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伊予市誌

2 石剣と金属器

 弥生時代は稲作と金属器の時代ともいわれているように、金属器の果たした役割には計り知れないものがある。金属器は青銅器と鉄器に分けられるが、稲作技術とともに、同じころ大陸や朝鮮半島から北九州地方に伝播し、それが時をおかず伊予市周辺に波及している。
 弥生前期前半の我が国では、金属製武器の入手は困難であった。そのため、朝鮮半島で使用されていた鉄剣を模倣したスレート製の有柄式磨製石剣を代用品として入手した。この石剣は我が国では対馬から最も多く出土し、これに続くのが北九州地方と伊予市周辺である。これ以外からの出土がないという特殊な分布状況である。このことは朝鮮半島や対馬と極めて密接な関係があったことを示している。おそらく、朝鮮半島から対馬経由で関門海峡を通り、直接、伊予市や松前町へ伝播したものであろう。この有柄式磨製石剣は伊予市宮下東谷、寺山、松前町出作宝剣田、砥部町田ノ浦から出土している。時を同じくして、対馬や北九州地方にだけ分布する支石墓が出作宝剣田遺跡から発見されており、朝鮮半島→対馬→北九州地方→伊予市周辺への文化伝播ルートが確立されていたのかも知れないし、そのような文化を、いち早く受容するだけの豊かなムラか、小国家が成立していたのかも知れない。ある意味では、弥生前期前半の伊予市周辺は、北九州文化圏に属していたといっても過言ではない。
 鉄器も弥生前期後半には入手していた可能性があるが、現在までのところ発見されていない。青銅器には銅鏡、銅剣、銅鉾、銅戈、銅鐸、銅鏃などがあるが、銅鏡は権力のシンボルであり、銅鐸は祭祀用で、他は初期においては武器として我が国に伝わったが、武器としての地位は鉄器に譲り、非実用的な武器形祭器へと変化した。このうち、伊予市内で出土が確認されているのは、東原から出土した広形銅鉾一口だけである。出土状況は不明であるが、大谷川支流の小河川の水源地帯からの出土であることから、水に係る信仰のためとするのが無難であろう。
 約二、〇〇〇年前を前後する弥生中期になると、桧山平野や周桑平野には平形銅剣を中心とする文化圏が形成されていたといわれており、松山平野北部の道後地区から二一口も出土している。にもかかわらず松山平野南部からは一口も出土していない。これがいかなる理由によるのかは定かでない。平形銅剣は東からの伝播であり、松山平野北部まで伝播した段階で終わりを告げた形となっている。これに対して松山平野南部には、北部とは違った広形銅鉾を祭器とする抵抗勢力が形成されていたのかも知れない。

第62図 東谷・寺山出土の有柄式磨製石剣

第62図 東谷・寺山出土の有柄式磨製石剣