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伊予市誌

一、中世の概況

 荘園・名田などの発達によって土地人民が私有化されると、中央集権的な国家の権力は衰え、地方の荘園地主である地方豪族・名主は自衛のため私兵を養う必要が生じた。国司のなかには任期終了後も地方にとどまり地方豪族・名主に支持されて武士の首長になり、ここに武士階級が起こった。やがて、西国に地盤を持つ平家と東国に地盤を持つ源氏の二つの武家勢力が争いを始めた。

 源平時代と伊予市 
 平氏の興隆期は中央において、平家一族が伊予国司に任ぜられた一一六一(応保元)年一二月から一一八二(寿永元)年三月までの間で、平重盛並びにその子維盛が伊予国司であった。これらの国司は実際には地方に来ない遙任であって、事実上の権力は郡下では三谷郷の高市氏などが握っていた。やがて、木曾義仲が京都に攻め上り平家を西国に追い、一時中央の勢力が義仲にあったとき、遙任として義仲が伊予国司に任ぜられた。
 河野通清は源頼朝挙兵の一か月前、一一八〇(治承四)年七月、高縄城に兵を挙げ、その子通清とともに伊予国司平維盛の配下目代の館などを次々に打ち破った。
 三谷郷に居館を構えて付近を支配していた河野一族の高市俊儀・秀儀が平家に加担したのは、平家方の阿波豪族田口成良らが高縄城攻略のとき力を与えたことによる。このとき、河野通清は一族とともに防戦したが、一一八一 (養和元)年に高縄城は焼失し、通清は一族郎党ともに戦死した。郡下は一時平家の勢力下に置かれたが、通清の子通信は急濾九州から伊予に帰り平家討伐に当たった。
 すなわち、通信は平家に加担していた伊予郡三谷郷の高市秀儀の館を一一八五(元暦一一)年一月に攻撃した。秀儀は二〇〇余騎をもって戦ったが、主従二四人は自害した。
 俊儀はこれを聞いて、吾川館の小山城(現在上吾川の小山)にろう城した。河野通信はさっそく小山城を包囲したので、俊儀は無勢のため城を保つことができず、讃岐の屋島に逃れ平家勢に加担した。
 また、一説には吾川館の小山城を脱出した高市俊儀は浮穴郡の山中に逃げこみ、百姓となってこの地を開拓し住居を構えたので高市の地名が起こったといわれている。現在の広田村の高市という所である。

 鎌倉時代と伊予市 
やがて一一九二(建久三)年、源頼朝は鎌倉に幕府を開いたが、弟義経と不和を生じたため通信は頼朝からうとんじられるようになった。そして伊予国総守護に佐々水盛綱がなった。
 義経の不和に次いで、頼朝は弟範頼とも不和を生じた。範頼はこのため伊豆国修善寺において自殺とみせかけて伊予に逃れ通信の庶子通俊(得能氏の租)をたより浮穴郡の蒲生城(中山町出渕)に居城していたが、一二三二(貞永元)年病死したといわれ、範頼の墓所は臣下の塚とともに現在上吾川十合の称名寺のそばにある。
 鎌倉幕府は三代源実朝になって、北条氏が執権となった。御鳥羽・順徳の二上皇は北条氏の専横に堪えられないので、一ニ二一(承久三)年五月討幕の兵を挙げた。このとき、河野通信の子通政・通末・通俊・孫の通秀らは上皇に味方して北条勢に敵対した。北条時房は数子騎を率いて高縄城を攻略し、通信は奥州平泉に流され、一族一四九人の旧領も没収された。伊予郡下の河野一族や郎党らは河野通信の挙兵には加わらなかった。当時白滝城(唐川)には河野通信の郎従越智経隆が居城していた。
 一二七一 (文永八)年と一二七九(弘安二)年の二度にわたる元の来攻に、石川郷縦渕城(石川南土居)の河野通久の三代目城主通有ら河野一族は大功をたてた。ここに再び浮穴・伊予郡(現在の伊予郡)は河野氏の領地となった。

