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伊予市誌

3 郡中保国隊

 西洋隊取立 
 一八六八(慶応四)年三月一二日、代官所は庄屋代表として武知清之進(中村)、玉井守之助(上野村)、菊沢熊太郎(下唐川村)、三好守太郎(上三谷村)の四人を呼び出し、新たに西洋隊取り立ての世話掛を命じた(以下すべて『玉井家文書』「保国隊扣」玉井達夫蔵による)。

     御代官より御達しの覚
  当御時節につき、何時賊徒襲来の程も計りがたく、御城下隔て候場所柄につき、当時の防ぎのためこの度西洋隊およそ郷町にて百人位こしらえ置き申したく、もっとも相成るべく里分にて人数相調え、砥部方は遠方の事ゆえ稽古出勤にも相困り申すべく、ゆくゆく別段に隊相立て候よう取計らい申すべく、そのうち進み出で候者これ有り候はば勝手次第まかり出で候て苦しからず、右世話掛申し達し候につき、早々取り極め名前書付差出し候よう御沙汰に相成る。

 基本は四〇歳以下の者の志願制度とし、銃隊に取り立て、調練出席には弁当料六匁を支給するというのである。三月二〇日世話掛は村々の名前書を整理して代官所へ提出したが、応募者は庄屋及びその二、三男が二三人、村民が四三人であった。四月一日がけいこ始めで銘々腰弁当、庄屋及び二三男は帯刀袴着用、その他は一刀で股引・尻割羽織勝手という定めである。以後月の四、九の日がけいこ日で朝八時から午後四時までの出勤であった。指導者は総指揮佐々木団右衛門、ほかに太鼓方・器械方・弾薬方は藩士六人が当たった。四月二一日から二九日まで、城下から師範として岡井恭平・白井固六らが出張して来て、毎日特訓を行った。農繁期になって休止した。
 五月九日から月六回の通常けいこが再開された。このころ「保国隊」の名称ができたので、六月四日に発せられた服装規定は「保国隊着服極」となっている。砥部方面も次第に人数ができたので、六月一九日にはこの方面にけいこ場が作られた。次第に隊も充実し、この日に組合頭に提出された名前書によると、各隊人数は次のようであった。

<隊> <人数> <地域>
一番隊  二七  湊町 灘町 三嶋町
二番隊  二五  中村 森 下吾川 米湊 上吾川 黒田 下三谷
三番隊  二二  上三谷
四番隊  二四  上野 宮下 八倉 麻生 宮内 七折 大角蔵 川井
別 隊  一九
庄屋隊  三五  (二、三男を含む)
 計   一五二

 鉄砲・鉄砲袋・太鼓・胴乱・三つ又などは、個人または村負担で購入し、負い皮・鋳形・火門・玉薬だけが藩からの支給であった。
 八月二六日に至ってこの隊は更に増強されることになり、増員募集が布令された。今回は郡中三〇か村(三町は除く)に対して各村家数に比例しての割り当てで、家数二、五七八軒に対して三六二人の予定がある。九月二日から実際にけいこにかかったのは次の人数であった。

<村>  <人数> <村>  <人数>
下吾川   17    千足     4
上吾川   19    川登     11
黒田    10    鵜ノ崎     2
上三谷   18    両沢      1
釣吉     1    上唐川     6
上野    15    下唐川     3
宮下     8    大平      7
八倉     8    三秋      8
麻生     16    中村     3
下三谷   26    森       8
宮内     4    本郡      7
川井     3    尾崎      6
七折     2    米湊      9
大角蔵    1    外山      4
五本松    7               
北川毛   12    計      236

 万年村だけはないが、この二三八人を在来の隊員に合わせると、総員四九〇人の大部隊となった。

 藩兵郡中隊への移行 
 大洲藩の洋隊兵式は旧来オランダ式であったが、一八六九(明治二)年五月にはイギリス式への変革が実施された。このことは保国隊にも及んで、五月二九日には代官よりイギリス式練習の幹部養成のことが達せられた。四隊から次の三人ずつが選抜されて、翌日から直ちに調練が実施された。

  一番隊  宮 内 直 吉  下三谷村喜太夫  湊町 久五兵衛
  二番隊  久 保 菅太郎  永 井 源九郎  武 知 民次郎
  三番隊  富 田 平 作  玉 井 健次郎  三 好   薫
  四番隊  大 野 章 蔵  佐川与三左衛門  影 浦 峯之丞

 幹部候補生に予備教育を施してある程度習熟させた後、大洲本藩隊長の名において、保国隊に直接命令が発せられた。「御軍制この度英式に御変革につき、保国隊も同様御改めに相成り候事」とのことで、イギリス式に変革され、準足軽的性格のものから本藩編隊中の一隊として取り立てられ、名称も「郡中隊」となった。指令は次のようであった。

  保国隊の儀は、御時節柄相弁え非常の節郡中表守衛として御加勢の厚志これ有り立隊相成り居り候ところ、この度在勤中編隊の御沙汰もこれ有り候えども、御人少なの御場所、非常の節御入数配り等行き届きがたき御心配の折柄、幸い有志の者立隊にも相成り居り候事ゆえ、厚き御考をもって一隊に差加えられ、郡中隊と相改められ候間、一際奮発致し非常はもちろん平常の儀も戮力致し、御国の御為相考え礼譲義理に基づき粗暴の挙動これなきよう慎しみ厚くまかりあり、隊中の規則に随い申すべく、かつ隊外の儀は農家の本体を失わず、分限に安んじ御法度向堅く相守り候儀肝要の事に候。
    六 月          隊  長

 郷筒に端を発した農兵は、郡中一丸の郷土防衛意識のもと、洋銃隊にも発展し、最終的には藩兵の一隊としての位置を占めるに至った。しかしこの栄誉もしばらくの間で、一八七〇(明治三)年諸藩兵制改革兵員減少のことが政府から布令され、大洲藩も四月六日をもってこれを実施した。農兵からの郡内精鋭隊・郡中隊も、ともに八月一三日をもって廃止された。