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伊予市誌

1 大洲領主

 加藤氏来由 
 家伝によれば、加藤家は藤原鎌足の孫房前(北家)の六世の孫利仁の流れである。利仁二四代の孫権兵衛景泰(― 一五七〇)は、美濃国厚見郡今泉村橋詰の庄に住み七〇貫を領した。その長男が加藤光泰である。
 加藤光泰(一五三五 ― 九三)は美濃の国主斎藤竜興に仕えたが、一五六三(永禄六)年竜興没落後以後は近江に退去した。やがて豊臣秀吉に見出されてその部将となった。その命により各地に転戦、一五八八(天正一六)年には佐和山城を与えられ、従五位の下遠江守に叙任した。やがて、小田原征討の軍に従って多くの軍功を重ね、一五九〇(天正一八)年七月一三日一躍甲斐国主に任ぜられ、金山とともに二四万石を与えられた。一五九二(文禄元)年の朝鮮役には、六月加勢として軍奉行を兼ねて渡海した。京城・開城の激戦には殊勲をたてた。翌文禄二年いったん明との和議がととのい、諸軍は引きあげて釜山に集結した。八月二六日光泰は急病を発し、血を吐いて危急に及んだ。部下の引揚処理を加藤清正に託し、浅野長政に遺書をあて、二九日早朝卒去した。享年五七歳。
 大洲領主第一代加藤貞泰(一五八〇 ― 一六二三)は光泰の嫡子、幼名は作十郎、実名は初め光長。一五九四(文禄三)年一月一七日一五歳で家督相続を許されたが、美濃国黒野四万石に移された。在城中に従五位下左衛門尉に叙任した。一六〇〇(慶長五)年上杉景勝が会津に挙兵、徳川家康がその討伐に出陣した虚に乗じ、石田三成は軍を起こした。貞泰は尾張国犬山城の加勢に出動していたが、弟の平内光直を人質として家康の上野国小山陣所に送った。以後家康の近臣永井直勝・酒井忠世・井伊直政らと密接に連絡をとった。貞泰は関か原では二番手として出陣、東軍は一挙に勝利を収めた。
 一六一〇(慶長一五)年七月一五日、貞泰は黒野本領の上に二万石加増、合わせて六万石、伯香国米子城を与えられた。このとき官名を左近大夫と改めた。一六一三(慶長一八)年江戸城普請手伝を、翌同一九年には江戸城濠普請を重ねて命じられた。この一〇月一日には大坂城征伐令が発せられたので、貞泰は工事を中止して大坂に馳せ向かい、天満口の配備についた。対陣中に和議が成って陣を引いて帰国した。次いで夏の陣にも神崎□に出陣した。激戦に加わり兜首二級を得て献じた。

 大津(洲)城入城 
 一六一七(元和三)年七月二〇日大洲城主脇坂安元は、信濃国飯田城五万五、〇〇〇石に転ぜられ、あとには加藤貞泰が旧のように六万石をもって封ぜられた。ともに大坂の軍功によるものであるという(『台徳院殿御実紀』)。米子からの大船団は八月五日長浜に到着、翌六日貞泰は陸路を馬で大洲城へ入った(『積塵邦語』)。時に貞泰は三八歳。この日以来二五五年、加藤藩主は連綿としてこの地に治政を展開するのである。これから領国体制の確立を目指すという矢先、一六二三(元和九)年五月二二日貞泰は四四歳の若さで世を去った。

