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伊予市誌

第一章 人物

  人 物 目 次 (アイウエオ順)

1  浅田 嘉蔵          54 武知 勇記 
2  阿部 鷹吉          55 武知 政右衛門
3  阿部 万左衛門        56 武智 惣五郎 
4  阿部 倍太良         57 武智 勝丸
5  天野 しげ文         58 田中 休
6  伊藤 允譲          59 田中 英安 
7  伊藤 建夫          60 田中 勘兵衛
8  稲多 愛一郎         61 田中 重一
9  井上 杢兵衛         62 田中 良七・田中 権七
10 伊出 季吉          63 玉本 善三郎
11 泉田 一           64 玉井 儀兵衛
12 一ノ瀬 楠矩         65 坪内 道則
13 宇和 宗蔵          66 露口 悦次郎
14 大塚 幸吉          67 土井 重次郎
15 越智 崇           68 豊川 市兵衛
16 大元 市太郎         69 豊川 堤
17 大元 茂一郎         70 豊川 渉
18 岡部 仁左衛門        71 永井 貞市
19 岡 文四郎          72 仲田 百太郎
20 岡本 藤枝          73 仲田 蓼村
21 沖 喜予市          74 中村 里吉
22 小谷屋 友九郎        75 奈田 久良吉
23 影浦 喜右衛門        76 日野 吉五郎
24 影浦 定次郎         77 日野 政吉
25 影浦 房五郎         78 日野 開三郎
26 影浦 尚視          79 福井 倉吉
27 梶野 賢太郎         80 藤谷 嘉之寿計
28 片岡 丈平          81 藤谷 庸夫
29 金岡 音右衛門        82 藤谷 隆太郎
30 金岡 亀十郎         83 藤谷 豊城
31 鎌倉 島吉          84 藤本 政夫
32 川中 夏吉          85 藤井 未萌
33 菊澤 薫           86 星野 通
34 菊澤 文太郎         87 槇  鹿蔵
35 城戸 豊吉          88 水木 要太郎
36 木村 太郎          89 宮内 九右衛門・宮内 清兵衛
37 木下 光代          90 宮内 弥一郎
38 日下部 正幸         91 宮内 長
39 倉橋 幸たい         92 宮内 治三郎
40 久保 勉           93 宮内 惣衛
41 栗田 与三郎         94 宮内 彌
42 後藤 守衛          95 宮内 角丸
43 佐伯 矩           96 宮内 木きゅう
44 佐川 与市          97 宮内 甲一路
45 佐々木 亀一         98 宮西 通可
46 澤両 東四郎         99 明関 友市
47 篠崎 活東          100 向井 利一郎
48 篠崎 勇           101 森田 雷死久
49 篠原 梵           102 山田 穣
50 陶  惟貞          103 山本 親雄
51 仙波 盛全          104 吉沢 兼太郎
52 高岡 定吉          105 吉沢 武久
53 武知 五友          106 米井 連三郎

  浅 田 嘉 蔵
 郷土の産業振興に貢献した篤農家
 不明 ― 一八七九(不明―明治一二)年
 明治年代、伊予の三改良米として米穀市場に好評されたのは、相徳米・今治三宝米・栄吾米があった。この中、相徳米は伊予郡より産出されたもので、この品種は昔から北山崎村稲荷地方で栽培されていた相生という稲の種類から選出されたものである。
 この相生稲を選種したのが、稲荷で農業を営んでいた浅田嘉蔵である。一八六四(元治元)年のころ、嘉蔵は稲の中から一本の良種を選出してこれを〝相生〟と名付け、試作してみると収量が多いので、この稲の評判はたちまち隣村・隣郡に、他県にさえも普及されるようになった。その後は改良が加えられなかったので、収穫も減少するようになった。また、更に良品種ができたので、それ程顧みられぬようになったが、当時は優良品種として珍重せられたものであった。
 また、慶応のころ、初めて田にレンゲを作ったので、人々はその訳を知らずあざけった者もあったが、当時既にレンゲが好肥料になることを知って栽培を始めていた。また、稲の正条植えを実行するなど、研究心の盛んな人であった。
 このように浅田嘉蔵は、理論と実地の研究を怠らなかった米作りの先覚者であった。

  阿 部 鷹 吉
 徳望家として郷土発展に尽くした人
 一八三七 ― 一八九五(天保八―明治二八)年
 一八三七(天保八)年八月、上野村阿部嘉吉の長男として生まれた。人となりは着実勤勉で、よく範を社会に示し挙動は厳正、常に礼節を重んじ、その人格は子女にまで及んだ。更に文書を能くし、時事に通じて社会情勢に明るかった。
 一八六二(文久二)年一一月、二五歳のとき、郡中代官所から上野村組頭を命ぜられた。続いて一八六三(文久三)年一〇月には、寸志銀を朝廷に献納したことによって家名永代を許された。
 一八七三(明治六)年二月、諸制度の改革により、その職を免ぜられたが、その後も公職に付いたり、あるいは名誉職にも挙げられ、終始地方自治・公共事業に尽くした。また余財を窮民に分け与えて、これを救済するなど、徳望家として名声も高かった。
 一八九五(明治二八)年一〇月公務で松山市に出張中、病にかかり同月三〇日没した。五九歳であった。

  阿部 万左衛門
 赤坂泉を開削した釣吉村庄屋
 一七四九 ― 一八〇六(寛延二―文化三)年
 一七四九(寛延二)年上野村に生まれた。父の小平治は釣吉村の庄屋役であった。一七六五(明和二)年一七歳で父の跡を継ぎ、釣吉村の庄屋役になった。生まれつき豪気で決断力があり、専心公共事業に力を尽くした。
 一七七七(安永六)。年分家移転のため、居を釣吉村に移した。一七八三(天明三)年砥部入会山騒動のときには、その調停に功績があったので、名字帯刀を許され、米穀若干を賜った。
 また、原町村赤坂泉一の井手開さく工事に際しては、選ばれて世話係を命ぜられた。この工事は難事業であることは十分承知していたが、公共社会のためであるとして引き受け、私事をなげうってその遂行に努め、一〇年にして工事を完成した。
 これによって当地方の農業は大いに進歩し、悲惨な干害と水げんかは後を絶ち、農民は安んじて生活ができるようになった。今日、八倉・宮の下・上野・出作などの水田の灌漑用水は、この赤坂泉によるもので、万左衛門の功労に負うところが多い。このほか、種々公共事業に尽力して多くの功績があった。
 一八〇六(文化三)年一一月二四日、七三歳で没した。

  阿 部 倍太良
 郷土の発展に尽くした政治家
 一八六三 ― 一九二〇(文久三―大正九)年
 一八六三(文久三)年六月二九日、阿部鷹吉の長男として上野村に生まれた。一八九七(明治三〇)年村長となり、村政に尽くすこと六年、更に同三六年より四三年まで県会議員として県政に関与し、その後も郷党のために貢献するところが大きかった。
 明治三〇年当時、南伊予村には宮下に第一小学校、上三谷に第二小学校があった。氏は村の有志と図り教育一〇〇年の大計のもとに、この二つの小学校を統一して内容の充実を行い、村教育の実を揚げるため東奔西走、ほとんど寝食を忘れて人々を説得し、ついに挙村統一に決して一九〇〇(明治三三)年四月、伊予尋常高等小学校の創立を見た。
 村政の面においては、大同派(八倉・宮下)と改進党(上野・上三谷・下三谷)の二派に村内が分かれて争い、それがため、村治の向上発展に大きな障害となっていた。そこで氏は、この両党の統一を図り、至誠と献身的な努力を重ねて村民を納得させ、挙村一団となって統一が実現した。
 また、県会議員当時、南伊予村を東西に通じる県道開設についても、非常な努力によって県会の議決を得ることができ、道路工事現場においても私事をなげうって督励し、そのため県道の完成を早めることができた。
 そのほか、一九〇六(明治三九)年には産業組合の必要性を説き、伊予購買組合を起こして村民の福利を図り、自ら組合長となって尽すいした。このように氏は至誠一貫、円満なる人格をもって郷土のために尽くし、卓抜なる識見によって世人の指導に当たり、その献身的な努力には動かされない者はなかった。
 一九二〇(大正九)年七月三日、五八歳で没した。

  天 野 しげ(のぎへんに農) 文
 仏法を俳句に託す僧
 一八九六 ― 一九六七(明治二九―昭和四二)年
 一八九六(明治二九)年伊予郡岡田村(現松前町)重松新太郎、妻スミエ(海雲寺住職天野祐真二女)の三男として生まれた。明治四五年海雲寺天野家に入籍した。
 一九一五(大正四)年、愛媛師範講習科を終了し小学校訓導となった。そのころ、若山牧水に傾倒し文芸に惹かれて京都の小学校に赴任する。教職のかたわら短歌を作って投稿したり、文芸小品を投稿していた。ところが大正一一年海雲寺住職天野甸之が早世し、住職の後を継ぐため帰郷することとなった。帰郷後は郡内小学校訓導として、一三年間奉職した。
 その間、篠崎活東の勧めもあって俳句の道に転向し、号を「釈玄容」と称し、句集「雲母」に投句するようになった。
 昭和一〇年、松本小学校勤務を最後に二〇年間の教職を辞し、真言宗醍醐派総本山醍醐寺の執事となる。その後三〇年最期まで僧院生活をし宗務に専念する。この間、京都雲母支社同人として句会・研修会などに参加し作句に励んだ。また、醍醐寺信徒の俳句同好会の指導にも当たっていた。
 昭和四一年、京都雲母支社三〇周年記念句集「手燭」に三八作家の句を載せ、作家を透して三〇年をふり返っているが、玄空の項には次のようなことを書いている。「雲母五百号記念の素晴らしい表彰のあと、盧山先生の直筆の金短冊を受けられた。京都支社員はいつも氏を慕って醍醐寺を訪ねるのである」。この記念句集発行の二か月後、醍醐寺僧院で入寂した。享年七一歳。醍醐寺参道に句碑がある。
  幾山河浄土の遠き遍路かな

