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伊予市誌

1 縄文時代の自然環境

 晩氷期の後半である約一万二、〇〇〇年前になると、ウルム氷期も終わり、気候は一段と温暖化し始めたが、久万高原町上黒岩岩陰遺跡からシベリアヤマネコが、西予市穴神洞遺跡からオオツノジカの骨や歯牙が出土しているので、まだまだ寒冷であったようである。しかし、気候は更に温暖化し、それに伴って瀬戸内の海化か進み、少なくとも九、〇〇〇年前には伊予灘はほぼ海化し、現在の伊予市周辺の地形ができあがったのは約八、〇〇〇年前である。気温は現在よりも少し寒冷であったようであるが、台地や山地は落葉性広葉樹や照葉樹が繁茂する乾燥ぎみの気候であった。そのため、シイやクリなどの堅果類が豊富に実り、これを餌とするイノシシ、シ力などを狩猟の対象とするとともに、堅果を採集して貯蔵し、食料とするようになり、食生活の面でも大きく変化した。不安定な食料獲得手段であった狩猟に、安定的な食料が得られる堅果類の採集や魚貝類の採取、漁撈が新たに加わり、生活そのものが安定するようになった。
 後期旧石器時代の道具は石器や骨角器、木器だけであったが、約一万二、〇〇〇年前の縄文時代草創期になると、新たに土器が発生し、使用されるようになった。土器の使用開始が縄文時代の始まりでもある。このころの我が国最古の土器が、上黒岩岩陰遺跡や穴神洞穴遺跡から出土しているので、同じ愛媛県の伊予市でも使用されていたと見てよかろう。土器の使用は、調理方法の大きな変革だけではなく、食料とすることのできなかったものも、煮たり、炊いたり、蒸したりすることによって食料とすることができるようになり、文化全般に大きな変化をもたらした。
 現在の気候に近い状態になったのは、花粉分析の結果などから推定して、おおよそ約六、〇〇〇年前の縄文時代前期あたりと見てよかろう。縄文時代は土器発生の約一万二、〇〇〇年前から約二、四〇〇年前までの約一万年間の長い時代であり、その後、稲作や弥生土器、金属器の使用が始まる弥生時代へと移行する。