 家統 
 第二代加藤泰興(一六一一 ― 七七)貞泰の嫡子で幼名五郎八、元和九年七月、徳川秀忠・家光とともに京都にはいったが、七月二九日泰興は伏見城に参殿して、貞泰遺領の相続を許された。一六二四(寛永元)年一四歳で従五位下出羽守に叙任、寛永三年在所への暇を許されて大洲城に初入りした。一六二七(寛永四)年二月加藤嘉明転出から、浦生忠知入部まで、松山城は城主不在ということになる。こうした場合、幕命によってその城地の警守に当たることを「城在番」という。泰興は松山城在番を命ぜられ、四月一日には松山城番所を受け取った。忠知は五月七日に江戸城で就封の暇を賜っているから、松山来着は六月であろう。泰興は忠知に城地を引き渡して帰城した。更に一六三四(寛永一一)年八月にも第二回松山城在番を命ぜられる(後述)。一六七四(延宝二)年二月二五日、泰興は願って隠居を許され、孫泰恒に家督を譲り月窓と号したが、延宝五年閏一二月一六日大洲下屋敷(勘兵衛屋敷)において没した。六七歳であった。
 第三代加藤泰恒(一六五七 ― 一七一五)泰興の嫡子加藤泰義(一六二九 ― 六八)の嫡男である。幼名は五郎八、実名は初め泰経、次いで泰常、更に泰恒と改めた。一六七一(寛文一一)年一二月二八日従五位下遠江守に叙任した。祖父隠居により嫡孫承祖ということで家督相続を許された。一七一五(正徳五)年、七月五日江戸で没した。五九歳。
 第四代加藤泰統(一六八九 ― 一七二七)泰恒の二男、幼名は巳之助、通称は左門・隼人。一七〇三(元禄一六)年一二月二二日従五位下出羽守に叙任、一七一五(正徳五)年九月一二日家督相続を許された。一七二七(享保一二)年六月二四日大洲において病没、三九歳。
 第五代加藤泰温(一七一六 ― 四五)泰統の嫡男、幼名は隼人、実名は初め泰古、中ごろ泰見、のち泰温と改めた。父の急死により一七二七(享保一二)年八月二六日、一二歳で家督相続を許された。一七四五(延享二)年六月一二日江戸で病没した。三〇歳。
 第六代加藤泰みち(ぎょうにんべんに令・ちょく)(一七二八 ― 八四)池ノ端家加藤泰都(泰恒五男泰茂養子)の長男、幼名は亀之助、次いで藤馬。西の丸徳川家重の御小納戸、小姓を拝命したが、泰温の急死により将軍吉宗の命によってその養子となり、一七四五(延享二)年八月九日家督を相続し、一〇月一八日従五位下出羽守に叙任した。延享五年七月五日官名を左近大夫将監と改めた。一七六二(宝暦一二)年二月一日隠居を許され、官名を上総介と改め、のちまた加賀守を名のった。一七八四(天明四)年一月一三日江戸浅草屋敷で病死した。五七歳。
 第七代加藤泰武(一七四五 ― 六八)泰温違腹の二男、幼名は豊之助、実名は初め泰政。一七六一(宝暦一一)年一二月七日従五位下遠江守に叙任、翌年二月一日一八歳で泰みちの家督相続を許された。一七六八(明和五)年五月二二日江戸で没した。二四歳。
 第八代加藤泰行(一七五三 ― 六九)泰みちの長男、幼名は初め滝口、次いで作十郎、更に造酒之進と改める。実名は初め泰顕、中ごろ泰英、相続して泰行と改める。一七六八(明和五)年七月二〇日家督相続、同年一二月一八日従五位下出羽守に叙任した。一七六九(明和六)年五月八日脚気熱症で没した。一七歳。
 第九代加藤泰候(一七六〇 ― 八七)泰みちの四男、幼名は辰千代、実名はめ泰輝、一七六九(明和六)年五月二三日家督を相続、一七七五(安永四)年閏一二月一二日従五位下遠江守に叙任した。一七八七(天明七)年七月四日没した。二八歳。
 第一〇代加藤泰済(一七八五 ― 一八二六)泰候の四男、幼名は作内、実名は初め泰重、次いで泰定、また泰済と改めた。一七八七(天明七)年九月一六日家督を相続、一七九七(寛政九)年一二月一八日従五位下遠江守に叙任した。一八二六(文政九)年九月二〇日江戸で病没した。四二歳。
 第一一代加藤泰幹(一八一三 ― 五三)泰済の長男、幼名は作十郎、実名は初め泰仁、次いで泰幹と改めた。一八二六(文政九)年一一月二二日家督相続を許され、翌年一一月一六日従五位下遠江守に叙任した。一八五三(嘉永六)年一月一五日江戸で没した。四一歳。
 第一二代加藤泰祉(一八四四 ― 六四)泰幹の三男、幼名於兎三郎。一八五三(嘉永六)年六月一五日一〇歳で家督を相続、一八五七(安政四)年一二月一五日従五位下出羽守に叙任した。一八六四(元治元)年五月五日、滞京朝廷守護の功によって四品(従四位下)に推叙された。この年八月一六日大洲で没した。二一歳。
 第一三代加藤泰秋(一八四六 ― 一九一六)泰幹の四男、幼名に廉之進、実名は初め泰輔。一八六四(元治元)年一一月二六日家督相続を許される。この時実名を泰秋と改めた。翌年二月二日従五位下遠江守に叙任した。一八七〇(明治三)年九月一三日、積年王事に勤労した功により位階二等昇進、従四位下に叙せられた。廃藩置県により、一八七一(明治四)年七月藩知事を免ぜられた。一八八四(明治一七)年子爵、一九二六(大正一五)年六月一七日東京で没した。八一歳。従二位。