  伊 藤 允 譲(五松斎)
 砥部焼の声価を高めた陶芸家
 一八三二 ― 一九一〇(天保三―明治四三)年
 尾崎村里正伊藤重右衛門の子として、一八三二(天保三)年に生まれた。三男のため分家して砥部五本松に移り後里正となった。
 幼少から学問に励み、陶惟貞や鷲野南村について漢学を修め、後に京阪の地に遊学した。
 一八七三(明治六)年五等教官となり、自宅を学校として陶潤小学校と名付け、郷党の子弟を教育した。
 一八七七(明治一〇)年砥部に優良な原料が豊富にあるにもかかわらず、加工が劣っているため無益に燃料を消耗することを嘆き、私財を投じて肥前有田より細工人や絵画工を招き、精巧な錦手の花瓶などの大器を作り、磁器の面目を一新した。その絵付用の黄金などは、自家貯蔵の小判をつぶしてこれに用い人々を驚かした。
 銘には五松斉の名を表し逸品が少なくない。伊予市稲荷神社蔵の〝錦手大形酒瓶〟もその一つである。なお、雅号は五松斉のほか陶潤とも称した。こうして砥部磁器の価値を世に知らせ、その声価を高めた功績は大きかった。
 また、製陶に限らず殖産事業にも力を入れ、果樹の栽培、養蚕・養鶏などにも率先して範を示したが、公共事業のために多くの私財を費やした。後には家産を失い、晩年には五本松を去り郡中栄町で余生を送り、一九一〇(明治四三)年八月八日七九歳で没し、尾崎の地に葬られた。
 一九一三(大正二)年、砥部五本松の人々はその徳を慕って碑を建て、功を録して後世に伝えた。

  伊 藤 建 夫
 県議で地方発展の貢献者、弓の名人
 一八六八 ― 一九三二(明治元―昭和七)年
 父伊藤徳隣・母阿伊代の長男として、一八六八(明治元)年四月一九日、尾崎村に生まれ、鹿島小学校卒業後大阪の河野広風の塾に入って漢学専修四年、次いで陸軍幼年学校を目指したが、両親の急死により帰郷した。
 以後、旧尾崎庄屋を継ぐ豪農、製塩業者として、尾崎村だけでなく、郡中灘町の有志に協力して次の公共事業に参加して、この地方の発展に貢献した。
 明治一九年 郡中銀行の創立に協力
 明治二七年 彩浜館の建設 株主(一株六〇円)
 明治二九年 南予鉄道郡中線の開通 取締役
 同年 長浜の肱川汽船会社を郡中に移して、伊予汽船会社と改め、伊予丸・第五肱川丸を就航 監査役
 一八八七(明治二〇)年、日本を国際的に対等にする条約改正の建白書を元老院に提出する運動に参加するなど、政治に対して進歩な関心を持っていた。
 一八九四(明治二七)年一〇月、灘町の宮内治三郎が衆議院議員当選によって行われた県会議員の補欠選挙に立候補して当選した。
 建夫は趣味の和歌・俳句を「青年」の号で、絵は大阪遊学中に橋本春江に学び、禅学を慕い、刀剣を愛した。特に弓道に至っては、『愛媛県体育史』に残る大きな成果をあげた。
 一九二二(大正一一)年ころ、尾崎の家屋敷・田畑をすべて整理し東京へ出て、更に満州へ渡り、弓術の指導者として活躍した。堂々たる体格で、温顔至誠の人として親しまれた。昭和七年一二月三一日没した。

  稲 多 愛一郎
 耕地整理を完成した功労者
 一八七三 ― 一九二九(明治六―昭和四)年
 一八七三(明治六)年一月一九日、三秋に生まれた。明治時代末期、耕地整理委員会長となり、地元の有志と協力して土地の人々を説得し、幾多の困難を排して、一九〇八(明治四一)年九月から耕地整理を実施し、一九〇九(明治四二)年七月完成させた。
 また、鳥谷、宮谷の二池を築いて灌漑用に供した。
 ここに水田一町余及び畑地は変わって沃田となるもの六町(六ヘクタール)余、広狭や高低も程良くなり、乾燥していたものは潤沢となり、畦道は完備して境界線は明確になった。こうして、この辺一帯を美しい稲田にすることができた。
 土地の人々はこれを記念し、先人の徳をたたえて一九〇九(明治四二)年七月中旬、明神山ろく三秋原中の地に〝整理記念〟の碑を建てた。昭和四年八月一日、五七歳で没した。

  井 上 杢兵衛
 多くの子弟を教育して郷党のため尽力した
 一七八三 ― 一八六〇(天明三―万延元)年
 一七八三(天明三)年、宮下村に生まれた。温厚誠実な人柄であり、漢学を修め、書道に精通してその名は近郷に聞こえていた。
 のち、藩命によって宮内番所詰めとして赴任した。勤務に精励し治績を挙げたので、村民はその徳を慕うようになった。そのうえ学問にも通じていたので、教えを請う者が多くなった。そこで、勤務のかたわら漢籍や書道を教えることにした。嘉永年間のことである。主として、九歳から一三歳までを教授の対象とし、人数も一五人~三〇人位であったが、一事は一〇〇余人に及んだこともあった。しかし杢兵衛は少しもあきないで、専心学問を授けることを怠らなかった。年七〇を越してもなおかくしゃくとして子弟の教育に当たり、郷党の人々は敬慕して止まなかった。
 一八六〇(万延元)年五月二四日、七八歳で没した。

  伊 出 季 吉
 砥部小の算術教育と俳誌『糸瓜』の活躍で令名
 一八八九 ― 一九六五(明治二二―昭和四〇)年
 一八八九(明治二二)年、南伊予村大字上野、玉井喜三郎の三男として生まれた。小学校は尋常科四年、高等科四年と順調に進んだが、高等科卒業の年日露戦争が起こり実兄が召集、従軍したため進学ができず、二年間家事の農業を手伝った。
 明治三九年松山中学校に合格、勉学に励んだが翌年退学し、愛媛県師範学校に転学した。卒業後伊予小学校訓導に任ぜられた。続いて松本小学校で一年五か月伊予小学校で一〇年五か月首席訓導として、校長補佐の任を果たした。
 大正一二年三四歳で宮内小学校長に登用され、更に松本小学校長として、学校教育はもとより、社会教育の振興を図った。昭和四年砥部小学校に転任、特に算数教育の刷新を図り、学校独自の研究大会を開催して名声を高くした。昭和九年にば松前小学校に移り、昭和一六年、国民学校の発足に伴って郡中国民学校に移り、在職二年で退職し、勲六等を受章した。
 砥部小学校のころ俳句を始め、地方句会に入会した。俳号は静海子、後松山俳人の吟行句会に参加し、以後愛媛の有力な俳人酒井黙禅・八木花舟女の指導を受け、俳誌『まつやま』によって、本格的な俳句研究に取り組んだ。昭和一一年からは俳誌『糸瓜』に転じて、富安風生の雑詠選で頭角を現した。
  鬼瓦時雨に濡れて腹立てる  (糸瓜特選)
  病む妻に畦塗る夫が見えてゐる(同 巻頭)
  秋晴やリュックサックの鈴が鳴る
  貧乏の榾火とろとろよく燃ゆる

  泉 田   一
 気骨ある教育者 人間味あふれる弁護士
 一八九九 ― 一九七六(明治三二―昭和五一)年
 一八九九(明治三二)年九月二日、父半三郎の長男として、北山崎村稲荷に生まれた。
 一九一九(大正八)年愛媛県師範学校本科第一部を卒業後伊予郡郡中村松本尋常高等小学校訓導となり、麻生小、岡田小学校に勤めながら試験検定により大正一一年一〇月教育科中等教員免許状、大正一五年一月修身科中等教員免許状、昭和二年七月法制経済科中等教員免許状をそれぞれ受領しており、昭和六年一〇月高等試験行政科、昭和七年一一月高等試験司法科に合格した。
 彼は向上心に燃え訓導で終始することに飽き足らず、本職のかたわら独学で前述のような中等教員の免許状を受領したのみならず、最も困難とせられた行政司法の高等試験を突破した。
 また松山高等女学校に昭和二年九月から昭和七年一月まで勤務し、昭和七年一月愛媛県視学に抜擢された。
 その後、行政手腕を買われて昭和一二年一二月学務部社会教育課長、昭和一七年七月警察部労政課長に栄進し、昭和一八年三月松山城北高等女学校長となり、約一年後教育界から引退した。
 昭和二一年六月弁護士の登録をして、弁護士会の副会長、会長、日弁連理事を歴任し、その豊かな識見と情熱をもって会の運営発展に尽くし温かい心をもってよく後輩の指導に当たった。
 「どんな職場でも、自分に与えられた職務を忠実に果たす誠実と努力が自分の地位を知らず知らずの間に高める結果となって現れるものである。これを、そのままに自己の努力によって与えられた職務を良識ある判断力と実行力により成し遂げた。」友人の米田正弌弁護士は、法曹界のみならず県下の教育界、財政界から敬服されていたと氏を述懐している。

   一ノ瀬 楠 矩
 新制郡中中学校ですぐれた学校経営
 一九〇一 ― 一九九〇(明治三四―平成二)年
 一九〇一(明治三四)年菅沼家の次男として、松山市に生まれ、一九〇八(明治四一)年に一ノ瀬の養子となる。同家の出は佐賀県で、明治初期に宇和島へ移住。その後伊予郡郡中村大字米湊七反に定住し、代々農業並びに陶器製造業で生計を立てていた。北山崎尋常高等小学校を卒業後、愛媛県立師範学校本科第一部に入学、一九二一(大正一〇)年同校を卒業した。最初に赴任したのは、伊予郡南山崎村の大平尋常高等小学校である。同校二年の在職で、郡中尋常高等小学校の訓導となり、郡中商業補習学校助教諭を兼任した。
 同校でその優秀さが認められて、昭和一四年三月愛媛県社会教育主事補に任ぜられ、県学務部社会教育課に勤務することになった。同年五月、愛媛県立青年学校教員養成所教授嘱託の辞令が交付され、県社会教育指導の重い責任ある地位に就いた。
 昭和一七年四月、県宇和市庁兼社会教育課勤務、続いて社会教育課長となり、同年一一月愛媛県青年学校視学、同一八年四月愛媛県視学並びに教育課長となる。更に、二〇年一月には、愛媛県立宇和島初等科訓導養成所講師嘱託となったが、同年三月に解除となった。
 昭和二〇年三月、伊予郡郡中旭国民学校長、同二二年学制改革により新制の郡中町立郡中中学校長に任ぜられ、教員として最後の職務についた。同校で若い中学生を育てるその情熱は、教職員・生徒・校下父母からも信頼が高かった。
 この功績によって、昭和三一年三月愛媛県教育委員会から教育功労者として表彰され、同四九年四月勲五等瑞宝章を受けた。同三四年三月、依願退職後、伊予市の教育委員に就任した。平成二年没した。

