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伊予市誌

2 渡来人たちの活躍

 四世紀末から五世紀になると、松山平野南部の豪族は統一され、四国地方を代表するような大豪族となり、いち早く、大和王権の支配下に入ったと見られる。この勢力が、四国で最初に設置された『国造本記』にいう「伊余国造」ではなかろうか。
 中期の古墳は、前期と比べるとわずかではあるが明らかになりつつあり、県内の古墳の中でも特色ある地域となっている。しかし、伊予市内では本格的な調査はほとんど行われていない。したがって、ここで述べることも一、二の例外を除いては、推測する以外に方法がないことをまず断っておきたい。
 伊予市内の中期古墳と見られる古墳は、大別すると二群となる。一群は宮下地域の吹上の森一号墳、同二号(伊曽能神社南)墳、北谷池古墳、上野桜山古墳、茶臼山古墳、猿ケ谷南古墳などであるが、すべてが未調査であり、出土する遺物には重要なものが含まれているが、出土状態も内部王体も不明である。吹上の森一号、二号や桜山、北谷池、茶臼山古墳は前方後円墳であるとする説や大型の円墳であるとする説があり、正確なことは、現在までの段階ではわからないというのが正しい。
 吹上の森一号墳からは県内唯一の筒形銅器や方格四獣文鏡、碧玉製紡錘車形石製品、鉄剣、直刀が出土しているが、内部主体も不明であり、残存地形から見る限りでは前方後円墳とするには問題があるし、現存する古墳だけから、首長墓の系譜を云々するのは慎重でなければならない。なお、南に接して大塚と呼ばれている古墳や、伊曽能神社南古墳や北谷池古墳などを総合的に調査をしたうえで結論を出すべきであろう。これらの古墳は、すべて円筒埴輪をめぐらしているといわれている。
 桜山古墳は行道山の稜線下の標高二九八mの高所にあり、直径四〇mで、内部主体は不明であるが、墳丘中から五世紀初頭の家型、盾形、朝顔形埴輪が出土しており、吹上の森一号墳に後続する首長墓ではとの説があるが、墳丘の形態や内部主体を明らかにしたうえでなければ結論めいたことはいえない。一歩譲って、桜山古墳を首長墓としても、稜線下には長尾谷古墳群や茶臼山、風呂ケ谷、上野松本古墳などの大型古墳があり、上野地区での系譜を検討すべきかも知れない。
 もう一群は、内部主体が箱形石棺の小型の円墳で、山腹斜面の小丘陵上に分布している。その代表例が猪の窪一号墳である。この周辺には多くの同じような古墳が分布しているが、山麓下の吹上の森一号墳や同二号墳、北谷池古墳などの大型の古墳が分布しているので、これら小首長墓クラスに従属する工人集団の長クラスの古墳ではなかろうか。猪の窪一号墳は内部王体が緑色片岩の偏平な素材を組み合わせた箱形石棺で、天井石は一枚岩で、両端を斫って尖らせて、縄を掛けて人担運搬ができるように精巧に加工している。これらの石材はこの地にないので、砥部川上流から田ノ浦越えで運んできたものである。内部が箱形石棺のためか、墳丘の土盛りはそれほど高くなかった。周辺の古墳も皆同じであったようである。箱形石棺は本来は一度埋葬するだけであるが、猪の窪一号墳は狭い石室内に二遺体を埋葬していた。このうちのA号遺体は熟年男性で、頭部を東にして伸展葬で埋葬していた。B号遺体は石棺の西側石に沿うように、頭蓋骨や上肢、下肢骨が一括してまとめられていたので、A号遺体を埋葬する際、カタズケを行ったものであろう。B号遺体は若年男性である。最初に若年の息子を埋葬し、その後、父親を埋葬したものであろうか。このころの箱形石棺内の遺体は、頭部を北にするのが普通であるが、猪の窪一号墳は頭部が東になるように埋葬していた。山口県土井ケ浜遺跡の人骨同様、中国や朝鮮半島南部を向くように埋葬した可能性が濃厚である。副葬品は棺内から五本の鉄剣と鉄製鉗子、刀子、ガラス小玉が、棺外の被覆用粘土中から土師質土器片と鉄剣、鉄鎌、鉄斧、タガネ、ノミ、金網、鉄鏃一四点が出土した。出土遺物のほとんどは鉄器であり、それも武器のみならず農具、工具にタガネが含まれており、県内でこれほど多種多様な鉄器の出土例はない。遺体の頭部が長頭型で、身長が一六九㎝と長身であること、西に向かっての埋葬であることなどから、朝鮮半島南部からの渡来系の鍛冶工人集団の人々の古墳であるのではないかといわれている。
