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伊予市誌

1 郷筒の成立

 異国船手当 
 ペリーの来航以来、全国的に急激な海防意識の高揚をみた。大洲藩においても海防に目覚めたが、特に問題と考えられたのは長浜と郡中であった。郡中は遠隔の地であり、しかも防備部隊常駐には藩兵が不足で、いきおい地域の自主警防に待たねばならなかった。一八五九(安政六)年には領内に警防のことが布令されたが、変災時の地域警防団といったものであった。郡中方面の手配の出発について、『塩屋記録』は次のように記している。

  安政六年六月一八日異国船御手当につき人数の儀につき、御内々御代官所より御触状これ有り候、弐拾弐人下三谷村、九人上吾川村、九人下吾川村、九人米湊村、三人尾崎村、六人本郡村、村の組頭壱人ずつ、もも引、わらんず、弁当、わきざし、かま壱丁、みのかさ、村々にてじょうぶなる人手当致し置き、右の品持参候ものなり、御代官矢野与兵衛様

 一八六一(文久元)年三月二四日、長浜沖にまさかと思っていた異国船が停泊した。これには藩内上下ともことごとくあわてた。遠い浦賀や長崎のことではなく、異国船問題は目前の自分たちの問題となったからである。

 郷筒 
 大洲藩主加藤泰祉は、一八六二(文久二)年一二月朝廷から上京滞在の内勅を受けた。参内した泰祉は、摂津の海に異艦の渡来もはかりがたいので、京都非常警備に当たれとの勅命を受け、そのための警衛人数差出案の作成を命ぜられた武田亀五郎は、警衛出兵によって領国防備人数の弱体化を憂えて、領内に農兵取り興しのことを藩主に献策した。泰祉は直ちにこの策を入れ実施を命じたので、一八六三(文久三)年三月「郷筒」の名のもとに領中若者を志願させることをした。農民・町人にも平常鉄砲所持を許し、異船渡来で出張の折は帯刀させ、郷土防衛に任じさせるというのであった(『農兵一条御主意控』久保重徳蔵)。
 四月二日には郡中町郷へ鉄砲一三二挺が支給された。灘町一五、湊町一二、三島町五、郷村中一〇〇であるが、これは郷筒としても特に御蔵元町村守護のためであった。命令は次のようであった(『塩屋記録』)。

  江戸大坂そのほか諸国にても、異艦来て乱戦致し候節は、浪人海賊、大家へ来りて無体無法を申し、もし乱暴致し候時は、右鉄砲・剣術相心掛け候者そのほか、軒別手槍・竹槍、浜町分はかなつき持参致し、乱入を取防ぐ用意のため、鉄砲御申しつけこれ有り候

 これに参加できぬ者は山分へ立ち退くよう、代官所から布令された。
 郡中三町の場合、五月二二日には鉄砲札・焔硝一斤・火縄一把ずつが支給された。このときの郷筒参加者は湊町二七人、灘町三四人、三島町一〇人で、鉄砲稽古定日は月六回、波戸向う砂山にけいこ場ができ、その使用は三町と米湊村・本郡村、けいこ開始は六月からで、稲富流砲術、六寸角一五間的であった(『塩屋記録』)。