  宇 和 宗 蔵
 長年に渡り、子弟の教育に当たる
 一八二三 ― 一九〇一(文政六―明治三四)年
 宇和宗蔵は一八二三(文政六)年七月、阿波の国に生まれたが、一八六〇(万延元)年伊予村上野に移り住んだ。宗蔵は漢学者であったので、七歳から一〇歳位の児童を対象に寺子屋を開いて、三〇人ばかりの児童を収容した。人々はこれを宇和先生塾と呼んだ。こうして子弟の教育に専心したが、一八七二(明治五)年学制の発布によって寺子屋を廃した。そこで宗蔵は上野村弥光小学校の教師となり、引き続いて子供たちの教育に当たった。
 明治一四、五年ころ教師の職を辞したが、晩年また、私塾を開いて青年子女の教育に当たった。こうして前後四〇数年の長きにわたり教育に専念し、訓化は村一円に及び、土地の人々で彼の教えを受けない者はなかった。
 生まれつき誠実で、清貧に甘んじ、子弟の教育をもって天職としたので、郷人に長く敬慕された。
 一九〇一(明治三四)年七月三日、七九歳で没した。

  大 塚 幸 吉
 郷土を干害から守った人
 一八五〇 ― 一九二七(嘉永三―昭和二)年
 一八五〇(嘉永三)年一一月二五日、宮下村に生まれた。明治二七~二八年の大千ばつに宮下の農民は大被害を被ったが、これを見た幸吉は干害のくり返しをなくすため、貯水池の築造を企画した。
 しかし、経費の面で反対者が多かったが、氏は熱心に永遠の利害を説き、東奔西走してようやく意見をまとめ、一八九八(明治三一)年ため池築造に着手し、不屈の精神をもって工事を督励し、これを完成した。
 同三四年には、更に四〇余町歩の畑を開墾して良田とした。これがため、一九〇四(明治三七)年の干ばつにも干害を免がれ、地元の人々は氏の功績に感謝して記念碑を建て、その徳をたたえた。
 更に、今岡神社の境内の大樹林が官有地である関係から、公売に付せられようとしたとき、自ら高知大林区署に署長を訪ねて、今岡神社の由緒と風致保存の必要から公売の取り消しを懇請した。その熱意が署長を動かして公売を取り消させた。これも郷土を思う熱誠にほかならなかった。また、区長・村会議員などの公職にあること三〇年に及び、晩年に至るまで村の発展に尽くした。昭和二年八月三日、七七歳で没した。

  越 智   崇
 蘭法眼科医であり漢学者
 一八〇八 ― 一八八〇(文化五―明治一三)年
 一八〇八(文化五)年伊予郡郡中町灘町宮内吉通の長男として生まれた。字は高崧、通称は仙心、号を桂荘・静慎・仏手仙心また一邨といった。
 一八二一(文政四)年一四歳のとき、志を立てて京都に行き漢籍を学んだ。一八歳のとき江戸に出て伊東宗益方におり、箕作阮甫(蕃書取調所教授)の門に入って蘭学を学んだ。箕作秋坪・林洞海・伊東方成らと交わり、ますます蘭学と蘭法医学の研究を積み、一八四二(天保一三)年長崎に出向いて蘭法眼科を研修した。そのころ親族の病気見舞いのため郷里郡中に帰った。
 郡中に居ること二年で、再び京都へ行き医を開業した。伏見の内藤豊後守に仕えたこともあったが、一八六四(元治元)年オランダの医者ボードウィンを、長崎の研究所に訪ねてその教えを受けた。その地で八、九年開業したが、晩年は京都にいて女婿宗直哉の家に住み、眼科の診療に従事するかたわら文墨をたのしんだ。一八八〇(明治一三)年一〇月に七二歳で没した。著書に『眼医秘笈』(京都大学医学部図書館蔵)『眼科新説』、『内翳書』などがある。

  大 元 市太郎
 土建業の大成と中学校舎寄贈
 一九〇五 ― 一九五六(明治三八―昭和三一)年
 一九〇五(明治三八)年二月二七日、北山崎村尾崎に生まれた。人となりは剛健で道義に厚かった。昭和一二年志を抱いて九州に渡り、当地で土建業を営んだ。
 そして幾度かの苦難を乗り越え、一〇数年後には業界で重きをなすに至った。これは氏の力量才幹によるものではあったが、その陰には同氏夫人の内助の功によるところも大きかった。ところが夫人は戦後病を得、昭和二一年八月に没した。
 このため、氏は思うところがあって親族や友人、特に当時の収入役故金村義一郎に図り、夫人の追善供養として郷党の後輩子弟のために中学校校舎建設及び同村役場建設に浄財を寄付し、教育の充実と村行政の向上発展のために資するところが大きかった。また、園芸の面においても貢献するところがあった。こうした功績をたたえ、後世に伝えようと母校北山崎小学校の校庭に頌徳碑が建てられた。昭和三一年八月三一日没した。

  大 元 茂一郎
 学校教育と社会教育に尽くした人
 一八八一 ― 一九七四(明治一四―昭和四九)年
 一八八一(明治一四)年一二月一三日、米湊村に生まれた。一九〇三(明治三六)年愛媛県師範学校を卒業後小学校教員となった。一九〇六(明治三九)年郡中尋常高等小学校長、一九一九(大正八)年から一九二三(大正一二)年まで大洲高等女学校長など、諸学校を歴任して教育界に尽くした。
 この間、氏は教授面で種々の研究を行って新風を送り、教育界を啓発するところが大きかった。著書『実験地理教授法』、『実験歴史教授法』、『地理教授法精義』、『歴史教授法精義』など、また学級経営法や綴方教授法の講義はその一端を示している。
 戦後、昭和二二年には郡中町公民館長となり社会教育にも尽力し、昭和三三年一一月三日には愛媛県教育文化賞を受賞した。昭和四九年四月二二日、九三歳で没した。

  岡部 仁左衛門
 花かつお製造の創始者
 一八八三 ― 一九六〇(明治一六 ― 昭和三五)年
 伊予市の特産物として、大正時代のころから全国的に広く知られているものに花かつおがある。その花かつお製造を始めたのが、岡部仁左衛門である。一八八三(明治一六)年七月一日、尾崎村の農家で父清太郎・母ジンの長男として生まれた。二三歳のとき家業を弟に譲り、一九〇五(明治三八)年郡中村米湊で海産物商を営んでいたが、やがて乾魚を加工することを思い立ち研究の結果花かつお製造に成功して、一九一六(大正五)年ころからこれを売り出し、全国至る所で好評を博した。そして大正時代末期には全国に供給するだけでなく、遠く海外にも輸出するようになった。
 このように花かつお製造の元祖として産業界に貢献するとともに、三期引き続いて商工会長を務めた。戦前には、郡中村村会議員として、戦後には、郡中町長として町政にも努力し、昭和三二年には愛媛県の産業の向上発展に尽力した功績によって、愛媛新聞社賞を受けた。
 昭和三五年一月一〇日、病のため七九歳で没した。現在黒住教会所内にその銅像が建っている。

  岡   文四郎
 萬安港(現伊予港内港)の創建者
 一七六六 ― 一八三一(明和三 ― 天保二)年
 萬安港の創建者と言えば岡文四郎、岡文四郎と言えば萬安港を思い浮かべるほど、港との結びつきは深い。一八一二(文化九)年米湊安広川の河口に築港を始めてから、一八三〇(天保元)年までの一九年間、専心これに当たったのが岡文四郎である。
 一七六六(明和三)年、喜多郡新谷の二宮氏に生まれ、長じて後、一七九〇(寛政二)年岡氏の養子となり、大洲藩郡中郡奉行所の属吏として仕えた。四七歳のとき、港の必要性を町民に説き、宮内才右衛門、同小三郎、同伊兵衛、同弥三郎らの協力を得るとともに、藩の許可を得て起工し、自ら波戸用係となり現場の指導に当たった。特に港の必要性を説く裏面には、母の病をなおすための願いが秘められていたという。
 後、一八三〇(天保元)年にその職を辞し、翌天保二年一一月二三日、港の完成を見ないでこの世を去った。享年六六歳であった。
 その人となりは剛正質直、貧苦にも堪えてその職責のためには命をかけてもいとわなかった。また、綿役所を起こし、篠巻綿製造を始めて、漁民の副業を開き、あるいは喜多郡青島において堀井戸を築き、島民に飲料水を確保するなど、人々のために尽くした。
 墓は湊町増福寺にある。なお、萬安港創建の碑が五色浜公園にある。

  岡 本 藤 枝
 郷土教育の実践と郷土読本の刊行
 一八八八 ― 一九四一(明治二一 ― 昭和一六)年
 一八八八(明治二一)年一月二五日、上灘町高見福岡金次郎の三男として誕生し、一九一〇(明治四三)年一一月、同北山崎村三島町、岡本長七の養子として入籍した。
 一九〇三(明治三六)年試験検定によって尋常小学校准教員の免許状を取得した。この後更に愛媛県師範学校を卒業し、明治四一年から中山・郡中両校の訓導を経て、大正四年、上灘尋常高等小学校訓導兼校長に栄進した。
 続いて大正八年佐礼谷に、同一〇年岡田、同一五年砥部、昭和四年郡中村松本尋常高等小学校訓導兼校長を歴任し、松本校では郡中農業補習学校校長・教諭を兼務した。昭和一六年退職まで、教職歴三三年の勤続であった。
 座右の銘に「一言三流」を掲げ、「国のために赤き血を流し、人のために熱き涙を流し、家のために尊き汗を流す」に立つ学校教育を推進した。
 この時代にあって注目すべきは、岡本校長編集による『伊予部会研究録』の刊行である。更に昭和八年には、児童用として『郷土読本』を発行。副読本として郡内広く活用され、その効果は大きかった。
 また非常な読書家で、積極的に研究活動を行った。そのうち、地質研究には造詣深く、郡中から長浜方面のリアス式海岸は地滑りが起こり易いことをつきとめ、砥部の逆断層に岡本断層の名を残した。
 昭和一二年多年の功績により勲六等瑞宝章を受章した。退職後、満蒙開拓に従事する青少年義勇隊指導のため、満州に出向いたが、昭和一六年九月二五日、ハルピンで没した。享年五四歳であった。

  沖   喜予市
 道前道後水利事業の功労者
 一八九五 ― 一九七六(明治二八―昭和五一)年
 一八九五(明治二八)年二月二二日、郡中村下吾川の農家に生まれた。性格は温厚で、人格識見共に高潔であった。農業を志し、愛媛県立松山農業学校に進んだ。卒業後愛媛県農業会技術員として、農家並びに農業団体の指導と技術の普及に当たり、農業の振興に尽くした。
 郡中町議一期を経て、昭和二二年四月推されて、戦後初の伊予郡選出県議会議員となり、以来連続五期二〇年間にわたり、激動の時勢を県政に奔走した。
 昭和二八年副議長となり、昭和三八年第五〇代県議会議長として県政重要施策の推進に手腕を振い、特に農業問題に情熱を傾け、道後平野の干害防止策に尽力した。また、面河川から愛媛県側へのダム建設による分水を提唱して、難関であった高知県との分水協定締結交渉に当たり、面河ダムの完成と道前道後水利開発という大事業に導いた。
 昭和四一年四月二九日、春の叙勲により、勲四等瑞宝章を受章した。その他、道後平野土地改良区理事長・郡中農業組合長などを歴任した。
 時あたかも、道前道後水利事業完成二〇周年を迎えた昭和五一年七月三一日、八一歳で没した。翁の一三回忌に当たり、その偉業をしのび、功績を後世に伝えるために、谷上山参道の道後平野と大谷池が見渡せる場所に、頌徳碑が地元の人たちの手により建てられた。この碑の裏面に次の言葉が刻まれている。
  石鎚の水よ
   よくここまで来てくれた
     ごくろうさん

