傾いて役職が維持できない場合は、「庄屋支配」といって藩並びに村方で家計管理に当たり、財政整理を行って家運の復興を図ろうとした。それも可能の限界を超えると、売眷(売券)といって庄屋株を売却させた。この場合目付庄屋や組合の庄屋に熟談して、筋目正しく将来村方のためになる人物に譲るように要求された。一六九九(元禄一二)年五月、上唐川村庄屋庄三郎は破産して半兵衛に売眷した。その「譲渡申庄屋家督之事」(影浦桂一蔵)の証文によれば、田畑一〇石五斗七升五合(二町五反六畝一〇歩)と「庄屋役儀」とも残らず代米九〇石で売った。証文には村方の取り決めを記した上、次のように結んでいる。

  右の通りに相定め永代に譲渡し申す所実正にござ候、村庄屋免割、掛り物諸事の儀は前定の通りにござ候、右の訳にて譲渡し申す上は、後々において庄三郎諸親類は申すに及ばず、村中よりも毛頭申し分ござなく候、然る上は、天下一同の田地戻しいかようの儀ござ候とも、この田地においては違乱ござなく候、よって後日のため譲証文くだんの如し、
    元禄十二己卯歳五月十日

 このあとの印形者は、売主庄三郎、伯父、従弟、組頭、五人組、百姓全員、証人として両沢・鵜崎・七折・北川毛・栗田の各庄屋で、裏書は大庄屋田中喜三右衛門である。
 一七七七(安永六)年一一月大洲藩郡奉行は、村役人の役前について訓諭する詳細な文書を布達した(『玉井家文書』「御書出写」文部省史料館蔵)。庄屋に対しては次のように命じている。

  庄屋役の儀は、申すに及ばず組頭の上に立ち、その村総締りの事ゆえ、万事一役神妙に相心得、身分を慎しみ百姓の風俗・農業を導き、諸事おとなしく取締り候事もちろんなり、その余は御法度の条々厚く失念なく組頭どもへ常々申し聞かせ怠りなきよう申しつけ、村用はもちろん上体の御為を厚く存じ入れ相勤むべく候、その村々面倒筋これ有り、一分の了簡にかないがたき儀は、組合の村方へ申し談じ、諸事えこひいきの沙汰これなきように随分正直に相勤め候儀本意に候事、

         文化以後庄屋
  史料
   文化一三  丙子歳大割入用帳    (宮内 政美蔵)
   文政 九  御領中庄屋席順控帳   (同     )
   天保一二  郡中庄屋席順帳     (玉井 達夫蔵)
   安政 一  御領中庄屋家督并結構席順表  (満野 公介蔵)
   元治 一  御領中庄屋席順帳    (影浦 桂一蔵)
   明治 二  里正順席帳        (玉井 達夫蔵)

 組頭 
 与頭とも書く。庄屋を補佐する役職で、五人頭の上に立つ。村内をいくつかの組に分け、その組の統率をする立場で、有力百姓が庄屋によって推挙され、藩が任命するという形を取った。たとえば下三谷村では、近江・町長・中・原・北・栗林・一宮の各組には組頭があり、五人頭も置かれた(『下三谷宮内家文書』「庄屋組頭五人組役儀年数記録」宮内長蔵)。世襲の場合もいくらかはあった。その場合はせがれが「組頭見習」を命ぜられ、やがて本役に任命された。
 組頭も行政機構の末端組織に組み入れられているわけであるが、次にあげる五人頭と同様に、どちらかというと農民側に近かった。前述の一七七六(安永五)年村役人訓諭書には次のように示されている。

  組頭役の心得は、五人頭の上に立ち候て、預かりの組々締りをつけ、とかく百姓ども御法度を背かずわる道へゆかざるようにと、五人頭心得の場を常に心をつけ、子供に物教えを致すように心得、総百姓をそだて候事本意に候、何ぞ出入りこれ有る節は、同役の組頭に相談いたし、その上にて庄屋の差図を受け申すべき事、

 五人組頭(五人頭) 
 村々ではだいたい五軒の家を一単位として「組(与)」を結成させ、これを五人組といった。連帯責任のもと、異教徒や犯罪人を相互監察によって防止・告発させ、また貢物確保、相互扶助などに機能を発揮させた。承応(一六五二 ― 五六)ごろに始まったといわれるが、大洲・新谷藩の場合、始源の明らかな史料は得られていない。前項に引用した元禄一二年の証文には、上唐川村五人組四人の署名が見られる。五人組には五人組帳を作らせ連印させた。大洲藩では一七五六(宝暦六)年に五人組合の改帳を作らせたようであるが、まだ実史料は得られていない。そのときの組織が乱れたというので、一七七六(安永五)年一一月に、大洲藩は『五人之組合改帳』(上吾川宮内家文書)を作らせた。上吾川村のこの書によれば、前文に「仰せいだされ候御法度の趣畏まり奉り、組合心を付け合い、諸事心得違いなきよう相守り申すべく候、……」とあり、各組人数ごとの名と印が連ねられ、うち一人ずつ「組合之頭」と記されている。ほとんど五人ずつだが、一五組のうち六人が二組、七人が一組ある。「組合之頭」は全部で一五人、組内の責任を負うわけである。しかしこれと五人組頭(五人頭)とは別である。この書でも末尾に庄屋・組頭(三人)、五人組(三人)の証印があるが、この方の「五人組」とあるのが、村役人としての「五人組頭」(五人頭)である。あくまで村役人と百姓とは支配機構の上で分離されていた。村役人としての五人組頭(五人頭)は、文書の上では単に「五人組」を用いた。組頭と同様に庄屋の推挙によって藩から任命されたのである。

第32表 文化以前庄屋前録 1

第32表 文化以前庄屋前録 1


第32表 文化以前庄屋前録 2

第32表 文化以前庄屋前録 2


資料 五人組頭(五人頭)

資料 五人組頭(五人頭)