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伊予市誌

2 経理と修補

 経理概況 
 先にも触れたように、この築港は灘町出願という形式は取ったが、中心となって推進したのは郡中役所詰の藩士岡文四郎と豊川市兵衛であった。このことが普請の性格を決定づけ、独特の方式を生み出したのである。御種子蔵という藩の金融機関からの借用、郡中郷民特別基金である郷約からの借用などは別としても、町内・村々並びに船持中の寄付という民間出資のほかに、郡中役所・綿役所(質役所)・波戸役所等の別途役務収入を加えるという新しい方式が工夫され、これが藩から許容され、更に藩主より自由に融資を受け得るという方法の実現にまで到達した。
 岡文四郎は利殖と産業開発とを同時に達成するための機関運営を創案した。それが綿役所及び波戸役所の経営である。まず波戸新築開始と同時に、旧来の藩の質役所(運上・口銭の取り立て並びに担保融資の機関)を綿役所に改め、藩を動かして元立銀(融通資本)銀五〇〇貫目の融資を得た。これを増加しつつあった中国筋からの実綿の購入のために業者に貸与した。その綿は一度役所倉庫に貯蔵し、業者に随意にこれを受け出させ利息を収納した。これが波戸資金ともなり、内分融資への償還の基ともなった。一方漁民・町民家族には、副業として綿打・篠巻に当たらせ、産業振興にも寄与するところがあったのである。更に波戸がしだいに形を整えるに及び、一八二三(文政六)年には波戸役所を設け、一〇月から帆別銭の制度をたて、その収入も波戸構築並びに借用償還に資した。一八三〇(天保元)年岡文四郎退役以後は、その趣旨を豊川市兵衛が継承した。
 総経費四八一貫余のうち、御種子蔵借用は銀四八貫目、御内分融資は三〇九貫目余にのぼっていた。これを一八三四(天保五)年までには綿役所収益より一七〇貫目、波戸役所収益より一一貫八七六匁余を返上している。残余もこの方式で皆済する計画をたてた。

 帆別銭 
 一八二三(文政六)年一〇月波戸役所創設とともに、帆別銭制度を発足させた。入港船舶に対して沖帆一反(端)につき銭一五文ずつの運上を課するのである。入船は地方のほか、讃岐・播磨・石見・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・豊前・豊後、今治・西条・三ツ浜・高浜・宇和島などからであった。一八三四(天保五)年一一月から翌年一〇月まで一か年の入船数と帆反数は次のようであった。ただし忽那嶋の諸船及び地方漁船は帆別銭を徴収しないので、この数には入っていない。
<月>11 12  1 2  3   4  5  6  7 閏7  8  9  10    計 1,275 反 10,576
<船>45 58 54 73 141 128 86 104 78 97 106 155 150

 右に対する帆別銭は銀二貫二六六匁三分であった。この程度の額は毎年予定されるところであった。なお別に口銭収入があり、荷夫木は銀目の二歩、問屋は銀目の九歩である。

 波戸規法 
 波戸の整備によって、その規法が定められた。

     定
   一 御法度筋堅く相守るべき事、
   一 波戸滞船潮掛りとも役所へ相届け候事、
   一 沖帆一反につき帆別一五文ずつ持参申すべき事、
   一 帆別銭相済み候はば印札相渡し候事、
      ただし出船の節印札持参申すべき事、
    右の通り堅く相心得可申候、以上、
       文政六年十月     役  所

 波戸には建石に掟書が刻まれた。

      掟  書
   一 入船帆別役所へ届け候事、
   一 波戸入口へ船繋ぐべからず、
   一 石垣の上不浄無用、
   一 波戸内において殺生無用、
   一 波戸内へ塵芥捨つまじき事、
       天保六乙未十月     波戸方(印)

 補修と砂掘 
 一八五四(安政元)年の大地震においては、「波戸石垣大痛み」(『塩屋記録』)と記録されたように被害は甚大であった。更に追いかけるように大暴風の惨害があり、高潮は町裏を洗った。石垣崩壊の修補は翌年春から藩工事として取りかかり、忽那嶋から石工を動員してこれに当たらせた。このときから波戸西の石垣にも燈台が設けられ、三燈台となった。防潮堤工事は灘町の波戸根から港町下浜入口四辻の所まで、浜大通り道の東へ高さ五尺、幅一間の石垣とした。五月一八日には大洲から出張した藩内分方の査察があった(以下すべて『塩屋記録』)。
 郡中波戸は地勢上風向と潮流の関係で、砂が堆積するのが欠点であった。大洲藩は一八六一(文久元)年二月、波戸下砂掘を計画した。このころは物価高騰で、特に町内に窮民が多かったので、その救済のため動員して作業に当たらせ賃銀を与えた。今の失業対策事業に似ているが、一挙両得の名案であった。作業は二月一六日から五月一八日まで継続された大事業で、窮民出動は灘町・三島町の組と湊町の組との一日交替制で、賃銀は一人銀札三匁、以下割り下げで子供にも与えられた。昼時・八つ時には粥・味噌汁の給食があった。
 出動記録は湊町分しかないが、二月・三月の概況は第25表のようである。
 一八六七(慶応三)年一月から、また、大洲藩は波戸下砂掘工事を行った。人夫は替地諸村から雇って作業を進めていたが、三町の願いによって文久年度と同様に窮民救済事業に切り換えて、三月一七日から同様に一日交替制の出動であった。賃銀は一人銀札一一匁八分(平均)で四月末まで実施された。経費は藩より銀札一六〇貫目支出、郡中在方・三町船持は一貫目ずつ、三町富裕者から一〇〇貫目ほどの寄付があった。
 一八七〇(明治三)年三月にも、郡中三町が難渋者救済のための砂掘工事を願い出て許された。方式は従来と同様であった。藩から一〇石及び三町貯の粟三五石が下付され、賃米は町役場から支給された。
 以後も砂掘はこの港の宿命として残るのである。

第25表 波戸出動記録

第25表 波戸出動記録