  小谷屋 友九郎
 名作郡中十錦を焼いた陶芸家
 一八〇〇 ― 一八七五(寛政一二―明治八)年
 郡中十錦は伊予の陶芸史上、一段と異彩を放つ焼物である。地方民芸品として、すぐれた技術によって作られた磁器である。
 郡中十錦とは、支那製上絵の十錦手に模したもので、磁器釉表に青・黄緑・赤桃・褐・薄コバルト青・白盛・えんじ・黒・金彩などの上絵具を厚く塗り、その上に唐花などの釘ぼりをして焼いたものである。その素地は主に砥部のものを用いているが、明治時代に入ってからは九州もの、三島もの、また多治見産の素地にも施した。その高尚で精密な手法による作品は、人々から珍重され愛好された。
 この郡中十錦の創始者小谷屋友九郎は、一八〇〇(寛政一二)年、郡中灘町小谷屋に生まれた。小谷屋は代々薬種商を営み、友九郎は五代目利八郎の弟に当たっている。幼いときから理知に富み、既に一風格をなしていたと言われ、非常に器用な質で考察力の強い人であったという。号は坤斉と言い、天保の初期までは楽焼に熱中していたが、やがて十錦焼に移行していった。そして天保の後期から幕末、更に明治初年まで三〇数年の長きに渡って焼き続けた。その中、嘉永から文久年間のころが最盛期であったという。
 そのすぐれた手法は、後人がしばしば試みたが不成功であった。郡中十錦は、坤斉独特の作品であった。
 友九郎は、一八七五(明治八)年九月に七五歳で没し、菩提寺光明時に葬られた。

  影浦 喜右衛門
 伊予砥の採掘と販売に尽力
 一八〇四 ― 一八六五(文化元―慶応元)年
 一八〇四(文化元)年上唐川村の旧家に生まれ、またの名は為従とも言った。人となり勤倹でよく産を治め、村政に尽くした。
 古来、上唐川から外山方面にかけて砥石が産出せられ、〝伊予砥〟の名をもって世に知られていた。上唐川村の庄屋旧記にも、一七四一(寛保元)年ころに砥石を掘り出したことが記載されているが、詳しい事情は明らかでない。その後、一〇〇年余、一八五五(安政二)年喜右衛門は自己の所有地である字砥の峙の山林で砥石含有層を発見し、藩の許可を得て採掘していたが、一八五八(安政五)年藩主から同山献上の内意があった。そこで藩主の富は村民の富であると考え、同年四月大洲藩主に献上した。
 その後、藩の手によって盛んに掘られ、喜右衛門は命を受けてその監督の任に当たった。その当時一か年の産出個数は二万五、〇〇〇個内外であり、これらは外山産の砥石とともに郡中に運ばれ、万安港から阪神方面に移出していた。明治以後も長く採掘していたのはこの土地であり、村民の受ける利益は少なくなかった。
 喜右衛門は、一八六五(慶応元)年一一月一六日没した。享年六二歳であった。

  影 浦 定次郎
 唐川砥の発展と唐川びわ栽培の先駆者
 不明 ― 一九一九(不明 ― 大正八)年
 上唐川村本谷の庄屋の家に生まれた。一八七三(明治六)年から自家所有の山林で、官有地の砥業とは別に砥石業を始め、その後長くこれを継続し、唐川砥の発展に尽力することが大きかった。
 一八九五(明治二八)年の春、和歌山県を視察した際、びわはつぎ木によって改良されることを知り、同地から唐びわを持ち帰った。帰郷後、率先してつぎ木改良を行い、やがて村内でびわのつぎ木が実施されるようになった。在来の野生種の中から粒の大きなもの、特に色のよいものや味の良いものを選んでつぎ替えられることが多くなった。
 当時、氏が紀州から持ち帰った唐びわ系統のものを〝影浦びわ〟と呼ばれたが、このようにびわの改良について大きな業績を残した。この点で、当地におけるびわ栽培の先覚者と言えよう。また、一八九三(明治二六)年から一八九七(明治三〇)年まで、南山崎村村長として村行政にも尽力した。一九一九(大正八)年六月六日没した。

  影 浦 房五郎
 村長として村の発展に貢献
 一八六八 ― 一九五一(明治元―昭和二六)年
 一八六八(明治元)年九月二一日、上唐川村に生まれた。のちに村長となり、一九〇一(明治三四)年から一九二六(大正一五)年までの長い期間、村政の中心となって尽力した。一九一〇(明治四三)年二月、唐川の真成寺において、同志二四人によって創立された園芸研究会の会長として、果樹園芸の研究と普及に努めた。
 また、一九一一(明治四四)年にはびわの共同販売組合が正式に創立された。これは創立後、びわは個人販売しないで、すべて協同販売するという規定によって運営するものであるが、この組合の長として、びわの販売と保護に尽くした。
 また、唐川方面の里道の改善など、村道の整備を行った。そのほか、南山崎村農会会長、唐川養蚕組合長、あるいは『南山崎村郷土史』の編さんにあたるなど、村政に寄与するところ多大であった。
 昭和二六年六月二〇日、八二歳で没した。

  影 浦 尚 視
 糖尿病治療の権威
 一八九二 ― 一九六六(明治二五―昭和四一)年
 一八九二(明治二五)年、影浦房五郎の子として南山崎村上唐川に生まれた。唐川小学校を終え郡中米湊の高等小学校へ通ったが、谷上山を越えての毎日の往復は、大変な苦労であった。
 東大医学部を卒業後、一九二三(大正一二)年長崎医科大学助教授に発令されたまま、ドイツ・アメリカに留学し、帰国後、同大学に勤務しその後内科教授、医学部長となった。医学博士で糖尿病の権威者であった。退職後、長崎市勝山町で病院を開き、多くの患者を診療した。
 人となりは温厚で実直、常に患者の身になって診療に当たった。また、同大学では多くの医学者を育成した。
 昭和四一年、七四歳で没した。

  梶 野 賢太郎
 伊予信用金庫(現愛媛信用金庫)創立者で事業家
 一八八八 ― 一九七〇(明治二一 ― 昭和四五)年
 一八八八(明治二一)年八月一九日、郡中湊町に生まれた。家業は米穀商であった。昭和三年、不景気と金融難に苦しんでいる中小企業のために、町民相互扶助の目的で町民自身の金融機関を持つ必要性を痛感して町内有志と図り、同年五月郡中信用組合を郡中町灘町に設立した。その後、理事長となり長年に渡って地元金融界に貢献した。伊予信用金庫の生みの親でもあり、育ての親でもあった。
 なお、戦時中は県食糧営団経理部長を務め、終戦の年まで郡中町議七期、また、昭和三八年まで八年間伊予商工会議所会頭として地方商工業界に尽力した。晩年には、松山の厚生薬品会長も務めた。
 昭和四五年五月一〇日、八二歳で没した。

  片 岡 丈 平
 本郡塩田の創始者
 不明 ― 一七七八(安永七)年
 本郡塩田の創始者片岡丈平は、同村庄屋の家に生まれた。一七七四(安永三)年尾崎村の久治(伊藤)とともに大洲藩の許可を受けて、本郡村海岸に沿った一町二反余の土地を開発して塩田に作り上げた。
 安永のころ、松山領和気郡に才安という道心がいて、しばしば福田寺の住職寒岩和尚を訪ねていたが、あるとき才安が丈平に、この辺りは塩浜に適していると語った。そこで丈平は尾崎村の久治の所へ来てその旨を話したところさっそく賛成した。その理由は、この辺りは海水がはいり込んで色々迷惑をしていたので、得心したことによる。そして丈平と久治は、費用をそれぞれ負担して塩田を作り上げた。
 丈平の人となりについては、『大洲旧記』によると、「度量が大きく正義感に富み、常に中庸を心がけ、勇あって猛からず、知あって人の心を敬い、妙なる性質味いいう所なし」と記している。
 一七七八(安永七)年七月四日没した。

  金岡 音右衛門
 三島陶器(金岡焼)の祖
 生没年不詳
 新谷藩は一九世紀の初期、市場村庄屋佐伯忠左衛門に命じて陶器を焼くことを始めさせた。忠左衛門はおよそ一〇年間陶器を製造したが、一八一五(文化一二)年になって同村の金岡音(乙)右衛門にその業を譲った。音右衛門は稲荷山の原料土を使って三島町でかまどを築き、陶業を始めた。また、釉薬の原料には三秋のものを使用していたものと推定される。
 こうして作られた三島陶器は、当所雑器ではあったが、堅ろうのうえ安価であったので、当時家庭の日用品として重要なものであった。
 音右衛門はこの三島陶器の祖であるとともに、金岡焼の祖でもあった。なお、三島の陶業は、音右衛門から後継者の亀造―定蔵―亀十郎とこの道一筋に続けられ、金岡窯の創業から約一三〇年後の昭和一六年、亀十郎の死去まで続けられた。

  金 岡 亀十郎
 三島焼の発展を図った陶業家
 一八七四 ― 一九四一(明治七~昭和一六)年
 一八七四(明治七)年父金岡定蔵・母トラの長男として、市場村に生まれた。祖父音右衛門は、三島焼の前身市場焼の経営者であった。
 一八八四(明治一七)年、将来の発展を目指した三代定蔵は、市場窯を三島町の近くに移し、金岡本邸と窯場を築いた。敷地は総計三、〇〇〇坪(九九アール)で、西半分が工場、東半分が本宅と庭になっていた。この地は郡中港にも近く、陸上交通も便利で傾斜地も豊かで、陶業には最適地であった。やがて、明治三〇年代には、高橋・金岡・玉本・浜松・山崎・近藤の六つの窯がこの地に揃い、その発展を競った。
 亀十郎は、一八歳から東京へ行き、慶應義塾へ入学したが、病気で中退した。明治二七年日清戦争が始まると一年志願兵となり、翌年満期除隊で陸軍歩兵少尉に任官。やがて父の家督相続を受けて、金岡窯四代を継ぐ。
 三島焼の将来を展望した亀十郎は、新谷出身で神戸の貿易商池田貫兵衛を訪ね、池田商会が三島陶器の輸出販売を引き受けることになった。これが契機となって、砥部焼もこの恩恵を受けることになった。大正二年には、池田商会陶土製造工場が、郡中港埠頭に建ち、続いて伊予陶器会社の近代的な大工場がこの地に建設され、その大煙突が郡中港の象徴となった。しかし、せ界大戦後の不景気によって、三島焼は、金岡窯を残して、すべて廃業した。以後、亀十郎の精魂を傾けての努力も空しく、昭和九年土地と全施設を四日市の実業家に譲渡するの止むなきに至った。昭和一六年、三島焼の陶業発展に懸けた生涯を閉じた。

