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伊予市誌

1 豪族たちの出現

 弥生中期後半の我が国には、百余国の小国家が成立していたといわれている。このころの遺跡分布の状態から見ると、伊予市や松前町を中心とした地域に一つの小国家が形成されていたことはほぼ間違いないが、その国名は不明である。だが、伊余や伊豫の語源に近い国名を名乗っていたのではなかろうか。
 弥生後期になると有力な小国家が弱小国家を統合したり、「邪馬台国」のような連合的な国家へと統合されたと見られる。
 三世紀後半になると畿内の大和王権が巨大となり、東海地方から北部九州までの小国家を支配下に入れ、我が国の主要地帯を統一していたようである。このころ、朝鮮半島から死者を祭るための大きな高塚をもつ墓制が伝わり、築造され始めた。それ故、この時代を古墳時代と呼んでいる。古墳時代は三世紀後半から七世紀中葉頃までであるが、三世紀後半から四世紀の間を前期、五世紀を中期、六世紀から七世紀中葉の間を後期と区分している。
 さて、伊予市や松前町に存在した小国家が、いつごろ大和王権の支配下に組み入れられたのかは定かでない。ただ、大和王権は高塚のうちでも前方後円墳を王権の墓制として採用していた。そのため、前方後円墳築造の時期が大和王権の支配下に組み入れられた時期と見られている。伊予市周辺については、初期の前方後円墳が発見されていないので、確かなことはわからない。
 伊予市内で前方後円墳の存在が確認されているのは六世紀前半の客池西古墳である。ただ、間接的ではあるが、それを知る手掛かりの一つがある。それは上三谷旧嶺昌寺付近から出土した二面の青銅製の三角縁神獣鏡である。往々にして広田神社上古墳とか嶺昌寺古墳出土として発表されているが、そのような古墳は存在しない。しかし、全国的には、三角縁神獣鏡は前期古墳から出土している。三角縁神獣鏡が細片となって散乱していたのは、客甲三三〇七番地と東隣の畑であるが、畑中に瓦製の祠が鎮座し、その中にも鏡の細片が集められていたので、古墳の可能性を完全に否定するわけではないが、最終的には古墳存在の有無を確認したうえで古墳名をつけるべきであり、現段階では鏡出土地としておくのが無難であろう。旧嶺昌寺と前方後円墳である客池西古墳との間に、規模の大きな円墳と想定される古墳があるので、周辺付近の詳細な調査を行ったうえで古墳名を検討すべきであろう。
 愛媛県内から出土している三角縁神獣鏡は上三谷客甲三三〇七番地出土の二面と、今治市国分古墳出土の一面だけである。客出土の二面の三角縁神獣鏡は、京都府山城町椿井大塚古墳と奈良県桜井市茶臼山古墳から出土したものと同じ鋳型で鋳造したものである。このことから、客出土の鏡を持っていた豪族の首長は、畿内と強い結びつきをもっていたと見てよい。おそらく、三世紀末から四世紀前半には、愛媛県内でも今治市南部とともに、いち早く大和王権の支配下に組み入れられていたと見てよかろう。
 三角縁神獣鏡を所持した豪族の首長は、大谷川流域を支配した初代の豪族であり、この系譜を引く豪族たちは上三谷、下三谷地区に客池西古墳、遊塚古墳、塩塚などを構築したのではないかといわれている。この他、古墳前期の調査例はあまりないが、森遺跡から一辺四mの隅丸方形の竪穴住居跡が発見されている。住居跡の西側には一・五mの方形の造り出しの炉跡があり、ここから甑形土器が出土している。甑形土器は山陰地方を中心に分布する土器であり、県内でも松山市宮前川遺跡から出土している。何のための土器であるかは明らかとなっていないが、炉跡から出土していることから、カマドの火の使用後に、火災を防ぐためと、おき火を保存するため、おき火の上に伏せた土器ではなかろうか。
 四世紀前半には森遺跡を中心とした森川右岸の台地上に前期のムラが存在したようであり、集落の機能は漁業だけではなく、海上交通的機能も併せもっていた可能性が大きい。将来、この周辺で前期の前方後円墳が発見される可能性が高いことを指摘しておきたい。後期と見られる大型の森天神神社古墳の存在も、その延長上にあると見てよい。
 この時期、少なくとも森川、大谷川、それに長尾谷川流域と宮下区域の四地域に、小豪族が君臨し、それらを統合したのが大谷川流域の三谷グループと上野グループではなかろうか。

第81図 森遺跡出土の甑形土器

第81図 森遺跡出土の甑形土器