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伊予市誌

1 大洲領と松山領の替地

 松山城在番(第二回) 
 浦生忠知は嗣子なくして一六三四(寛永一一)年八月一八日没したため、松山城地は幕府の没収するところとなった。幕府はさっそく次のように事後処理のための役職を発令した(『大猷院殿御実紀』二六)。
  上 使 松平出雲守勝隆
  目 付 川勝丹波守広綱 跡部民部良保 曽根源左衛門吉次
  城在番 加藤出羽守泰興 山崎甲斐守宗治 稲葉淡路守紀通
 加藤泰興に対する老中の奉書(命令書)は八月二五日に発せられた(『北藤録』)。さっそく泰興は家臣・従卒・軍夫ら千何百人かを率いて松山城の警守についた。翌一六三五(寛永一二)年七月二八日松平隠岐守定行が伊勢国桑名から松山城一五万石に封ぜられた。九月六日には定行が入部したので泰興は城を渡して引きあげた。

 領分替地 
 松山城在番の間に、泰興は幕府に領地の交換を願って許された。風早郡・桑村郡のうちの大洲領は飛地なので領政上不便であったため、それと松山領(蒲生忠知故地)の地との交換を願ったわけである。この替地は一六三五(寛永一二)年夏までには完了した。領地の変更は次のようである。

 (1) 大洲領となった郷村
 第13表・第14表の表中、「絵図村付」は『伊予一国絵図』(大洲市加藤家蔵)記載の郷村名、「慶安村付」は『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』(愛媛県立図書館蔵)に記載されている村名、石高もこの書のものを用いる。替地からわずか一三年後の成立の石高帳であるからである。

 (2) 松山領となった郷村
  風早郡 凡四三村 高合凡七、一六七石三九一
  桑村郡  一四村 高合凡六、四一一石一一四
 新たに大洲領となった伊予郡・浮穴郡の地は「御替地」と呼ばれた。この名は長く続くが、一八一七(文化一四)年一月「郡中」と呼ぶように布達される。しかし、民間では後々まで「お替地」の名は生きて親しまれた。わずか一三年後にできた幕府勘定所公簿の写しである。『慶安元年伊予国知行高郷村数帳』(愛媛県立図書館蔵)に伊予市関係の村名と田畑高が記されている。なお、新谷領は本高(古高)に対して新高をたてて一万石を渡したので、一六四八(正保五=慶安元)年三月二一日付『加藤泰成家文書』には、伊予市における新谷領は次のように記されている。
    本高四百弐拾九石四斗三升五合
  一、新高三百六拾三石三斗三升弐升六合  市場村
    本高三百五拾石九斗三升六合
  一、新高三百五拾四石七斗壱合      稲荷村
    本高三百六拾九石七斗五升弐合五勺
  一、新高六百五拾八石九斗弐升三合    大平村

第13表 大洲領となった郷村(1)

第13表 大洲領となった郷村(1)


第14表 大洲領となった郷村(2)

第14表 大洲領となった郷村(2)