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伊予市誌

4 高地性遺跡の出現

 弥生中期後半になると、農耕地もなく、飲料水にも事欠き、交通の不便な、人々の生活に不適な山頂や山腹に遺跡が立地するようになる。これが弥生系高地性遺跡である。当時は稲作中心の社会であったが、あえて稲作のみならず、日常生活にも不適な山頂に集落を設けたのには、それなりの理由があったはずである。伊予市内には本県を代表する高地性遺跡である行道山遺跡があり、他にも八倉、金松山、田ノ浦、上野新池南、行道山Ⅱ、猿ケ谷、原南、春戸口、上三谷神社、十合、稲荷畑遺跡などがある。なお、これらの遺跡から眺めることのできる松山城や大峰ケ台山頂に、同じ時代の同じような遺跡が分布している。
 現在までの調査で、これら高地性遺跡がすべて弥生中期後半であり、平野や瀬戸内海を一望することができるという共通性をもっている。中国の『魏書』の「東夷伝倭人の条」のなかの卑弥呼の女王即位前の「倭国大乱」に関係する、軍事的集落であるとする説が定説化しつつある。伊予市内の高地性遺跡は、東西に連なる山頂や山腹に立地し、松山平野や西漸戸内海を眼下にすることができることから、大乱の際の見張り台や、敵襲を低地の人々や連合的国家に連絡するための狼煙台的な機能をもっていたと見てよい。行道山遺跡では、石庖丁や石錘が出土することから、生活の基盤は低地にあったと見てよい。このような大乱を経て倭国統一へと進んだのではなかろうか。瀬戸内海沿岸の高地性遺跡分布からすると、西から東へと向かう勢力を防禦する配置のようである。防禦ないし狼煙という通信的機能以外にも、雨乞いなどの祭祀的機能をもっていた可能性も否定できず、遺跡によっていろいろな機能をもっていたのかも知れない。いずれにしても、金松山や行道山に電波塔が建設されていることと、狼煙台が設けられていたこととの間には、共通する立地条件が存在していることを示している。