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伊予市誌

2 米湊網代騒動

 替地と領民 
 替地という政治区画の変改は、施行する幕府・領主にあっては、単なる機械的な事務処理にしか過ぎない。しかし、土地に居づく領民にとっては、永年の生活基盤も一挙にくつがえされ慣行も無視される重大事であった。もとよりこの替地の郷村授受に当たっては、幕府の上使松平出雲守勝隆・曽根源左衛門吉次から、領民らに対しては「山川諸事先規の通り」という申し渡しがなされてはいた。しかし、替地という政治変動の余波は、領民らに堪えがたい諸問題を後遺症として残した。著しいものをあげると、一つは海上漁業権に関する網代騒動であり、一つは入会山に関する紛争であった。

 米湊網代紛争 
 松山領松前浜村の漁民は、替地以前は米湊沖合の網代に出漁するのが慣行であった。したがって替地以後も当然のこととして松前漁民は米湊沖に出漁した。米湊・尾崎・本郡・森の各村漁民は、網代も領分違いになったと主張して紛争を生じた。『松前浜村庄屋旧記』(伊予史談会蔵)は次のように記す。

   当村猟師共御替地に相成り候ても、旧例の通り入込み猟仕り候所、御替地御代官より御番所をもって松前浦の猟師共へ仰せ聞かされ候、大洲領分へ入込み今までの通り猟致し候儀きっとまかりならずと、猟師共網挽場へ御使にて御座候に付、此方猟師共旧例入込み猟仕り来り候段御返答仕り候、その後御替地御代官下代萱与左衛門大将にて大勢引き連れ参り、網挽場にて喧嘩毎度の事なり。

 こうして争いをくり返したが、約三〇年ほどは小ぜり合いだけで済んではいた。一六五八(万治元)年八月には、松前漁民が石や棒を用意した船団で出漁したことから、沖合で大洲方との大乱闘を誘発することとなり、大洲側に死者一名を出す流血事件にまで発展した。替地代官森脇次郎兵衛(『温古集』、『松前浜村旧記』は森太兵衛)は、松山方が船軍をしかけて来たと速断して、この由を大洲に急報した。泰興は大いに怒って直ちに軍兵の出動を命じ、威嚇のためさし向けた大砲を発射するなど、一時は緊迫した事態となった。しかし、相手が松山藩士でなく漁民であったことから一応おさまった。大洲方は改めて松前浜村庄屋作左衛門を大洲に召致し、家老大橋作右衛門重恆より領分立ち入りを禁ずる旨を申し渡した。このことは松山藩主松平定行を著しく刺激した。これらの経緯は大洲方・松山方とも、各々都合のよい記録を残しているので両方をあげておく。

  『北藤録』一〇
  万治元年戊戌松平隠岐守定行領分予州松前浜ノ者ト、泰興領内小湊村ノ者、網代ノ出入リアリテ騒動二及ブ、ソノ故ハ大洲領ノ漁師松山領松前浜へ行キ漁猟ヲシケルヲ、松前浜ノ漁師コレヲ見テ、他領ニテ断リナシニ漁猟スルコト不届ナリトテロ論二及ビ、大洲領ノ者ヲ一人打殺シケル、泰興コノ由ヲ聴キ、モチロン当領ノ者他領へ行キ漁猟スルハ誤ナリ、サレドモ此方へ断リナク打殺ス事理不尽ノ至リ、シカノミナラズ松山領ノ致シ方常々我儘ノ振舞奇怪ナリト大イニ怒リ、松平隠州へ使者ヲ遣シ、或ハ領分堺ニオイテ大筒ヲ打タセ、或ハ小湊へ人数ヲ遣シテ既二確執二及バントス、

  『温故集』(城戸通徳氏所伝本)
  一御替地網代の事松山と争論のこと募り、松山より打返しに来るべきよし沙汰ありける、その時替地代官は森脇次郎兵衛にて有りける、(割注略)早速注進す、円明公(泰興)聞こし召され、急ぎ侍共初め人数遣すべしとて、八月十五日(八幡宮)御神事の日仰せつけらる、(略)公の命にて犬寄峠を松明にて夜越ゆべしと仰せ付けられしかば、その通り通行せしかば火の光天を焼きおびただしき人数に見えける、松山より終に打返しにも来らず恐れしとなり、

