データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

3 人々の生活

 伊予市内の縄文遺跡の発掘例は少なく、発掘が行われた石橋遺跡も、遊塚古墳の発掘中に偶然発見したものであり、遺構の確認までには至っていない。ただ、伊予市に隣接する砥部町や松山市南部では多くの遺跡が発見、調査され、縄文文化の一端が垣間見えているので、伊予市内もそれはどの違いはなかったとみられる。砥部町や松山市南部では山麓台地上に遺跡が分布しているが、その規模は小さい。ムラの規模が大きくなるのは縄文晩期の松山市北部の大淵や船ケ谷遺跡のように、低湿地に分布するようになってからである。伊予市内でも片山遺跡周辺には大規模な遺跡が発見される可能性がある。
 当時の人々は数戸単位の住居でムラを構成し、方形の竪穴住居に住み、狩猟、漁撈、採集生活を行っていた。
 狩猟用に使用する石器の大半は、香川県産のサヌカイトであるが、一部、姫島黒曜石や森川上流の赤色珪質岩、チャートを使用し、石錘は森川流域や双海海岸の緑色片岩の川石や海石を利用していたようで、石器も道具ごとに石質を使い分けしていたようである。
 なお、サヌカイトや黒曜石が搬入されていることは、東部瀬戸内海沿岸や九州地方との交易ルートが存在したことを示しており、伊予市海岸は流通拠点となっていたようである。