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伊予市誌

特別寄稿 古代の伊豫市とその周辺

 古代の伊豫市とその周辺
 西洋の古代文明が花を咲かせたのは地中海の沿岸地域であり、ドイツ民族の発展をはぐくんだのがライン河の流れであるように、日本民族の発展に古くから絶大な役割を続けてきたのは瀬戸内海に沿う地域である。瀬戸内海は大陸の先進文化を受けいれる窓口としての北部九州と中央とを結ぶ交通運輸の幹線として、中央政府の支配権確保を絶対不可欠とした。従って伊予の沿岸地域には早くから大和朝廷の勢力浸透が進められていた。景行天皇の道後みゆきの伝説は、このことを物語る。
 中央政権は伊予国を道前と道後に分け、中央に近い東予を道前、遠い中予を道後とした。
 道後の名は道後温泉・道後平野などの呼称の中に、今なお生き続けている。伊豫市とその周辺地域は、この道後平野の西南端に位置して西瀬戸内海にのぞみ、伊豫市・松前町に海港をもち、こうした自然条件を背景として早くから開発せられていた。いわば古代日本における先進地域である。
 大和朝廷が中国の律令制度を取り入れて中央集権を進めたとき、財政基盤の強化のために採用した条里制は伊豫市地域を含む道後平野にも広く推し進められた。条里制とは、土地を方六町に仕切って、この一区画を一里とし、この方六町一里の区画を更に一町ごとに仕切り、またこの一町を一〇段に仕切って行う土地整理である。この整理に従うと方六町一里の内部は三六町に分かれる。道のりを示す戦前の一里を三六町とした制度は、この土地割りの里制に由来する。三六町の各仕切りには番号順がつけられ、一の坪・ニの坪……三十六の坪等と呼ばれていた。伊豫市内にある市の坪・十合(とこ)などはこの条里制の名残りで、十合は十五(トゴ)の転訛であり、十五は十五の坪の略である。一町すなわち坪の中の一〇段にも一段・ニ段……十段の番号順があった。市域内の諸処に散見する五反地・六反・七反・八反地・九反地などの小字名は、やはり条里制の名残りである。そのほかにも町永・ちょうだ等は、条里制の遺名をいまだに伝えているところが見られる。当時、道後平野には和気・温泉・久米・浮穴・伊予の五郡があり、条里制はこれら五郡の地域を連ねる同一企画の大条里区として施行せられ、伊豫市の上郷・大替地・市の坪を連ねる一帯がこの大条里区の南端であった。この大条里の様式は学術上「正距方位条里」と呼ばれるもので、畿内とその周辺部を除くと数少ない事例の一つであり、そこに伊豫市を含む道後平野の地が西瀬戸内地域の政治経済上の核心地域とせられていたということがうかがわれる。
 律令制下の地方行政は国を最高区画としてその下を郡に分け、郡の下を郷に分け、行政長官として国には国司を、郡には郡司を置いていた。国司は中央から差しつかわすが、郡司は郡内土着の豪民を任命するというのが、長官人事の原則とせられていた。これは国家の権力を代行する国司を最高の地方長官にすえ、在地勢力の利害を代表する豪民をその下に任命し、両者の協調によって地方統治を円滑に運営していこうとする意図にでたものである。伊予国の郡・郷の数については、七二一年(養老五)~七三七年(天平九)ころの編さんといわれる「律書残篇」に「伊豫国。郡十三。郷六十八」とみえている。
 道後平野には、先述の伊予郡等五郡がおかれた。吾川郷や神崎郷の名が「和名類聚抄」に見えるから、これらはずいぶん古い地名である。吾川郷は現在の三谷方面にまで延びていたようである。伊豫郡の郡司については史料がないが、伊予郡の伴造である伊予部連が中央に出仕して活躍していたことが、「懐風藻」その他の資料によって確認せられるから、おそらくこれが郡域内切っての最大在地勢力であり、その一族から郡司が任ぜられていたものと思われる。郡家の所在地も確かめようがないが、当時の伊予郡の中心は伊豫市の宮の下から松前町の神崎・徳丸付近に及ぶ地であったことが、ほぼ確実に推定せられるから、おそらくこの地域内にあったものと思われる。