   鎌 倉 島 吉
 漁業組合の発展に寄与した人
 一八九七 ― 一九八一(明治三〇―昭和五六)年
 一八九七(明治三〇)年四月五日、郡中町湊町に、父長太郎・母よしの三男として生まれた。大正六年愛媛県立松山商業学校を卒業した。卒業後父の志を継ぎ、水産業界に目を向け識見を高めていった。そのころ郡中、松前の網代紛争が起こった。昭和七年の紛争仲裁書には、郡中側の代表者として署名捺印している。
 これを契機に、郡中漁業組合長として活躍を始めた。昭和二四年九月新しく郡中漁業協同組合が設立され、引き続き組合長となった。更に昭和三七年四月、伊予漁業協同組合となり組合長に就任した。以後昭和四一年一月まで三四年の長きにわたり、地域の漁業発展のために情熱を注いだ。
 このほか、愛媛県漁業組合連合会理事、愛媛県連合海区漁業調整委員、愛媛県信用漁業協同組合理事、伊予灘海区漁業調整委員などを歴任した。この間に昭和六年一月から、郡中町議会議員を四期務め、地方自治にも功績をおさめた。その手腕を買われて、戦後の混乱期を郡中町助役として重責を果たした。これらの功績により昭和四九年一一月三日、勲五等瑞宝章を受章した。
 趣味も広く、晩年まで囲碁・俳句・川柳を楽しんだ。特に俳句にすぐれ、宮内甲一路と交遊を深め、晩年ははがきで俳句のやりとりをした。また信仰心が非常にあつく、温厚篤実で、いつも前向きに物を考えていた。
 昭和五六年一〇月二四日、八四歳で没し、従六位を受章した。妻の都は、多年、伊予漁協婦人部長として活躍し、愛媛県漁協婦人部連合会長にも就任し、多年の功績によって、昭和六一年一一月三日、黄綬褒章を受章した。

  川 中 夏 吉
 堂宇の建築や彫刻に精魂を傾けた工匠
 一八五三 ― 一九二四(嘉永六―大正一三)年
 一八五三(嘉永六)年八月九日、川中友三郎の六男として南伊予村下三谷に生まれた。幼少のころから木工細工に興味を持ち、長じて宮大工であった次兄綱吉のもとで、建築や彫刻について習った。
 更に神社仏閣の中心地である京都・奈良に出向いて、堂宇建築や彫刻について修業を積み、技を磨いた。
 その後帰郷し、好んで堂宇建築や彫刻に取り組み、立派な寺や神社を後世に残し、かたわら多くの弟子を育てた。
 唐様式で巧緻を極めた伝宗寺薬師堂(明治二七年建立、下三谷)や唐破風入母屋造りの谷上山宝珠寺本堂(明治三八年改築、上吾川)そのほか、伊豫神社(神崎)などは翁の手がけた建物である。また、建物に施された獅子や象をけじめとする彫刻は微細であり、見事である。現在、薬師堂や宝珠寺本堂は、市指定の文化財になっている。
 家庭生活では、家の盛衰を体験しているが、彼は盛衰流転を越えて、建築や彫刻に精魂を傾けた。
 一九二四(大正一三)年一一月一二日没した。
 没後、生前指導を受けた弟子たちによって伊予市下三谷華厳寺境内の墓地に、三段の台石上へ円型の碑が建立された。正面には「工匠夏吉翁碑」と記され、碑文には「翁は若くして兄を師とし、工を習い、業を成し、弟子を育てた。生れつき堂宇建築を好み、また彫刻製図は巧みであった。宝珠寺本堂や県社伊予神社などはその作である。没後十七回忌に当たり、弟子たち相計り碑を建て、師の恩に感謝すると共に後に伝える。昭和十五年庚辰秋 勲三等 三渓撰烏谷章書」と刻されている。

  菊 澤   薫
 伊予市の教育進展に貢献した教育長
 一九〇〇 ― 一九九五(明治三三 ― 平成七)年
 一九〇〇(明治三三)年菊澤縁三郎の長男として、伊予市下三谷で生まれた。大正八年愛媛県師範学校本科第一部を卒業して、伊予郡松前町立松前尋常高等小学校訓導となり、以後愛媛師範代用付属の余土・郡中小学校訓導を経て、昭和八年伊予郡佐礼谷村立佐礼谷小学校訓導兼校長に就任した。
 学校経営に当たっては、「磨けよ常に」を教育標語として、整然とした経営案を作成し、理想の教育の実現を図った。佐礼谷小在職六年の昭和一四年、伊予郡上灘町上灘第二尋常小学校長に転任した。在職二年で県の社会教育主事補に栄転した。同一七年には、温泉郡地方事務所勤務となり、昭和二〇年には、待望の愛媛県視学に就任した。
 終戦後の翌二一年三月、北山崎国民学校長に就任、その翌年の昭和二二年、新制の北山崎中学校長として、新しい時代の波に乗って、有為の前途ある少年を育成した。在職三年、温泉郡に転任し、南・北両吉井村共立中学校長在職五年で、教職三〇年の教職を閉じた。
 その後、生涯学習の熱意に燃え、伊予市立図書館で研修を重ねた。このことは、当人の文化人としての幅を大きくすることに役立った。
 昭和三一年一月、前年誕生した伊予市の教育委員に選ばれ、同年一〇月、教育長に任命された。教育長在任一二年、その間、市内の南山崎・北山崎・郡中の三中学校を統合して、新しい港南中学校を誕生させた功績は大きい。
 永年の教育会の功労で、昭和二〇年に勲八等瑞宝章、昭和五二年に勲五等双光旭日章を受章、昭和五三年には、地方教育行政功労者として文部大臣表彰を受けた。平成七年九月一〇日、九六歳で没した。

  菊 澤 文太郎
 江戸時代末期の植林事業の先覚者
 不明 ― 一八六六(慶応二)年
 下唐川村の人で明治初年まで庄屋を務めていた。度量が広く小事にこだわらず、豪放な性格であった。早くから林業が不振であるのを嘆き、自ら多額の資財を出して林業事業に尽くし、特に唐川字長崎の山林を開拓して杉五〇万本を植え付けた。
 そのため、資産を失ったが氏は平然として、「たとえ財産は失っても、自分は林業の模範を造ることについては成功したのである」と言い、少しも意に介しなかった。このように、愛林造林の精神の持ち主であって、郷土における将来の計を考慮したこの事業は、明治時代初期における植林事業の先覚者と言えよう。
 また、この地方は古来天然の雑木が繁茂し、野獣が生息して山間耕地の被害が多く、特にいのししはしばしば人家近くに現れて婦女子を脅かした。文太郎は狩猟の術に長じ、いのししを射殺した数がわからないほどであった。特に遠距離からよく的中させることでは、その右に出る者はなかった。このことは大洲藩内でも有名であって、よく人々の話題にのぼった。

  城 戸 豊 吉
 初代伊予市長 ヤマキ株式会社創始者
 一八九一 ― 一九六五(明治二四―昭和四〇)年
 一八九一(明治二四)年一一月二四日、北山崎村尾崎の網元、父城戸瀧次郎の長男に生まれた。弓削商船在学中、家庭の事情により一九〇八(明治四一)年同校を退き、翌四二年一九歳の時栄町に海産物商を、更にその後、米穀商を営んだが、やがて花かつおの製造を始めた。
 種々の苦難にもめげず業にまい進し努力を続け、ついに全国的に名声を博するに至った。この間、他の兼業を廃止して花かつお製造に専心した。
 こうして産業界に貢献する一方、郡中村村会議員として村行政に尽力し、昭和一五年郡中町合併後初代郡中町長に就任した。
 終戦後、追放令のため一たん辞任したが、昭和二七年再び町長となり行政面のほか、教育・土木・建設などにも意をそそぎ、また町財政面においても手腕を発揮した。
 昭和三〇年一月、伊予市発足と同時に初代市長として市の発展に尽くし、今日の市の基盤を確立して郷土の発展、産業文化の向上に多大の貢献をした。
 更に五〇年に渡る花かつお製造により、水産物加工業界に寄与したので、昭和三三年には黄綬褒章を受け、同三八年九月には伊予市から名誉市民の称号を送られた。昭和四〇年七月一四日、七〇歳で病没した。

  木 村 太 郎
 郡中港の外港拡張を行った郡中町長
 一八八三 ― 一九六三(明治一六―昭和三八)年
 一八八三(明治一六)年五月二日、郡中湊町に生まれた。一九二二(大正一一)年郡中町町会議員となり町政にたずさわっていたが、一九三一(昭和六)年九月の県会議員の総選挙で当選し、伊予郡選出の県議(民政党)として活躍した。また、県議会の役員(参事会員)ともなった。
 その後、一九三五(昭和一〇)年九月~一九四四(昭和一九)年三月郡中町長を務め、町行政の長として町の発展に貢献した。
 特に、郡中港湾の整備拡張に力を注ぎ、今日の伊予港建設に寄与するところが大きかった。また、郡中町と郡中村の合併に際しては専心これに努め、大郡中町を実現することができたのも氏に負うところが大であった。
 そのほか、郡中漁業組合理事長として魚市場の運営や共同販売などに尽力し、漁業の発展に尽くした。
 また、郡中信用組合理事として経済面にも関与し、あるいは五色浜に面した彩浜館を含む地所を町有地にするなど、多くの業績を残した。昭和三八年一月二五日、七七歳で没した。
 晩年は書画をよくし、数多くの作品を残している。第324図はその作品中の一つで、号を春好と称した。