 南北朝時代の伝承 
 八倉城(伊予市八倉)に後醍醐天皇の御子征南将軍満良親王が伊予官軍統帥のため入城されたという。これは多分、親王の代理ではないかと思われる。また、一三三七(延元ニ)年三月、満良親王が北朝勢と合戦した所として砥部町高尾田東手一面を指す土壇原という所がある。
 新田神社(大平四ツ松)は新田義貞の弟脇屋義助の子義治を祀るもので、義助は伊予が官軍に味方するものが多いので伊予に来たが、越智郡国府で一三四二(康永元)年五月に病死した。その子義治は伊予郡に来て大平のこの地で没したといわれ、その弓矢・甲冑などを各地に埋めた。このため付近の地名に甲谷・篭手谷、弓矢が渕などが残っている。

 細川勢の伊予襲来 
 河野通盛は湯築城に居城し、その子通朝とともに足利氏に味方した。細川頼元が南朝に下った讃岐の細川勢を攻めたとき、河野氏はこれに兵を送らなかった。このため通朝は一三六四(正平一九)年細川頼元に滅ぼされ、その子通堯は各地に逃れ、のち西征府懐良親王に助けられ宮方となり、名を通直と改めた。
 森山城(大平)の河野氏の旧臣森山伊賀守は細川勢の攻撃に対して、高縄城に立てこもって細川勢の攻撃に備えたが、やがて落城したので討ち死にした。
 伊賀守の子孫は、河野通堯(通直)が九州から再び松前に上陸し吾川・黒田・岩屋谷に細川勢を攻め、まもなく浮穴伊予郡を平定したので、この地に城主として代々居城した。

 室町時代の伊予市 
 足利尊氏は北朝を奉じ室町に幕府を置いた。この時代における伊予郡では、貨幣経済が発達したことによって金融機関として土倉が発達した。これは米穀などを納めるとともに現在の質屋に相当する営みをしていた。
 伊予市の「八倉」なる地名は、東寺の米納入所及び金融機関としての土倉がたくさんあったところから、八倉と呼んだものである。
 また「米湊」は中央の米場として米の積出港としての港を指していた。「市場」という地名も室町時代以後、物品の集散交換地として当時の市場のあったことを示している。

 応仁の乱と伊予市 
 一四六九(応仁元)年から一四七七(文明九)年まで一一年間、天下の諸将は乗軍細川氏と西軍山名氏の二派にわかれて京都を中心に戦った。伊予においては新居郡高木城の可野通春は細川氏の東軍に属し、これに対し浮穴伊予郡を支配していた大洲地蔵嶽城に居城の宇都宮家綱は、温泉軍湯築城の河野教通らとともに山名氏の西軍に属した。
 当時の諸城を見ると、伊予市中村の山崎城には、宇都宮氏の部将または一族の東新左衛尉俊之が居城していた。唐川の白滝城には河野氏の郎従越智経孝の子孫経武が居城していた。いずれも宇都宮氏の下に安穏を得ていた。

 長宗我部の伊予平定 
 毛利氏の来襲で、松前・岡田・北伊予並びに温泉郡に合戦のあった六年後の一五七八(天正六)年に、土佐の長宗我部元親の伊予来襲が始まった。翌一五七九(天正七)年、長宗我部氏の部将久武内歳之助を総督にして宇和・喜多二郡に侵入し、宇都宮豊綱の居城地蔵嶽城を攻略した。その勢をかりて伊予郡下の諸城も次々に陥落していった。
 自滝城(唐川)の越智経房は長宗我部来襲によって所領を没収された。その子孫は現在砥部町五本松にいて白城家を名のっている。
 森城(森)の熊権兵衛のてん末は不明である。
 一五八四(天正一二)年には道後湯築城の河野通直をくだし、ここに伊予を平定した。
 長宗我部氏は住民には暴政をとらず、地方の秩序を回復させ、元親式目十か条を定めて祭祀・武芸・学問・倹約を奨励した。
 長宗我部の来襲で落城した諸城はその後廃城となったので、今日見るべきものがない。城主に代わるものとして、その地の人民と土地を監督する地頭または田所であった。また、これ以外に社寺は領主などの土地の寄進により、人々の信仰の対象として、城砦とともに地方文化の中心となっていた。
 鎌倉幕府創立以降における伊予市の社寺への寄進を見ると次のようである。
 一三一九(元応元)年一一月、伊予吾河郷(上吾川)の称名寺寺領永代免田となる(『称名寺文書』)。
 一三二三(元亨三)年、河野通有は三島大明神へ伊予山崎荘(現在の大平・中村・本庁地区)を寄進する(『伊予三島縁起』)。