 重信川の水は、古くは今の横田川を流れて海に入っており、現在「牛入らず」といわれている地が当時は入江か沼としてその流域に展開しており、この水路によって、かなり奥深くまで舟で行くことができたのではないかと思われる。
 昭和一〇年代に砥部で古銭のいっぱいつまっだ甕が掘り出され、没収をまぬがれるために秘密のうちに関係者の間で分配したという一部、三〇枚を入手したことがある。細かく検討したところ、唐銭・北宋銭にまじって南宋銭・金国銭があり、これが最も時代の新しいものであった。このことは、このかめの銭が中国の南宋時代、日本でいうと平氏全盛のころから鎌倉時代にかけて、中国貿易によって輸入せられたものであることになるが、中世に砥部方面の豪民が海上に進出して大陸貿易にまで関与していたのは、足利尊氏に随身して活躍した大森彦七の話などをあわせ考えて、その頃まで右の水路が通じていて、砥部方面と海とを結んでいたことを推想させるに足る。そして中世におけるこのような自然の形勢は、古く律令時代から続いてきたものに相違ない。したがって、瀬戸内海を活躍舞台とする伊予郡域の豪族の拠点、豪族が任ぜられていた郡家の所在地は当然この水路上の要地である上述の地区に比定せられる。
 財政・行政と並んで律令国家をささえていた軍政は、府兵制とその上に立つ軍団制とを核心としていた。府兵制とは壮丁を徴して府兵とし、農閑期にこれを訓練して有事の際に従軍させる徴兵制であった。動員せられて九州北岸などの辺境の守備についていた者が、今にその名をよく知られている防人である。軍団とは、この府兵を集めて訓練し、その地方の警防や防人などの出動に所要の部隊を編成していた衛所で、ほぼ今の連隊に当たるものであった。各軍団には、それぞれ名称がつけられていて、個々の軍団をその名称で呼ぶ時は、たとえば白河団(陸奥)・高市団(大和)などのように、必ず某団といわれ、某軍とはいわれていなかった。各軍団には、その印があり、現在御笠・遠賀(筑前)両軍団の印が発見せられているが、その印刻も御笠団印・遠賀団印とあって、「軍団印」とはなっていない。軍団はこれら諸団の総称用語である。一団の兵力規模は一、〇〇〇人・六〇〇人・五〇〇人などの例が伝えられていて、各団区々であったことが知られる。その全国配置網にも疎密の差が見られるが、平均して大体四郡に一団の割合であったという推定が立てられ、この推定に立って全国の総軍団数を約一三〇とみる解釈が出されている。この推定総軍団数約一三〇に対して、史書のほか、正税帳・計会帳などの古文書の検討、団印の発見などによってその名称の知られるものは、北は陸奥から佐渡・越前・相模・駿河・近江・大和・安芸・長門・但馬・出雲・筑前・肥前等にまたがる一〇余国の二〇団近くに過ぎない。
 四国の団名は全く所伝がない。しかし、伊予国には、名称不明の軍団の所在が従来既に三か所指摘せられている。
 (1) 旧の越智郡桜井村字旦(現今治市)
 (2) 旧の周桑郡庄内村坦ノ上(現東予市)
 (3) 旧の新居郡中萩村小河城跡、一名旦ノ上(現新居浜市)