  木 下 光 代
 婦人会活動と茶道の指導に貢献
 一八八八 ― 一九八三(明治二一 ― 昭和五八)年
 一八八八(明治二一)年三月一五日、伊予郡郡中町湊町(伊予市湊町)に、父木下浅太郎・母ツマの次女として生まれた。
 明治三一年三月郡中尋常高等小学校を卒業、同三九年愛媛県立松山高等女学校を卒業した。その後婦人会活動に没頭し、郡中町では大正一三年、当時の郡長鷹卯吉郎夫人静子を会長として婦人会が生まれたが、同一五郡制廃止とともに会長に選ばれた。昭和一二年七月愛国婦人会は大日本国防婦人会と改名され、報国運動も活発になり、在支皇軍慰問袋運動なども行った。
 昭和一二年一二月から同一三年一月中旬迄約一か月、大日本国防婦人会愛媛県代表の一人として、在支皇軍の慰問に上海方面に行った。
 太平洋戦争では、多くの出征兵士の留守宅や戦死者の未亡人の家庭を訪問し相談に乗っていた。
 昭和二〇年八月一五日終戦とともに、すべての公職を引き若いころから嗜んでいた茶道に余生をかけた。今日庵淡交会では、昭和二三年から愛媛支部の幹事、松山分会幹事を歴任し、昭和三〇年社団法人茶道裏千家淡交会(今日庵淡交会と改名)伊予支所をつくり幹事長となった。昭和三五年から一年間、南海放送テレビ、婦人の教室「お茶になじむ」にも出演、ブラウン管を通し茶道の指導をした。
 昭和四三年三月、茶人として最高の名誉師範の称号を茶道裏千家家元利久居士一五世千宗室より授与され、昭和五〇年には伊予市制二〇周年に当たり、伊予市長より教育文化に寄与したとして表彰状を受けた。
 明治・大正・昭和と変動の時代に信念を持って生き、人々に慕われ、昭和五八年三月三一日、九五歳で没した。

  日下部 正 幸
 地域に根ざし、多くの人材を育てた教育者
 一八八九 ― 一九八五(明治二二―昭和六〇)年
 一八八九(明治二二)年八月二九日、父日下部正維・母ツネヨの四男として喜多郡内子で生まれた。
 一九〇九(明治四二)年三月松山中学校を卒業。大正二年伊予郡松本尋常高等小学校訓導となって、以後松前・郡中・北山崎尋常高等小学校に勤務し、昭和一〇年下灘第二尋常高等小学長を退職。昭和一一年郡中尋常高等小学へ復職し、昭和二〇年同校を退職するまで、栄達を求めず、ひたすら地域に根ざした青少年教育に尽力した。
 元中日監督坪内道則は、「わたしは五年生(大正一四)のとき、伝統ある郡中小野球チームの選手になり誇りに思ったが、厳しい練習をやらねばならなかった。その一つに鬼よりこわい日下部先生のノックの洗礼を受けたのです。先生は厳しさもあり、優しさもある恩師でした」と、『きびしい野球練習』の中で述べている。
 また、高岡定吉(元大同染工社長)は、「私には親以上の人と仰ぐ恩師がいる。松本高等小学校時代の日下部正幸先生だ。先生は運動か好きで安月給の中から生卵を買って生徒に食べさせ、相撲を取らせたり、かけっこをさせたりした。高等三年卒業まぎわに中学進学を思いたち、日下部先生の下宿に泊まり込んで猛勉強。北予中学三年編入試験に合格した。」と語っている。
 昭和二三年から八五歳まで、日下部塾を開き向学の志篤い有為の少年を教育し、塾に学び進学した少年は三〇〇人を超えている。
 師弟同行、心・技・体一如の教育は輝かしい足跡を残し、地域の厚い信望を受けた。
 昭和六〇年七月二〇日、九五歳で没した。墓は松山市末広町正宗寺にある。

  倉 橋 幸 たい(代へんに巾)
 能書家で詩文に巧み、村民の教育に尽力
 一八一七 ― 一八六二(文化一四―文久二)年
 上唐川村(現伊予市上唐川)本谷にある浜出稲荷の神職倉橋幸たいは、一八一七(文化一四)年に生まれた。
 幼時より松山の日下伯巌の門に入って漢学を学んだ。高潔な性格で俗気がなく、村民に加持祈祷を依頼されても机を離れないで、しきりに書を写していた。お札の余白がわずかになると「我意これにあり」と、言って一片を封じこめた。これが妙効があったと言われている。
 能書家であり、詩文にも巧みで、常に聖賢の書を楽しみ山水を友とした。また、幸たいは寺子屋を開き長年にわたって、多くの村民の教育に尽くし人々を教化善導した。しかし、幸たいは病のため、一八六二(文久二)年四六歳で死去した。村民はその死を悼み、痛惜しない者はいなかったと言われている。なお、この寺子屋は、その後も家族の手により明治初年まで続けられた。

  久 保   勉
 西洋哲学の権威
 一八八三 ― 一九七二(明治一六 ― 昭和四七)年
 一八八三(明治一六)年二月一七日、米湊村西野に生まれた。松山中学校の同級生には安倍能成がおり、卒業後も両者は互いに親交を重ね信頼し合い、生涯の友として付き合った。
 同中学校から海軍兵学校に進み、海軍少尉として日露戦争に従軍、同三九年中尉となったが病気のため予備役となり、更に東大哲学科に入学し同四五年七月卒業した。
 同級生には岩下壮一・九鬼周三・和辻哲郎らがいた。特に東大在学中、ドイツの哲学者で同校の教授であったケーベルとの出合いは、氏の一生の運命を支配することになった。すなわち、ケーベルの氏への信頼と、ケーベルへの私淑により、両者の師弟関係は固く結ばれて生活をともにすることとなり、ケーベルが一九二三(大正一二)年横浜で死去するまで続けられた。その著書『ケーベル先生とともに』(昭和二六年刊)は、そのこと事を端的に物語っている。そして、この結びつきがケーベルの学識を吸収することによって、日本の西欧研究の在り方に画期的な転換をもたらすことにもなった。
 一九二五(大正一四)年渡欧、ドイツに三年間留学し帰朝後、昭和四年東北大学文学部助教授となり、昭和一九年東北大学教授として停年退職した。その後、昭和二八年から三四年の間、東洋大学教授として務めた。数多くの著書、翻訳書の中『プラトン国家篇』によって文学博士の学位を受けた。晩年は、千葉県市川市で翻訳の仕事をしながら研究を続けた。哲学書はすぐれていて岩波書店から出版されている。
 昭和四七年五月二四日、八九歳で没した。

  栗 田 与三郎
 地方行政に尽力 郡中村村長
 一八四七 ― 一九二三(弘化四 ― 大正一二)年
 一八四七(弘化四)年一月一三日、下吾川村栗田故六の嫡子として誕生した。名は中挙、幼名を八太郎といった。
 性格は温厚で慈愛心に富み、廃藩当時には下吾川戸長となり一八八〇(明治一三)年まで勤続、一八九〇(明治二三)年には郡中村助役となった。その後、村長・区長・村会議員にしばしば当選して村行政のために尽力した。また、郡会議員にも選ばれ、議長にもなって伊予郡政に貢献した。
 一八六五(慶応元)年より種々の名誉職に就き、地方行政面に手腕を発揮したが、この間、毎日出勤して仕事に励み、一年一日のごとく勤めてやまなかった。富田池の拡張工事及び八反地隧道築造の際には、西城戸鹿次郎らとともに世話人となりその完成に努めた。また、八反地池増設費として数百万を寄付して工事のために寄与した。
 日露戦争の際には、出征して勲功をたてた。小作者に対しては常に温情をもってしたので、慈父のように仰がれ小作争議は一度もおこらなかった。一九二三(大正一二)年八月一九日、七七歳で没した。

  後 藤 守 衛
 勅撰歌入選の歌人
 一八五九 ― 一九三〇(安政六―昭和五)年
 一八五九(安政六)年松山城下松前町の酒造業、豊前屋九代小左衛門昌勝の嫡男として生まれた。母寿賀は下三谷の宮内小右衛門の三女で、和歌の道にすぐれていた。
 守衛は明治時代中頃、尋常小学校訓導の免状を県から受け、小学校教育に専念する。その間、母の影響を受けて和歌の道に進むようになった。「酒仙」と号し、子弟教育のかたわら歌道に励んだ。明治三二年、四〇歳のとき随筆集『酒仙随録』を著すなど、文筆の道にいそしんだ。
 その後、朝鮮に渡り、数年間教育の仕事に専念したが、妻病弱のため、大正四年五六歳のとき帰国し、妻の里である米湊西野の久保家に仮り住まいした。
 その後歌づくりに専念し、毎年の勅題には必ず詠進していた。大正九年の勅題「田家早梅」で詠じた上歌が、宮中における歌会初めで、第一席に御前披講の光栄を得た。
  朝日さす 田ぶせのいほの 梅の花
       かたえは春に のこしてやさく
 その後は歌づくりに励むとともに、書画にも手をつけ余生を送っていたが、病を得て昭和五年七二歳で没した。
 昭和七年、詠進歌入選の栄誉をたたえて、歌碑が守衛逝去の地、海雲寺境内に建てられた。歌碑裏面には、景浦直孝撰 青山明書による文意が漢文で刻まれている。
  守衛晩年の歌一首
   月をまち とりをむかへて よるひるの
     たのしみつきぬ 呉竹のまど

  佐 伯   矩
 わが国栄養学の創始者
 一八七六 ― 一九五九(明治九―昭和三四)年
 一八七六(明治九)年九月一日、旧新居郡氷見村(現西条市)に生まれたが、家庭の事情により三歳のとき、本郡村(旧北山崎村)に移りそこで成長した。
 家は代々医を業としていたが、裕福ではなかった。しかし、常に人一倍の努力と苦学を物ともしない不屈の気構えを、既に幼少のころから兼ね備えていた。中村の桂小学校を経て米湊村の郡中高等小学校へ通った。卒業後松山中学校へ入学、徒歩による松山への往復は、並大抵の苦労ではなかったが、それを克服して一八九四(明治二七)年中学校を卒業した。そして第三高等学校へ入学し、その成績優秀なため特待生となった。
 更に京都大学へ進み、卒業後同大学の助手となり、のち北里研究所に入所、更に米国に留学し、一九〇七(明治四〇)年エール大学院卒業、米国政府農務省技師、アルバニア医大講師、ベンダ研究所員の後、英国・ベルギー・ドイツ・フランス学界を巡歴、一九一一(明治四四)年帰国した。
 その後、総合栄養研究所を設け、内務省保健調査委員会委員を委嘱され、一九一七(大正六)年栄養講習・新聞・ラジオによる献立発表を創始し、更に栄養研究所の所長と成り、続いて栄養学会並びに日本栄養学会各会長に就任、一九二四(大正一三)年栄養学校を開き、栄養士養成の開祖となった。その後、国内は勿論、欧州・北京・南米などで栄養学の普及と指導に貢献し世界的学者となった。この間、常に質素を旨として研究に没頭し、車中でも書物を放さなかったという。
 昭和三四年一一月二九日、八四歳で没した。

