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伊予市誌

1 三町の成立と発展

 郡中三町 
 一六三五(寛永一二)年替地後、三町とも急速に発展して、次第に町並みを拡大していった。
 灘町 はじめ上三谷村にあった蔵処が米湊村のうちに移されたが、北は牛飼原につづき盗賊が多く無用心なので、蔵の北に村家を建てることになった。上灘村に居住していた宮内庄右衛門正信の二子、九右衛門通則(正縁)・清兵衛正重の兄弟は、一六三六(寛永一三)年藩に願って許され、開発を前提に居住した。以来苦心努力を重ねて開拓し、一族縁者をはじめ居住を望む者もふえた。難渋者には竹木等を与えて援助し、次第に町並みを形成して行った。藩主泰興も大いに喜び、町名灘町、屋号は灘屋を許し、この町は諸役御免地とした(『宮内系図』・『積塵邦語』)。
 湊町 下吾川村のうち竿先原(戦場原・牛飼原)に、替地とともに藩主泰興は猟師町とするため家一〇軒を取り立てたが、衰えて三軒になってしまった。上灘村の網元(四郎左衛門の父)が願ってここに住み、網子の者などがふえて繁盛し町並みとなった。領内どこででも網引きが許され、この網は諸役運上まで免除された。はじめ小川町といったが火災が多かったので、一七三五(享保二〇)年願って湊町と改めた(『郡中町郷土誌』)。
 三嶋町 米湊村のうちで、笹原で人家もまばらのところであったが、一六三九(寛永一六)年天神社祭札の市を許されて町形になり、町号は三嶋町、御免地となった。商札九枚を与えられ、うち二枚は町並尾崎へ下付された。藩主泰興が鷹野の節、失われた鷹が、代官高橋作兵衛の天神若宮社祈願によって、泰興の手にもどってきたので、大いに嘉賞、市を許されたことが繁盛の基であるという(『予州大洲領御替地古今集』)。

 三町発展 
 一六六七(寛文七)年五月には、幕府の浦巡察使向井八郎兵衛・高林又兵衛が来国したが、その記録『西海巡見志』には、当時の小川町・灘町の状況を次のように記している。
    伊予郡
    一、小川町
    一、御高札有、
    一、遠見番所有、
    一、片浜、
    一、家数卅一軒、
    一、舟数六艘、内壱艘四十五石積、五艘猟舟、
    一、加子数九人、
     小川町より一町半
     同 郡
    一、灘 町
    一、遠見番所有、
    一、片浜、
    一、家数五十三軒
    一、舟数六艘、内二艘七十石積、九十九石積、四艘漁船
    一、加子数十人
 町とはいえまだささやかなものであった。これが約九〇年後の一七五五(宝暦五)年には、三町は次のように発展している(『玉井家文書」「村々田畑古用高帳」玉井達夫蔵)。

     灘町
   一、家  数 一九八軒(本門三四軒、借家一六四軒)
   一、人  数 七七八人(男四〇三人、女三七五人)
   一、町の長さ 五町四一間五尺
   一、舟  数 三艘(一四〇石積二、一〇〇石積一)

     湊町
   一、家  数 一七七軒(本門一〇一軒、借家七六軒)
   一、人  数 八二七人(男四二二人、女四〇五人)
   一、町の長さ 四町一九間二尺一寸
   一、浜浦長さ 七町二八間六寸
   一、舟 数 八艘(二〇〇石積一、七六石積一、四〇石積二、三五石積一、三〇石積二、二八石積一)
   一、漁  船 二九艘(内、渡海しない漁船一七)

     三嶋町
   一、家  数 六二軒(本門三五軒、借家二七軒)
   一、入  数 二七九人(男一四一人、女一三八人)
   一、町の長さ 東側二町四三間八歩、西側三町一二間半
   一、舟  数 一艘(四五石積)

 一七九六(寛政八)年五月、大洲藩は本町・在町を区分して、その商法をも規定した(『影浦家文書』「永代日記帳」影浦桂一蔵)。このとき在町から昇格して、城下に準ずる本町と定められたのは次の町々であった。
  新谷町  中村町  長浜町  灘町  湊町  三嶋町
 この昇格に伴って販売取扱商品の制限もなくなり、また三町の町老は藩主へのあいさつに伺候できるようになった。

 郷町引き離しと伝馬役地 
 一八〇八(文化五)年五月二九日、大洲藩は郡中三町を郷村から引き離し、おのおの公式に町方目付を立てることを幕府に願って許された(「江戸御留守居役用日記」)。従来は湊町は下吾川村、灘町・三嶋町は米湊村の内として、巡見使などの入国の折も独立した町の扱いは受けなかった。しかし町老(年寄)によって自主的に施政され、村の庄屋管理には入らなかったので、独立を願い出ていたわけである。現地では八月一一日にこのことが布達された。御茶屋(郡奉行所)には郡総代年行事森村庄屋永井房右衛門、黒田村庄屋鷲野梅三郎、米湊村庄屋新五郎、下吾川村庄屋栄助、町方の灘町年寄宮内才右衛門、同宮内弥三郎、湊町年寄梶野重右衛門、三嶋町年寄宗八が召集された。郡中在勤郡奉行永田権太夫、城下よりの郡奉行井口又八、郡中代官小野藤八ら列座、引き離し命令が発せられ、庄屋・年寄は郷町引離証文を提出した。同月一四日には灘町法昌寺に改めて庄屋・年寄が参会、郷町引離取り替わせ証文並びにその定書を取り替わして、事務処理を完了した(『郡中諸用控』伊予史談会蔵)。定書には村と町との諸分担が明らかにされた。更にまた三町相互間の取り替わせ証文も作成された。町方に引き受けた諸件のうち、灘町の負担分は四六・二%、湊町が三〇・八%、三嶋町が二三%であった。当時の三町の実力階序が知られる。
 三町はこれまで御免地であったが、この月から御伝馬役地を命ぜられた。命があれば風雨夜中でも人馬を滞りなく出さねばならない。賃銭は次のように定められた(『米湊村下吾川村庄屋保管文書』「郡中町郷土誌」所収)。駄賃は一駄荷一七貫目まで、人足は荷六貫目まで、かごかきは一挺四人肩である。

 <行先><里程><駄賃><人足かごかき><行先><里程><駄賃><人足かごかき>
  中山 二里二一町 一三一文   六四文   上灘  二里一七町  七四文  三八文
  松山 三里     九〇文   四六文     道後  三里半   一〇九文  五四文

 三町はおのおの町年寄(町老)の下に組頭・五人組頭があって、自治的に町政を運営した。史料に乏しくその実体を明らかにするこ
とができない。町役人の勤務年録もとらえ得ない。知り得た町年寄
の一部を次にあげる。すべて後考に期待せねばならない。
<年号>  <寛政>    <文化>    <嘉永>     <万延>    <文久>
 灘町  宮内 才右衛門 宮内 才右衛門 宮内 惣右衛門 宮内 惣右衛門 宮内 惣右衛門 
     宮内弥三右衛門 宮内 弥三郎  灘屋 才次郎  宮内 才右衛門 宮内 才右衛門  

 湊町    四郎左衛門 梶野 重右衛門 梶野 重右衛門 岡井 九左衛門 岡井 仙助 
       勘兵衛               岡井 九左衛門 岡井 仙助   真木 藤治郎

 三嶋町            宗八            (後見)岡井 九左衛門