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伊予市誌

3 伊予の荘園

 古文書に見える伊予の主な荘園名をあげると次のようである。

  宇摩郡 宇摩荘・津根荘
  新居郡 新居大島荘・新居荘・西条荘・井於荘
  周布郡 吉岡荘・壬生川荘
  桑村郡 徳能荘・河原荘
  越智郡 鴨部荘・弓削荘・大島荘・生名荘・岩城荘
  野間郡 菊間荘
  風早郡 高田荘・粟井荘
  和気郡 和気荘・吉原荘
  伊予郡 余土荘・玉生荘・神崎荘・山崎荘・砥部荘・吾川荘・草津荘
  喜多郡 矢野荘
  宇和郡 宇和荘・三間荘・御荘

 これらの各荘園が、荘園としてできあがった起源についてくわしいことはわかっていない。このうち、社寺を本所とするものには、東寺に属する弓削荘があり、比叡山延暦寺の御荘、東福寺の吉原荘、加茂神社の菊間荘、石清水八幡の岩城島、佐島の各荘と玉生荘、神崎荘がある。貴族領としては、長講堂領の三島荘・忽那荘があり、後者は忽那島の開発地頭藤原俊平が寄進したものである。このほか後宇多院領であった吉岡・高田の両荘がある。西条荘と新居荘はともに平氏の荘園であったが、源頼朝が手に入れ地頭職を河野通信に与え、一三〇〇(正安二)年には高野山領となった。
 鎌倉時代の中期ごろから武家である地頭が荘園をおかし、領家の勢力がおとろえていくのは多くの荘園で見られることである。この代表的な姿を塩の荘園として、有名な東寺領弓削荘で見ることができる。すなわち、一三〇三(嘉元元)年、地頭と領家の東寺との間で田畑・山林・塩浜などを領家三分の二・地頭三分の一に分け、地頭の侵略をくいとめようとしたのもその一例である。