  佐 川 与 市
 米国文化に接した南山崎村果樹栽培の先駆者
 一八七二 ― 一九四一(明治五 ― 昭和一六)年
 一八七二(明治五)年一〇月一八日、佐川伝治の長男として大平村に生まれた。明治三五年~三六年ごろ福井倉吉・吉沢兼太郎らとともに時代にさきがけて果樹栽培を思い立ち、新果樹、りんご・ネーブルを植え付けた。
 また、大南の畑や、長谷のムカクボ山にも梨やりんごを栽培した。しかし、病害虫の発生、特に蛾の発生によってりんごは失敗し、梨はその後もしばらく続いたが、結局中止してしまった。
 一九〇八(明治四一)年、家の事情により家業を福井倉吉に託し、北アメリカに渡航して鉄道建設業に従事し、五か年の後、帰国して再度渡米し、一か年後に引き揚げた。こうして氏は米国の文化に接し、果樹園芸の将来性を知って斯業に尽力した南山崎村果樹栽培の先覚者の一人である。また、村会議員としても、長く村政に尽くした。昭和一六年一月六日、七〇歳で没した。

  佐々木 亀 一
 畜産振興のために尽くした人
 一八九六 ― 一九八七(明治二九 ― 昭和六二)年
 一八九六(明治二九)年一二月三〇日、農業と牛馬商を営む父佐々木竹五郎と母夕力の長男として、南伊予村上三谷に生まれた。
 幼少のときから家業の農業を手伝い、肥育牛の世話をしていたが、少年時代から牛馬に興味を持ち、牛馬商を志すようになった。大正時代末期に、県が実施していた牛馬商免許試験に合格し、免許証を取得した。
 戦後の昭和二四年、家畜商法が施行され、伊予郡家畜組合長に推された。当時は家畜商が急増し、家畜取引が混乱、紛争が絶えなかったので、組合員に対し、家畜商が畜産振興に果たす役割の重要性を強調するとともに、業界の大同団結を図ることに努め、牛馬の取引の刷新に大きく貢献した。
 昭和三一年にはその功績が認められ、県家畜商組合連合会会長から表彰されている。また、地域の信望を集め、南伊予村村会議員としても大いに活躍し、昭和三〇年の伊予市への合併に、積極的に寄与した。
 昭和三三年、業界の要望を受けて、県家畜商組合連合会長に就任した。また亀一は、今後の家畜商は、畜産農家の兼業こそ、進むべき方向であると提唱し、自らも肥育牛経営に取り組んだ。
 多年にわたる畜産業界での功績が認められ、昭和三九年には日本家畜商組合連合会長から表彰された。
 また昭和四一年に経済連合会長から、昭和四五年に畜産功労者として、県知事から表彰された。昭和五一年には、勲五等瑞宝章叙勲の栄に輝いた。
 晩年には、庭木の手入れなどを趣味として、昭和六二年九〇歳で没した。

  澤 両 東四郎
 学校教育と村発展に尽した教育者
 一八八三 ― 一九六八(明治一六 ― 昭和四三)年
 一八八三(明治一六)年一月一日、北伊予村東古泉で、早瀬弥市平の次男として生まれた。一九〇八(明治四一)年上唐川村澤両家の婿養子となり、同家を継いだ。一九〇三(明治三六)年三月、愛媛県師範学校を卒業後、伊予郡内の小学校訓導及び小学校長を歴任した。昭和六年四月、松前尋常高等小学校長を最後に教育界を去った。退職時の年齢は四九歳、いまだ壮年とも言うべき年代であった。
 二九年の歳月を子弟の教育に尽くし、終始熱意をもって教育に当たった。一九二二(大正一一)年愛媛教育協会伊予部会初代部会長となり、郡教育活動の中核として働いた。現場の教育研究の充実は言うまでもなく、更に義農作兵衛の顕彰にも力を注ぐとともに、郷土教育振興のための資料作成並びに研究録等の発刊にも寄与するところが大きかった。
 退職後は、郷里南山崎村で農業を営むかたわら村のために尽くした。特に、唐川砥の谷約一〇〇ヘクタールの山林の管理権獲得の際には、村長福岡芳芽・吉沢兼太郎らとともにこれに当たり、昭和六年一一月その念願を達した。また、昭和一二年三月~一五年五月南山崎村助役として村行政のために寄与した。更に戦後、砥の谷国有林の払下げや、開墾問題の処理にも尽力するところが大きかった。このほか、郷土史研究にも意を用い、終生これに情熱を注いだ。昭和四三年四月二八日、八六歳で没した。

  篠 崎 活 東
 生涯を俳句に懸けた人
 一八九八 ― 一九五八(明治三一 ― 昭和三三)年
 一八九八(明治三一)年、北伊予村横田に生まれ、後、郡中村上吾川に移り、松本小学校を卒業した。はじめ、製菓業を営み後に郡中町役場吏員となる。本名梶三郎。
 大正八年、月並宗匠から俳句の手ほどきを受けた。しかし、これにあきたらず、あらゆる俳誌に当たって研究を重ねた。そこで、郡中に「あこがれ吟社」をつくり、高浜虚子主宰の『ホトトギス』に、一句ながらも、地方俳人としては稀な二回の入選を果たした。
 大正一二年、飯田蛇笏主宰の『雲母』に、いきなり五句入選、巻頭の栄にかがやいた。選者蛇笏は、「古柱が多年拭きみがかれて光沢を出すといった底力」を称え、「今後の邁進を期待する」と激励した。そのころ、松山市の酒井黙禅を中心とする「松山市ホトトギス会」に参加した。毎月一回の句会には、約一〇キロの石ころ道を、闇の夜も、雨の日も一年余続けた。
 大正一四年、再び『雲母』に巻頭入選。蛇笏から課題選者に推薦された。昭和六年、活東の主唱によって、「雲母支社」を創設した。作句は、太平洋戦争末期一時中断されたが、戦後の昭和二二年、公民館区句会の司会者として、また、松尾晴雄編の『光炎』の発行に協力して後進の指導にあたった。
 昭和二四年、長年活躍した『雲母』から、山口誓子主宰の『天狼』に移り、同系の谷野予志主宰の『炎昼』同人となった。昭和三三年一月一三日、六〇歳で没した。
 著書に『活東自選句集』と、長男静夫編『篠崎活東句集』がある。
   わが留守の家のくるりに青田充つ        活東

  篠 崎   勇
 郷土史研究に情熱を注ぐ
 一九〇五 ― 一九八九(明治三八 ― 平成元)年
 一九〇五(明治三八)年一月四日、父篠崎房衛・母ナヲヨの次男である。伊予郡郡中町栄町に生まれた。愛媛県師範学校を卒業し、数年間小学校に勤めた後、体操学校(現日本体育大学)高等科に学んだ。
 昭和二年、朝鮮に渡り長らく中等学校で教鞭を取った。その間、支那事変に従軍、中国各地で転戦し負傷をした。
 終戦後、故郷郡中町栄町に帰り夫婦で商店を経営、家業に励んだが、六五歳で商業の道を退いた。かねてから歴史研究に深い関心を持っていたが、「次第に少なくなっていく明治人の一人として、明治の人間にしか出来ない郷土史を郷土に残したい」と奮起した。
 郷土史の研究資料書は数十冊に及び、これらの冊子は足で書いた研究の結晶である。豊富な資料を丹念に各所で写した貴重な写真が、すべてにわたって網羅されている。
 伊予市立図書館へ寄贈された研究資料書は、三〇有余の多きにわたっているが、その第一作は『大洲藩士・豊川渉』である。第二作も坂本龍馬に関係のあった郡中郡奉行国嶋六左衛門であった。
 このほか、佐伯矩博士や山本親雄海軍少尉をはじめ各人物にゆかりの地を訪ね、あるいは伊予市内の五輪塔、石鳥居・常夜燈・道標などをことごとく調べ、写真を添え、建立の年代と刻書や解説を加えて紹介した。主なものでは『五色浜物語』、『彩浜館記録』、『郡中波止普請帖』、『郡中宮内家譜』、『郡中米騒動』など民間の資料集三二点が、貴重な蔵書として図書館に収められている。それら研究の成果は、今なお郷土史研究に多大の足跡を残している。平成元年四月一九日、八四歳で没した。

  篠 原   梵
 知性と叙情の俳人 人間探求派
 一九一〇 ― 一九七五(明治四三 ― 昭和五〇)年
 一九一〇(明治四三)年四月一五日、南伊予村に生まれた。本名は敏之。旧制松山中学校・松山高等学校を経て、東京帝国大学国文科を卒業。昭和一三年中央公論社に入社、編集部に所属した。
 俳句は、松山中学時代から始め、松山高等学校では川本臥風の指導を受けた。昭和六年東大に入学するや、臥風の紹介で臼田亜浪に師事し、そこでは先輩の原田種茅や大野林火らと親交を深めた。梵は、その鋭敏な感覚と知的で叙情味豊かな作風によって『石楠』の花形作家となり、評論も手がけるなど大いに活躍し、石楠の同人となった。
 特に、昭和一四年『俳句研究』(改造社)の山本健吉司会の座談会「新しき俳句の課題」に、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨らとともに参加し、「人間探求派」の一人と目されるようになった。これについて能村登四郎は、「現実的な生活感情の追求が、戦時の社会の中で真剣に考えられはじめたこと。好むと好まざるとにかかわらず「生きること」、「生きていること」の実態を考えざるをえなくなった一般的な傾向を、俳句の動向の中に見いだしたからであった。
 昭和一九年中央公論社を退社して帰郷。愛媛青年師範学校で教壇に立つかたわら、愛媛新聞社から『俳句』が創刊されると同人として活躍したが、昭和二三年中央公論社に復職。名編集長として名をあげ、丸の内出版の社長も歴任した。
 昭和四九年、既刊の句集及びその他の句を含む全句集『年々去来の花』を、別刷の自叙伝『徑路』とともに刊行した。
 昭和五〇年一〇月一七日、松山に帰省中肝硬変で急逝した。

