データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

2 新谷領主

 新谷藩の創立 
 公式的には一六二三(元和九)年七月二九日泰興が家光に拝謁して家督相続を許され、弟泰但(直泰)に一万石内分のことを認められたことになっている。この内分には泰興・泰但の間にもつれがあり、なかなか解決しなかった。一六三九(寛永一六)年に至って、加藤家親族の代表らが「御扱衆」となって調停に当たり、六月一八日次のような条件で妥結させることに成功した。
  (1) 六万石のうち一万石は直泰、と朱印状に内書することを老中に願う。
  (2) 直泰は一万石の大名並みに扱われるようにする。
 ほか三条があったが、「右の趣申し定め候通り相違あるまじく候」として、直泰に署名花押させ、名あては扱衆五人とさせた。扱衆はこの書を老中酒井忠勝・松平信綱に内見を願い内諾を得て、その由をこの文書に裏書きし扱衆五人が署名花押した。これが泰興に回付されて、内分問題は解決したのである(『北藤録』)。条件である朱印状内書のことも、次に与えられた一六六四(寛文四)年四月五日付の朱印状から実現した。この知行形式はいわゆる内分で分知ではない。したがって泰興の実質知行は五万石となるが、格式がすべて六万石を保つわけである。一方、直泰は内分一万石ではあるが、知行一万石通りに大名家の格式として遇される。この後はこの例なく、幕藩制度の未熟時代の便法であった。以後はすべて分知の形式に移行する。

 新谷家統 
 第一代加藤直泰(一六一五 ― 八二)貞泰の二男、幼名は大蔵通称織部、実名は初め泰但。一六四一(寛永一八)年直泰は二七歳で初めて在所への暇を許されて国入りした。そのときはまだ屋敷がなく、大洲城下の中島にある家老佃助九郎(徳田季一)の屋敷へ入った。翌寛永一九年春は参勤であったが、出発までに在所を喜多郡新谷田合と定め、上新谷村のうちに屋敷(陣屋)並びに侍屋敷などの縄張りを命じてから参府した。家臣らは直ちに工を起こし、秋には新谷へ引っ越しを完了しか。新谷陣屋の成立である。引越給人は三一人であった。藩領郷村の確立は、寛永一六年以後であることは争えないがよくわからない。『加藤泰成家文書』によれば、一六四八(正保五)年三月二一日郷村が古高と新高を併記して公式に新谷方へ通達されたことになっている。古高九、三一五石、新高一万石で、理由は「織部様御分、物成よき所御鬮取り候故」ということである。直泰の任官は遅く、一六六〇(万治三)年一二月八日、四六歳で従五位下織部正に叙位した。一六八二(天和二)年一月五日新谷で没した。六八歳。
 第二代加藤泰觚(一六五六 ― 一七二六)泰義の庶男、泰恒の兄に当たり、直泰の養子となる。幼名覚十郎、通称は右京・織部、実名は初め泰忠。一六八二(天和ニ)年三月一三日家督相続を許された。一七〇九(宝永六)年四月一五日、五四歳で従五位下出雲守に叙任した。一七一六(享保元)年一〇月一二日隠居を許され、実名を再び泰忠と改めた。一七二六(享保一一)年二月二四日江戸で没した。七一歳。
 第三代加藤泰貫(一六七六 ― 一七二八)泰觚の嫡男、幼名は大七郎、通称は宮内、大蔵、実名は初め泰位。一七一六(享保元)年一月一二日四一歳で家督を相続、同年一二月一八日従五位下大蔵少輔に叙任した。一七二七(享保一二)年六月三日隠居を許され、翌一七二八(享保一三)年四月には新谷に移ったが、九月二一日病没した。五三歳。
 第四代加藤泰弘(一七一〇 ― 八五)泰恒の七男、泰貫の養子となる。幼名は右京、実名は初め泰春。一七二七(享保一二)年六月三日家督相続を許され、同年一二月一八日従五位下織部正に叙任した。一七五六(宝暦六)年八月二六日隠居を願って許された。のち官名を山城守と改めたが、一七八五(天明五)年二月一六日新谷で没した。七六歳。
 第五代加藤泰官(一七一〇 ― 七一)泰広の長男、幼名は右門、一七五六(宝暦六)年八月二六日家督相続を許され、同年一二月一八日従五位下近江守に叙任した。一七七一(明和八)年七月四日新谷で病没した。三五歳。
 第六代加藤泰賢(一七六七 ― 一八三〇)泰官の嫡子、幼名は覚十郎。一七七一(明和八)年九月二四日五歳で家督相続を許された。一七八二(天明ニ)年一二月二八日従五位下出雲守に叙任した。一八三〇(天保元)年一〇月二一日新谷で没した。六四歳。
 第七代加藤泰儔(一七八三 ― 一八七一)泰賢の長男、幼名は恒吉、一八一〇(文化七)年三月一〇日家督を相続、一二月一六日従五位下山城守に叙任した。一八三一(天保二)年三月一〇日四九歳で隠居を許された。やがて官名を長門守と改めたが、一八四九(嘉永二)年三月三日剃髪して誠翁と号した。一八七一(明治四)年一二月一四日新谷で没した。八九歳。
 第八代加藤泰理(一八一五 ― 六七)泰儔の二男、幼名は彦之進。一八三一(天保二)年三月一〇日家督相続を許され、翌年一〇月一三日従五位下大蔵少輔に叙任した。一八六二(文久二)年一二月二〇日隠居を許され、やがて名を誠行と改めた。一八六七(慶応三)年三月二〇日江戸で没した。五三歳。
 第九代加藤泰令(一八三八 ― 一九一三)泰理の長男、幼名は真之助。一八六二(文久二)年一二月二〇日家督を相続、同時に従五位下山城守に叙任した。一八六四(元治元)年五月五日、滞京尽力の功により従五位上に推叙された。のちに官名を出雲守と改めた。一八七〇(明治三)年九月一三日積年王事に勤労した功により正五位に叙せられた。廃藩置県により一八七一(明治四)年七月藩知事を免ぜられた。一八八四(明治一七)年子爵授爵。一九一三(大正二)年二月二三日没した。七六歳。正三位。