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伊予市誌

三、地形と農業

 山地と生活 
 大平・唐川・三秋における森川の本流及び支流の川沿いの地や、山腹山頂の局地的な緩斜面で、森林資源をかかえ農耕している地帯がある。わずかな広さではあるが、肥沃な風化土と飲料水・燃料などに恵まれて自給生活時代から定着してきた。平岡は三〇〇mで鵜崎は五〇〇m内外の高地であるが、日照に恵まれているので農耕にいそしむかたわら副業として林業に従事してきた。最近これらの地域にも果樹園芸事業がぼっ興し、伊予市の重要産業の一翼を担っている。一九六五(昭和四〇)年ころから都会地との生活格差が大きくなったが、山地ながら高度な文化生活をし、生業に活気を呈しているのは、この果樹園芸事業のためである。しかし、自家用車の普及で都会地に就職する人々が最近多くなり、家に残った妻や老人でする農業となってきて、経営の粗放化は免れない状態になってきている。

 市街地周辺低地と生活 
 新しい生活舞台は砂地の微高地であったが、太古よりの生活舞台は市街地区の南西から南東にかけての山べりの台地地区であった。古代人は山の幸の多い、しかも、海から離れた土地を生活の根拠地とした。そこは薪炭は得やすく、狩猟に出かけるに遠くなく、谷川の水によって水田耕作をするには都合よく、古代人には格好の生活安住地であった。農耕技術の進歩と土工技術の進歩とによって、用水池を構築し用水路をつくっての土地の開発は、山麓から水下へと漸次進められ沖積平野に及んでいった。古墳時代には既に洪積台地に定住するようになり点々と集落を見るようになった。低地農耕の発祥は山麓地帯であったが、現代におけるこの地区の住民は、背後の山地と取り組み伊予市の重要産業の一つである蜜柑園の経営上、不可欠の重要な地区となっている。

 海辺微高地と生活 
 伊予市の人口の約五〇%は、伊予灘の波浪のつくった沖積砂地の微高地に集中して生活している。この地域は風早郡との替地に発展の端を発している。替地によって大洲領となった地域は郡中と呼ばれ、その中心が微高地に展開された。郡中は最近まで町名として用いていた。郡代官所や関連役所が設置され、諸役人の住宅が設けられ、商人が集まって商店街が形成され、代官所指定の宿屋や商人宿屋ができ、各種の家内工業も起こって、港の構築となった。こうして郡中(狭義)は郡中(替地全域)における政治経済交通の中心となった。新川・沖庄・浜田などの微高地は野菜供給地として耕作が盛んになった。近代的産業の波が押し寄せるようになってきて、諸工場もこの微高地に営まれている。