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伊予市誌

2 農兵の準足軽化

 農民動員の強化 
 一八六三(文久三)年六月、大洲藩は軍役夫の動員待機を布令した。出陣に際しては、知行取は知行夫四人、扶持取及び中小姓は手筒打一人を帯同する定めであった(『岡田家文書』「軍事御触扣」岡田広心蔵)。軍役夫は知行夫・手筒打を本夫として、外に軍役に使役する平夫があった。これは領村に夫役として課せられ、村々は抽選でその割当人数に応じた。この夫役は用高一〇〇石につき三歩五厘掛かりで、大洲領全体では本夫三九四人、平夫一、〇五〇人であった。郡中への割り当ては、別途郡中蔵元守衛の任につくので本夫出動は免除され、平夫が四〇六人であった。外から別に郡中蔵元防備のため五一人が予定された。軍役夫は命令のあった際は、脇差、股引、草鞋、蓑笠のいでたちで、一日分の弁当持参で出動する。出張の手当は領内年銀札一貫二〇〇目の割、他領はその上に用意金として五両が渡されるという定めであった(『久保家文書』・『大洲手鑑』)。

 西洋流鉄砲組郷足軽 
 一八六四(元治元)年大洲藩は郡中に大砲台場建設を計画した。波戸向より上浜向までの間の水もりを、三月九日には郡奉行国嶋六左衛門が見分した。同二六日には藩主泰祉が築造状況を視察し、海岸防備について指揮するところがあった。かねて大洲藩は郡中に大砲鋳造場を建設していたが、五月に入って落成した。鋳造師は信治であった(ここでの鋳造は翌慶応元年に試作が成功、二月一七日三嶋町で新調二四ポンド砲・二〇ポンド砲の試射が行われた。大成功で、信治は帯刀を許された)。
 九月二五日三町の農兵の鉄砲訓練が郡奉行によって査閲された。試射は八寸角的二回、六寸角的一回で、五人の優秀者には賞として焔硝一斤ずつが与えられた。一一月二五日になると、西洋流鉄砲組の者は郷足軽に取り立てられた。帯刀・馬乗袴・ぶっさき羽織の着用を許された。郷足軽とは郷在籍のままの足軽の意で、新谷藩でいう郷組(今坊村・出海村に設置)と同じである。郷筒と違う点は、組(足軽)の者に準じて在郷のまま藩に召し抱え、準藩兵としての資格を与えられることである(『塩屋記録』)。