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伊予市誌

1 築港への道

 片浜の難 
 米湊の地は元来片浜の漁村に過ぎなかった。片浜であるための風波の難は、船着きをいちじるしく苦しめた。一八三五(天保六)年郡中波戸役所波戸方であった豊川市兵衛祐盛は、その著『郡中波戸普請帳』(伊予史談会蔵)の序文の中で次のように記している(以下すべてこの史料による)。

  長浜より三ツ浜迄いささかの船掛りの場これなく、なかんずく当地は西風の吹き落しにて、俄の風波に大小の船度々漂流これありと雖も、助くる事人力に能はず、みるみる破船に及び、人命を空しくする事度々なり、生縁のものは勿論他国に至るまで、其悲み言語に絶えず、(中略)当地渡海の船は御廻米その外荷物積み請くや否や、高浜青島のあたりへ走り趣くの順にて、帰帆の節は沖合にて日和を見合い、浜に着くや否巻網にて船を登す、その費少からず、もとより他国の船は片浜をおそれ、たまたま配物等の入船これ有ると雖も、猶豫なく多くは売買を三ツ浜にて商い、人馬にて運び候事は人皆知る所に候、少々の波止堤出来候ハハ、いよいよ繁昌の基いならんと集人ささやくと雖も、その儀能はず。

 少しの波戸堤ができさえしたらという住民の悲願は、何百年来ものであった。

 波戸普請 
 地域の強い願いに即して、郡中代官所手代岡文四郎重通(家持、二人扶持八石)(一七六六 ― 一八三一)は町方と熟談、百方説得奔走して灘町として波戸普請を藩重役に申請、藩主泰済の耳にも達した。一八一二(文化九)年認可を得、岡は波戸用係に任命された。泰済は積極的にその請いを入れ、御内分貸与という形で資金を融通した。
 通例藩費をもって行う普請を「御普請」といい、村方その他の自分によるものを「自普請」というが、この波戸普請はまことに異例で、役務的には「御普請」的性格が大部分ではあっても、「自普請」的性格の大きく加わったものであった。これは岡文四郎を始めとして郡中役所の役人らが、住民側に立って祈願達成に熱意を傾け、政治機構内務の賢明な運用によって、資金をその操作で生み続けながら目的を達成した珍しい例である。

 着工 
 普請は一八一二(文化九)年から始められた。藩の御用掛は郡中書役佐々木政左衛門と岡文四郎で、元締世話方は町内の宮内才右衛門・宮内小三郎・宮内伊兵衛・宮内弥三右衛門であった。初年度の工事は重波戸二六間半の構築であった。これは根置八間、高さ三間一尺七寸、馬乗二間半の規模であった。必要な石材は忽那嶋と森村から、材木は高ノ川村から購入した。所要経費は銀五七貫九一三匁二分一厘(この年の御蔵相場米一石が銀九二匁)であったが、その支弁は次のようであった。

  一貫目        質役所徳用の内から下付
  三貫目        上町貯銀の内借用
  九貫六七五匁     町内寄付銀より
  一貫八五〇匁     紫根徳用銀の内より
  七〇〇目       当所役所より下付
  一貫二〇〇目     船持中より寄付
  三八貫目       御種子蔵より借用
  二貫四八八匁二分一厘 村々寄付その他

 重波戸は工が進められて一応小規模の形態を成したが、次いで一八一五(文化一二)年にはその延長工事が行われた。長さ二四間半・根置八間、高さ一間半、乗馬三間であった。経費は銀二五貫九〇四匁三分一厘であった。この支弁には市中・旅人等の寄付、頼母子、船床並びに村々の合力のほか、藩より銀一〇貫目、城下並びに当所の役所より四貫目の下付があった。
 前述のようにこの地は西風の吹きだまりで、港内には砂の堆積がひどかった。岡らは砂防に明るい人の意見も徴し衆議研究を重ねて請波戸繰り出しの計画を練った。藩にもたびたび見分を願い、その普請の認可を得た。一八一七(文化一四)年御用掛岡文四郎・豊川市兵衛をもって北請波戸(中島)の工が始められた。長さ五〇間、高さ三間半、その所要経費は二四貫八七三匁八分一厘で、支弁は次のようであった。

  一四貫四〇二匁九分四厘  綿役所利益(五年分)下付
  一〇貫目         御種子蔵より借用
  一八〇匁         郡中村々寄付
  二七三匁八分七厘     不足、翌年回し

 築港の進展 
 以後毎年のように工事は進められた。新規のほか相当の修理も必要であったが、年次別施工は第24表のとおりである。
 この工事は藩主泰済の英断によって実現したが、一八二六(文政九)年九月二〇日没して、あとは嗣子泰幹に引き継がれた。
 この築港は三期に分割されるようである。
 第一期は一八二三(文政六)年港として一応の形態を整えるまでで、この間に重波戸八七間、北請波戸五〇間、中島重波戸六一間半、中島・天神裏二六間、その上二〇間、光明寺口二三間の築堤を完成した。翌文政七年付帯工事として波戸家を普請した。
 第二期は一八二六~七(文政九~一〇)年の工事で、重波戸一五間の延長(計一〇二間)、町裏片桝、波戸内などの整備がなされた。
 こうした間に良港としての機能は次第にその効を現し、地方経済の飛躍的な発展を招いた。この地から串村あたりまでの沿海諸村には新造船が多く運送の業も栄え、港には実綿の入船も増加し、綿役所の援助もあって篠巻の隆盛をいたし、町民に莫大なかせぎを与えた。
 第三期工事は一八三〇(天保元)年から一八三五(天保六)年に至る。天保元年は光明寺裏石垣長さ四五間、高さ三間、馬乗一間の施工のほか、町裏砂留四か所、片桝五三間余の普請であった。この度は藩もいっそう意気込んで、御用掛には普請方田中喜右衛門(下奉行・徒小性)・石丸長左衛門(下奉行・徒小性)、目附石原恒蔵(家持)、普請方人遣武知元治(御持筒組)を派遣し、波戸方豊川市兵衛も加えられた。郡中村々からは加勢夫一、七七〇人が動員されるほどで、米三八石九斗八升余が消費された。
 一八三一 (天保二)年以後は御用掛はまた豊川市兵衛に復帰するが、一八三五(天保六)年には請波戸八〇間、請波戸渡り砂留三一間半を中心工事として、築港の完成をみた。
 文化九年から二四年の歳月を要し、所要経費総計銀四八一貫四四三匁七分九厘であった。

第24表 年次別施工状況

第24表 年次別施工状況