 出作遺跡出土の豊富な鉄製ミニチュア農具や工具の出土から、鍛冶集団の存在が指摘されていたが、これは渡来系の鍛冶集団であった可能性が高い。伊予市内の後期古墳からの馬具を中心とする豊富な鉄器の出土も、この流れの上に存在したのかも知れない。中期の箱形石棺は上三谷の尊霊社や鹿島にもまとまって分布しており、これらも渡来系の人々の古墳の可能性が高い。
 五世紀前半から中葉になると、市場南組で登り窯を用いた須恵器生産が行われている。これが南組窯跡である。須恵器は朝鮮半島から五世紀前半に我が国にもたらされたもので、それらを陶質土器と呼んでおり、猿ケ谷二号墳の墳丘中から出土している。猿ケ谷二号墳を築造する前に、五世紀前半から中葉の古墳が存在していたようである。陶質土器が我が国にもたらされるのとほとんど時をおかず、南組で須恵器生産が行われている。このことは、渡来系の鍛冶集団同様、我が国で最初にこのような須恵器生産を行うことができたのは、進取性に富み、情報をいち早く入手でき、それを実行に移すだけの政治力や経済力を保持した、強力な首長の存在を考慮しなければならない。おそらく、豊かな経済力を用いて朝鮮半島から窯業技術者集団を招いて、良質で豊富な粘土産地の市場周辺で生産を行ったものであろう。
 猿ケ谷二号墳の墳丘出土の陶質土器と同じ須恵器が、南組窯跡からも出土している。南組窯跡の初期須恵器は松山平野のみならず、瀬戸内沿岸や宮崎県南部まで搬出されているといわれ、南組系須恵器群と呼ばれている。おそらく、森海岸から積み出されたものであろう。これら窯業や鍛冶などは渡来人を招いた結果、可能となったもので、これ以降も渡来人は次々と伊予の地に来たと見られる。その人々の墓制が支石墓や箱形石棺墓かも知れない。
 五世紀後半から六世紀にかけての窯跡は伊予市内では確認されていない。この時期になると隣接する砥部川や御坂川周辺で須恵器や埴輪が盛んに生産されるようになっており、それらに従事する工人集団も朝鮮半島からの渡来人であるといわれ、特別な方墳が造られている。鉄器や須恵器生産に従事するため招いた渡来人は、死去のあとも朝鮮半島南部と同じような墓制である箱形石棺や方墳を築造し、埋葬していたようである。
 後期になると、低湿地を望む台地端に古墳が分布するようになるが、このような場所は農地に適しているため、早くから古墳を削平して水田化したので、外観的には古墳とは見えなくなっている。その例が風呂ケ谷や松本古墳、下三谷ケリヤ古墳であろう。これらは発掘調査の結果、基盤面がかろうじて残存していたため古墳の存在が明らかとなったものである。風呂ケ谷古墳からは六世紀中葉の葬送儀礼を表す装飾壷が出土している。壷の肩部に騎馬像とたずなを引く人物が三か所に付けられている。馬装も人物の服装も、朝鮮半島の騎馬民族系のものであり、被葬者は渡来系の人ではないかといわれている。上野松本古墳も円筒埴輪をめぐらす大きな古墳であるが、未調査のため、墳丘形態も内部主体も不明である。このように水田中に完全なまでに削平された古墳が分布することが明らかになったので、現存する古墳だけで古墳文化を明らかにすることは困難を伴う。
 五世紀末から六世紀初頭になると、伊予岡丘陵に古墳群が形成されるようになるが、一部が明らかになっているものの未調査のため、明確なことは判明していない。ただ神社建立のため少なくとも数基の古墳が消滅している。これらの古墳を築造した人々の集落が何処に営まれていたのかは不明であったが、最近の調査で、伊予岡北部の松本新池から八反地、内台周辺にかけて広範囲に集落が形成されていたことが判明した。今後は、これら集落解明への調査が必要となろう。
 古墳時代後期の六世紀になると、少ないなりにも古墳や遺跡の発掘調査が行われ、その時代の様相が一部垣間みえるようになる。その場所が大谷川が平野に流出する周辺の丘陵と洪積合地上である。