  『松山叢談』二
  松前の漁師は以前の小湊の澳へ漁猟に出候所、領分違いに相成り候ては向後漁は差留めなりと大洲よりきびしく制止あれども、漁師共は渡世に尽き果て候てはと、密々再び入込みしに、浜村の庄屋を大洲へ急に呼び給ひてその段きっと仰せ渡されたりしを、公(定行)御聴に達しもっての外御憤りにて、土地を替えたる事は入部以前の事なれば致し方もなし、わが領分の漁師共を此方へ断りなくして防ぎ候儀奇怪なり、然らば出羽守(泰興)参勤の節当領の海上へは人数を差向くる事差留め申すべしと、事むつかしくなりければ……(中略)口碑いう、このあじろ争いの初め、大洲領漁師共多人数小船にて村民をかたらい、海上にて擲き合う、その節四郎兵衛擢をもってなぎ立て衆に勝れて働きければ、全く士分にもこれあるべしと、大洲領より組子の者共差し出し候よし、四郎兵衛この事を聞きて申しつかねしけるは、我ら職を失う故拠なく村方の者共申し合い出でし事にて、役人方しらるることならず、しかるに大洲よりは御家来も多人数御差し出しと相見え、百姓共大名と軍を致し負くるも恥かしからず、快く一戦致すと申し遣しければ、これに恥じてや先方勢を引いて、双方打合いは止みしとぞ。

  『松前浜村庄屋旧記』
  後々は此方猟師共用意として手石又は棒など船へ入れ猟に参り候所、この沙汰何と御心得候や、御替地御代官森太兵衛殿大洲へ松山より船軍にて押しかけ候趣御注進これあり、大洲より侍衆武具馬具にて御出で、替地御番所前に御控えありて、此方猟師共へ御使、領分違い押入り猟致し候儀まかり成らずときっとしたる御使、此方猟師共御返答は、旧例猟仕り来り候、ただし御相手に成られ候はば相成り申すべき旨御答仕り候、御侍の猟師御相手にも成されがたきや、または船軍の体にもこれなきにつき、その後何たる儀も仰せ聞かされず大洲へ御引き退き、これによって御代官様注進御不念の由、切腹仰せつけられ候、

 土佐藩主の調停 
 猟師間の争いはついに両藩主の対立にまで発展していった。大洲藩が幕府に訴えるに及んで、幕府は直接裁断することを避けて、土佐藩主松平(山内)土佐守忠義に命じて調停させた。松平忠義は両藩主・両藩家老に対して、使者並びに書簡をもって懇切に説得に努めた。『北藤録』には関係書簡一七通が伝えられている。
 泰興の怒りは容易に解けなかったが、忠義は家老山内下総・片岡武右衛門を大洲家老大橋作右衛門方へ派遣してともに調停案を合作させ、一方松山藩臣遠山三郎左衛門・久松清左衛門と絶えず折衝を続けさせた。まず大洲方からは米湊・尾崎・本郡・森の各村網代を、松山方からは大洲領から重信川までの松山領の使用権を、ともに松平忠義が申し受けて預かるという交渉に成功した。このことを基礎として次のような調停案を提示した。
   (1) 大洲領米湊・尾崎・本郡・森各村の漁場と、松山領松前浜の漁場とを、ともに入会として両領漁民は自由に漁猟してよろしい。
  (2) 大洲藩主父子は、重信川境まで松山領で鷹狩をしてよろしい。
  (3) 大洲領民は重信川を材木流しに使用してよろしい。(『北藤録』一四)
 この案で両藩の合意を得て、妥協したのは一二月一三日であった。松平忠義は家老山内・片岡に命じて、泰興・定行の了解を得させた上で、両藩の関係村方庄屋に次のような命令書を交付させた。(図表 資料(1)米湊村尾崎村本郡村森村庄屋宛(『北藤録』一四)・資料(2)松前浜村庄屋宛(『下三谷宮内家文書』)

 右のように藩同士の問題は両者とも体面をそこなうことなく解決はしたが、大洲領米湊以下四村は問題をすりかえられて、入会という美名のもとに泣き寝入りに終わった。

 享保紛争 
 約六七年後の一七二四(享保九)年に至って、松前浜村に他所網入込み問題が起こって紛争を生じた。播磨国高砂浦の漁師久太夫が網を持参して松前浦に居浦、二月から三月中の漁猟を願い出た。松前には「拾歩一」の運上が魅力であった。松前浜村庄屋覚右衛門が郡奉行に願い出たことを知った湊町年寄見山勘兵衛は、替地漁師共の障りになることを理由に、他所網差し留めを申し入れた。更に吾川村庄屋佐伯忠右衛門も松山領大庄屋栗田八郎右衛門へ同様に申し入れたので、松山藩郡奉行も認可をためらった。漁期も過ぎるので松前の覚右衛門は郡奉行の許可を得た上、大庄屋・改庄屋を同伴、三月一五日替地に乗り込んだ。しかし、替地側は旅網を入れることに極力反対して同意は得られなかった。何回となく折衝を重ねたが、替地側はついに承諾しなかったので、九月七日万治以来の入合先格を再確認する形の証文を取り交わすに止まり、旅網入村のことは失敗に終わり、替地方の主張通りになった(「松前浜村庄屋旧記」)。

(1)米湊村尾崎村本郡村森村庄屋宛(『北藤録』一四)

(1)米湊村尾崎村本郡村森村庄屋宛(『北藤録』一四)


(2)松前浜村庄屋宛(『下三谷宮内家文書』)

(2)松前浜村庄屋宛(『下三谷宮内家文書』)