 これら三団の遺址はいずれも、その所在地の字の名が「旦」となっているが、この旦は団の転訛したものであって、この地を軍団の遺址と推定する根拠はここにある。遺址は練兵場と思われる平らな広場となっており、「旦ノ上」の名称が示すように小高い段丘の上に位置している。桜井村の地におかれた軍団は伊予の国府のひざもとにあって、その護衛の役割を負っていたものである。従来、既に指摘せられている右の三軍団はいずれも東予、すなわち道前の地に限られていて、道後の地には関係がない。しかし、五郡がおかれ、大条里制が敷かれていた道後平野に、この重要地の治安をになう軍団が全くおかれていなかったとは考えられない。こうした考えに立って調査を進めたところ、果たして川上町と伊豫市の宮の下とに、その遺址が発見せられた。道後の五郡の一つに久米郡があり、川上町の地はこの久米郡の域であった。日本が氏族制の上に立つ原始国家の時代に、軍事的部民として天皇家に仕えていたのが物部氏と久米氏とであった。久米郡はこの久米氏が、ここに配置せられていたことから生まれた郡名である。この地域は道前平野から桧皮峠を経て道後平野にはいる幹線街道上の要衝であり、久米郡の配置も、この要衝を固めるためのものであったと考えられる。原始国家の時代からこのように軍事的に重要視せられた所が、律令制古代国家の時代に、たやすく見棄てられるはずはない。このように考えると、川上町字北方にある「旦の上」は軍団の遺址とみて誤りはない。次に伊豫市字宮ノ下のホノギに段ノ上(長泉寺付近)がある。ここは断層線の北側に展開する扇状地の扇の頂付近にあって、道後平野の南部を展望できる好位置の高地である。段ノ上の段は旦と同じく団の転訛で、伊予国の遺址とみるべきである。付近に式内社の伊曽能、伊予、高忍日売の諸神社がある。また、伊予郡の郡家の所在にも近く、こうした一帯の要地を押え、西瀬戸内海の交通安全に、にらみをきかす大きな役割をになって設置せられた軍団であろう。
 宇摩郡土居町天満の八雲神社に保管せられている「伊予軍印」をこの伊豫団の印であろうとする解釈があるが、これまで発見された軍団印はすべて「団印」とあって、「軍印」とはないので、伊予国の印と認めるには疑問がある。また、印の型と字体とから考えても奈良時代のものではなく、府兵制がくずれて健児が採用されていた平安時代のものらしく思われる。
 以上、日本の歴史において、地方の事情がややわかってくる古代律令時代の伊豫市とその周辺地域を、国家の財政基盤としての条里制、行政組織としての国・郡・郷制、軍事組織としての府兵・軍団制の三面から概観してきたところを要約すると、日本民族発展のうえに絶大な意義をもった瀬戸内海の役割にひそかに連係をもってから開発せられ、重要視せられた地方的先進地域であったということになる。発展的に瀬戸内海に連係のあったのは、伊予の国の地理的宿命で、中世における松前城王であった加藤嘉明の水軍大将としての働きなど、伊予人の史上における主な活躍はいずれも、この宿命に対応したものである。
 今や内海時代は過ぎて、大洋時代から更に宇宙時代に進みつつある。市民はこうした新時代の大勢を見つめ、祖先の残した歴史的遺産をふまえ、温古知新の発展をとげるべき環境の中にあるといえよう。

  久留米大学教授・九州大学名誉教授 文学博士  日野 開三郎

  佐賀大学助教授 文学士  日野 尚志

参考文献
天平六年 出雲国計会帳    出雲風土記    令義解
同 八年 伊予国正税出挙帳  類聚三代略    律令残篇
同一〇年 周防国正税帳    日本三代実録   寧楽遺文
同一〇年 駿河国正税帳    日本紀略     伊予史精義
同一〇年 但馬国正税帳    続日本紀     栗田先生雑考
       和名類聚抄     続日本後紀
       懐風藻       大日本古文書巻四

 この「特別寄稿」は、一九七四(昭和四九)年『伊豫市誌』初版本の発行にあたって、伊予市出身の日野開三郎、日野尚志両氏から寄せられたもので、当時のまま掲載しました。