 大谷川左岸に広がる台地上の客池周辺からは、先に述べたごとく四世紀前半の三角縁神獣鏡が二面出土しており、既に大和王権との強い結びつきをもつ首長の存在が推定されている。このことは愛媛県内でも最も早く大和王権の支配下に入ったことを示している。これら三角縁神獣鏡を副葬したであろう不明の古墳に続く首長墓は、現在まで確認されておらず、四世紀中葉から五世紀にかけての大谷川流域には、首長墓は欠落している。そのため、この空白時期の首長墓を他地域に求めようとする考えがある。それが四世紀後半から五世紀初頭にかけての吹上の森一号墳であり、それに続くのが桜山古墳であるといわれている。伊予地区の首長墓の発生は大谷川流域の客地区であるが、それに続く首長墓が客地区から遠く離れた宮下地区北端の吹上の森に場所を替え、更にそれに続く首長墓が、再び場所を替えて上野地区の山頂に築造されており、場所やその立地に、首長墓系譜の整合性が認められにくい。
 四世紀後半から六世紀にかけて、宮下地区や上野地区には小首長的な支配者階層が存在していたのではなかろうか。宮下地区では墳丘規模の大きな伊曽能神社南(吹上の森二号)古墳や北谷池古墳、雨ケ森大塚古墳などがあることから、この地区だけで系譜をたどることも不可能ではない。これらの首長の下に、猪の窪古墳の被葬者のような工人集団が所属していたのかも知れない。
 上野地区でも五世紀初頭の桜山古墳は、その規模から首長墓クラスの古墳と見てよい。桜山の稜線上には数基の長尾古墳があり、山麓丘陵上には茶臼山が、台地端には風呂ケ谷や上野松本古墳などがあり、これらを調査すれば、この地での小首長墓の系譜をたどることもまた可能である。
 三谷地区では、六世紀になると全長三〇mの横穴石室を内部主体とする前方後円墳の客池西古墳が築造されている。現在ではこれに続くのが同じ規模の前方後円墳の遊塚(上三谷三号)古墳であるといわれているが、この間に猿ケ谷二号墳や南坂一号墳、原古墳が存在している。前方後円墳の狼ケ谷二号墳の墳丘中から陶質土器が、横穴式石室内から馬具類や鉄製太刀類、須恵器が多く出土し、前方部から神獣鏡が一面出土している。
 伊予地区では遊塚古墳を最後に前方後円墳は終わりを告げる。これに続く首長墓が一辺約三〇mの方墳の上三谷二号墳や、一辺が約二二mの方墳の塩塚(上三谷一号)古墳であるといわれている。ともに内部主体は横穴式石室である。特に上三谷二号墳からは馬具や玉類が、塩塚古墳からは圭頭太刀や四神四獣鏡が出土し、その遺物から見ても首長クラスの被葬者であると想定している。首長墓が前方後円墳から長方墳へと大きな変化をしている理由が明確でない。この時期の砥部町の窯業を中心とした渡来系の人々の墳墓は方墳であるといわれているので、渡来系の人々の古墳の可能性も検討してみる必要があろう。
 三谷地区は、四世紀中葉から五世紀末までは首長墓不在期間とされているが、城山四号墳や嶺昌寺東古墳、客池一号墳などは未調査であり、かつ、前方後円墳の可能性も指摘されており、客池中に舌状に突出していた同二号墳なども前方後円墳の可能性が高い。客池三号墳の所在していた場所からは、初期須恵器が出土しているので、少なくとも五世紀後半の古墳の存在を推定することができるし、獣形鏡が出土した春戸口古墳や猿ケ谷、南坂、原古墳群のなかに首長クラスの古墳があるかも知れず、この地域だけで首長墓の系譜をたどることも可能である。
 このように見てくると、調査された古墳や、現存する古墳だけでの検討には限界を感じる。溜池改修や開墾、高速道路建設のために未調査のまま消滅した古墳なども取り上げて検討を加えなければなるまい。
 なお、前方後円墳の客池西古墳を客池古墳としている場合があるが、正しくは客池西古墳である。客池古墳は客池西堤防下や、客池中に戦後まで存在していた客池二号墳や三号墳を指すものである。
 後期後半になると、裕福農民層も横穴式石室を内部主体とする小型の古墳を築造するようになり、丘陵上や山麓台地上に古墳群が形成されるようになる。これが長尾谷や長尾、南坂、上三谷、十合、八幡池、伊予岡、森古墳群などである。

第87図 八反地遺跡と内台遺跡出土の須恵器

第87図 八反地遺跡と内台遺跡出土の須恵器


第88図 松本新池出土の須恵器

第88図 松本新池出土の須恵器


第89図 宮下北谷池古墳出土の須恵器

第89図 宮下北谷池古墳出土の須恵器


第91図 猿ヶ谷2号墳前方部出土の神獣鏡

第91図 猿ヶ谷2号墳前方部出土の神獣鏡


第94図 客池池底南部出土の初期須恵器

第94図 客池池底南部出土の初期須恵器


第95図 遊塚(上三谷3号)古墳平面図

第95図 遊塚(上三谷3号)古墳平面図