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伊予市誌

1 窮民救済と備荒

 救麦 
 凶年に当たっては、大洲藩は願により米や麦を支給した。替地の場合史料は必ずしも多くはないが、一七三八(元文三)年には麦が不作であったので、翌年二月吾川村は窮民一〇人のために代官に願い出て、二月二八日より七日間分として七斗七合の麦を与えられた。一人一日一合の割合である。次いで二〇八人、一〇日分を追願して二石八斗を与えられ、これを二五五人に配分した。なお支給だけでなく窮民に貸し出す場合もあった。やはり吾川村の例であるが、一七四七(延享四)年二月拝借麦七石を願って五石ニ斗七升を貸与され、麦のでき次第二割の加利で返上することを約した(『上吾川村宮内家文書』宮内政美蔵)。
 村々では申し合わせによって用意麦を貯える場合もあったが、常備するまでに至らないのが実状であった。

 用意麦貯え 
 一七六〇(宝暦一〇)年四月二五日替地郡奉行亀田文左衛門(政房、一〇〇石)は、この一両年麦作がよいので、凶年に備えかつ難渋者救済用意のため、百姓相談の上各自麦を出して村貯わえとすることを、代官に命じて勧奨させた。旨を受けて代官は村々に次のように布達した(『玉井家文書』「庚辰歳御触状写」文部省史料館蔵)。

  わざと申触れ候、然らば近来は村々用意麦もこれなく候、当年の麦作も大概に宜しきように相聞き候、村中相談の上百姓相応に少々ずつにても集め置き申され候はば、これより後凶年または難儀者などのために相成り候条、随分相談これ有り、人々の痛みにも相成らざる程ずつ集め置き申さるべく候、もっとも麦相揃い候はば、役人並びに百姓の内も一両人世話人に相定め、さきざき村方のために相成り候よう取計らいの儀、追って差図に及ぶべく候、以上、
    四月廿五日         (代官)山中次郎左衛門
                         人見次郎右衛門

 上野村は七月一日大麦一石五斗の醵出を届け出ている。村高の〇・二九%であるから、替地全体を推計すればほぼ三〇石にもなろうか。こうした貯えは意義深いもので、広く拠出救済の道がひらけ、友救いなども生まれるのである。また替地蔵元でも同じ趣旨で貯麦を実施したと見え、一七八九(寛政元)年二月には、代官所は村々へ貯麦の貸し付けを行っている(史料同上)。