データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

伊予市誌

一、位置

 数理的位置
 伊予市は一般にいうところの中予に属し、松山(道後)平野の南西部に位置している。伊予市庁舎のある地点は、国土地理院作成の五万分の一の地形図により測定すると、東経一三二度四二分二七秒、北緯三三度四五分一六秒である。

 自然的位置
 伊予市は西に風光明媚な瀬戸内海に面し、豊かな自然と美しい風土に恵まれたところである。
 古代から道後平野の中心地として開けたところであり、早くから人々が住みついていた。
 海に近く、また、前に山々がそびえ地方を治めるのに最も適した土地であった。中央政権をもつ大和朝廷と九州を行き来する、かっこうの寄港地であったと思われる。四国・九州の地を治めるため中央から遣わされた人たちが、この伊予の地に住みついた説もある。その最も代表的なのが伊豫皇子であり、宮下・今岡、上野・長尾は、行道山麓に広がる丘陵性の台地で、今岡御所の跡といわれる。ここは俗に茶臼山ともいい伊豫皇子の御所であったと伝えられている。また、付近の山々には豪族たちの墳墓が多くあり、発掘物の中に三角縁神獣鏡など貴重なものがある。ここからは道後平野が一望のもとに見渡され、自然の要衝の地である。伊豫の国の「伊豫」という呼び名が残っているのも、古くから開けていたことを如実に物語っている。

 交通的位置
 自然的交通の要路としての本市は、南伊予地域を背に、北に松山平野、西に瀬戸内海が開け、水陸交通の要に当たっている。また、上灘・長浜・三机への沿海路線の分岐点に位置している。国道五六号線は、松山から港南中学校の前を通り犬寄峠を経て中山・大洲に通じ、国道三七八号線は、長浜から上灘を経て、三秋の峠を越え中村・尾崎・市役所前を通って、伊予警察署前で国道五六号線に接続している。予讃本線は、この国道沿いに通じている。一九八六(昭和六一)年三月三日に開通した内山線(JR)は、向井原駅と内子駅間(全長二三・五㎞)を、犬寄トンネルで長谷川筋と中山筋を結んで通じている。従来の予讃本線は内山線にその地位を譲った。一九九七(平成九)年二月二六日に、松山自動車道(川内~松山~伊予間二一・九㎞)が開通し、伊予灘サービスエリアが設置され、人々は瀬戸内海の眺望に疲れを癒すことができる。また、二〇〇〇(平成一二)年七月二八日に、大洲自動車道(伊予~内子~大洲三一・八㎞)が開通し、高速自動車道による時間距離を大幅に短縮し、将来の産業・経済の発展が期待されている。なお、一九九五(平成七)年七月ダイヤモンドフェリーにより伊予市―大分間を一時間四五分で結ぶ超高速旅客船スピーダーが就航したが、一九九八(平成一〇)年三月に廃止された。

 商港的位置
 一六三五(寛永一二)年松山藩から大洲藩へ替地として移譲された郡中海岸は、湊町・灘町の名を残すように、この地域の物産集散地となったが、更に郡中港築造に伴い、三津・長浜などの沿岸だけでなく県外の大阪・神戸・広島・下関等と商業的に結ばれ、郡中港を出入する船舶は多く、郡中の商業は著しく活況を呈するに至った。戦後、松山港の完備とトラック輸送の発達により、郡中港の利用度は減少した。

 行政的位置 
 替地として得たこの地の海岸を大洲藩は郡中と称し、灘町広場通りに郡奉行(上屋敷)が置かれ、伊予郡内諸般の取り締まりをした。廃藩後一八七八(明治一一)年の郡施行に際し、郡中湊町に郡役所が置かれ、以後警察署をはじめ各種の事務所や事業所が郡中に集中するようになった。現在の伊予市成立は一九五五(昭和三〇)年である。

 松山市との関係位置 
 交通機関の発達と道路整備に伴い、県都松山との距離は時間的に短縮され、藩政時代からの地方性は薄らいできたが、松山市の衛星都市として将来どのように発展していくかが今後の課題である。