  陶   惟 貞
 子弟の教育に専念した漢学者
 一七九九 ― 一八七三(寛政一一 ― 明治六)年
 陶惟貞は一七九九(寛政一一)年八月二八日灘町に生まれた。幼時からそう明で学を好み書を良くした。
 初め同町の宮内柳庵について学んだが、やがて京に上り儒者貫名海屋のもとで学問に励んだ。その後、安芸広島に遊歴。医術を習得して帰郷し郡中で開業した。
 医師として人々の治療に当たっていたが、中年に至り医業を廃して教育者に転じ寺子屋を開いて郷党の子弟の教育に専念した。
 その後、人々を訓育すること五〇年の長きにわたり多くの人材を育成して世に送った。質素・勤倹、ただ人材の養成を自分の一生の仕事とした。この間、その教えを受ける者が二、〇〇〇人に及んだと言われた。また、詩作にすぐれ書を良くした。それは風雅の趣があり、一種の風格がそなわっていた。
 学制令発令に伴い寺子屋を廃した。翌一八七三(明治六)年九月一八日七五歳で没した。墓は栄養寺にある。実名は観、字は惟貞、幼名儀三郎と言い別号に半窓、放斎砂山、聴雨などがある。一八九八(明冶三一)年三月、その遺徳をたたえ地方教育後進奨励のため有志の手によって万安港(現伊予港)の西南、亀が森に碑を立てた。

  仙 波 盛 全
 和歌に秀で稲荷神社に奉納した庄屋
 一六五五(明暦元)年 ― 不明
 一六五五(明暦元)年九月二六日、河野宿弥盛家に始まる仙波覚右衛門の次男として大平村で生まれた。幼名亀之助、長じて安兵衛と称し、半幽斎と号した。
 学を志し、郷里を出て松山城下某氏の家にはいった。幾年を歴て産を作り家運隆々、享保以後大平曽根で庄屋株を買って庄屋となり、定紋を「日の丸」扇と定めた。墓所は松山市内に有ると言われるが細事は不明。
 盛全はその性、正直且明敏、しかも風雅を好み、都鄙高家の人と接し、著名な歌人小倉正信・大月吉迪とともに和歌をよくし、親交を厚くした。
 晩年、伊予には名勝旧蹟が多いのにかかわらず、これが失われつつあるを惜しみ、郷土への熱情を込めて詠んだ「伊予名所和歌五十首」を伊予稲荷神社へ奉納した。その二、三を挙げると、
  名所(熟田津)
    にきたつに船出せんとや雲はるゝ
        伊予のたかねを先望むらん
  古事(伊予国天山)
    天山のわれて落ぬる面影や
        いまも雲ゐに残る三日月
  神社(伊曽乃神社)
    打よするいその社の夕波に
        きねか鼓や音まかふらん
 また、一七一五(正徳五)年には六十賀の祝いとして、みずから願主となり、友人二五人とともに、賀歌を同社に奉納し、前和歌とともに、今も社宝として保存されている。

  高 岡 定 吉
 紡績・染色業界に多大な貢献
 一九〇〇 ― 一九九二(明治三三 ― 平成四)年
 一九〇〇(明治三三)年四月六日、郡中村米湊栄町に生まれた。父高岡宗吉・母ユミの長男で、両親共々商業を営んでいた。
 明治四〇年四月、松本尋常高等小学校に入学、六年後の大正二年三月尋常科を卒業、続いて高等科へ進学した。在学中は軍人を志していたが、高等科三年になって、軍人を断念して中学校編入の道を選び、北予中学三年への編入試験に合格した。
 大正八年三月北予中学校を卒業。次いで大阪高等商業学校に同年四月入学、大正一一年三月同校を卒業した。卒業後、日綿業界に入社、二四歳のとき日綿インドボンベイ支店に勤務した。在任中、呉羽紡績社長伊藤忠兵衛に高く評価され、昭和一〇年帰国。直ちに呉羽紡績に入社した。時に三四歳であった。
 やがて日華事変が勃発、応召により陸軍軍人として中国広東方面で三年間従軍した。その後、フィリピンで綿花栽培に従事していたが、昭和一九年帰国、呉羽航空機生産部長として戦闘機製造に携わった。
 戦後は呉羽紡績の営業部門を担当、常務―専務を経て、昭和三八年京都の大同染工の社長となった。日本貿易会常議員、日本染色協会副会長となり、紡績・染色業界に貢献、昭和四三年に藍綬褒章、同四七年には勲三等瑞宝章を受章した。
 帰郷のときは郡中小学校を訪ね、小学生に教育の大切さ、思いやり、報恩感謝の気持ちを持つことなどを講演した。また同校へは、図書の寄贈(日高文庫)、西欧名画の寄贈、教育奨励基金を設けるなど、終生郷土を愛し、恩師に感謝の念を持ち続けた。
 平成四年八月一七日、九三歳で没した。

  武 知 五 友
 気骨の漢学者・教育者
 一八一六 ― 一八九三(文化一三 ― 明治二六)年
 一八一六(文化一三)年四月一日、松山藩士武知朴斎の子として生まれた。幼名は清太郎、のち方獲という。字は伯慮、五友・愛山・清風と号した。幼いときから学問が好きで近藤逸翁について学び、やや長じて日下伯巌を師として勉強した。藩学明教館が創設せられると、ここに入って、更に伯巌についてその教えを受けた。
 一八三九(天保一〇)年に江戸の昌平黌に入り、一八四二(天保一三)年には帰って大小姓となり、藩校明教館で程朱の学を講じた。
 維新後、職を辞し更に廃藩置県により旧藩主が上京したのを期に、住居を松山郊外高岡村に移した。一八七二(明治五)年ころ上高柳村で私塾を開き、更に三津に移り、ついで一八八二(明治一五)年郡中灘町において開塾し子弟の教育に当たった。当時教えを乞う者は一五〇人に及んだ。五友はまた、正岡子規の師でもあり、子規に与えた〝香雲〟の書は現在松山市子規堂内に保存されている。
 人となりは簡直で気節があった。辺幅を飾らず、洋風を廃してことごとく古い習わしを用い、流行を追わなかった。また、父母に孝養を尽くしてよく仕え、その心を慰めた。彼は博学でまた、詩文・和歌・書画を能くし遺墨も少なくない。
 一八九三(明治二六)年一月三日、松山で病のため没した。享年七八歳であった。門人など請うて郡中栄養寺に葬った。子規は、「極楽や君が行く頃梅の花」の句を作って五友の死を悲しんだ。

  武 知 勇 記
 郵政大臣・政界屈指の雄弁家
 一八九四 ― 一九六三(明治二七 ― 昭和三八)年
 一八九四(明治二七)年七月一〇日、南伊予村下三谷に生まれた。一九一三(大正二)年、明治大学を卒業後、帰郷して立憲愛媛青年党を創設し、政界への雄飛をねらった。
 一九一九(大正八)年二五歳の若さで政界に入り、松山市議、同九年県会議員に当選した。昭和五年普選施行第二回の総選挙に民生党に所属し、愛媛県第一区から立候補して衆議院議員に当選、以後昭和一七年まで連続五回当選した。この間、昭和一一年広田内閣の文部参与官、同一五年米内内閣の逓信政務次官を務めた。弁舌にすぐれ、その雄弁は永井柳太郎と並び称された。
 戦後追放となり解除の後、昭和二八年の総選挙には再建連盟に属して立候補し当選した。その後、自由党に入り、同党を除名され、岸信介と日本民主党を結成した。同二九年一二月、第一次鳩山内閣の組閣に当たっては郵政大臣に就任した。伊予市では初めての大臣であった。
 昭和三〇年の総選挙には落選したが、同三三年には再選された。しかし、同三五年以降は健康をそこない立候補を断念したが、政党人のほか財界でも重きをなし、愛媛新報副社長、四国毎日新聞専務取締役、愛媛新聞社長、熱海温泉社長、山下汽船、大王製紙顧問を歴任した。
 昭和三八年九月には、城戸豊吉とともに伊予市初の名誉市民の称号を受けた。郷土を愛し、郷土の開発に貢献した。
 昭和三八年一〇月一一日、熱海市で没した。享年七〇歳であった。

  武知 政右衛門
 酒造業者であり、地域振興に貢献した人
 一八七三 ― 一九三九(明治六 ― 昭和一四)年
 一八七三(明治六)年二月一六日、中村に生まれた。酒造業を営むかたわら、北山崎村村会議員となり村政に力を注いだ。
 特に、郡中~長浜線の郡道改修工事に当たっては、その中心となってこれに尽力し、完成の結果は地方民に多大の交通の便を与えることになった。また、学校建築委員として教育面に、あるいは北山崎村信用組合理事として産業面にも種々貢献した。
 昭和一四年三月二四日、六七歳で没した。

  武 智 惣五郎
 活力に満ちた地域のリーダー
 一八八六 ― 一九六二(明治一九 ― 昭和三七)年
 一八八六(明治一九)年一月一四日、上三谷村に生まれた。同四〇年一二月、南伊予村書記となり、更に同四四年九月収入役、その後助役となり、一九二一(大正一〇)年一〇月には村長となった。
 村政に専念するかたわら、伊予郡農会評議員、同警友会顧問、同購買組合連合会長、愛媛県樟模範林保護組合長、産業組合中央会愛媛支会の評議員として郡や県の事業に尽力するとともに、村の産業組合や養蚕組合、農会などの会長または組合長として各方面に活動し、村の中心となって村政に当たっていたが、一九二六(大正一五)年七月、村長の職を辞した。
 昭和四年一一月、再び村長となり、昭和二一年一一月までその職にあって村内はもとより広く地方行政に尽くした。この間、伊予郡町村会長・全国町村長会理事などを務め、昭和一五年一二月からは県会議員として県政に参与した。昭和三〇年伊予市の発足に伴い、伊予市初代の市議会議長として市政面にも尽力した。
 こうして長い間、公職にあって地方行政面に力を注いだが、この間特筆すべき功績は大谷池の開発であった。大谷から流れている大谷川は日頃は水に乏しいが、一たび大雨が降れば洪水となり田畑や作物を流して人々を苦しめた。また、大谷川に沿った地帯には六百数十ヘクタールの水田があって、付近の池から灌漑用水を取っていたが、日照りが続けば池の水は枯渇して干ばつを引き起こした。そこで大谷池の開発を考え、一〇年余の苦心を重ねて昭和六年その許可を受け、翌昭和七年一月から工事に着手した。
 その後、種々の難関を乗り越え、苦難を克服し、一四年の歳月をかけてついに昭和二〇年三月に完成した。この大谷池築造の陰には、氏の不屈な意志と揺るぎない卓見が秘められている。
 大谷池の堤防には氏の長年にわたる功労とその徳をたたえて頌徳碑を、また、伊予小学校校庭には胸像が建てられている。なお、昭和三四年には、藍綬褒章が授けられた。
 昭和三七年八月三〇日、七七歳で没した。

  武 智 勝 丸
 石鎚神社中興の神官・偉大な教育者
 一八六三 ― 一九二八(文久三 ― 昭和三)年
 一八六三(文久三)年九月一二日に、南伊予村の廣田神社の社家に生まれた。一八八三(明治一六)年愛媛県小学校訓導になり、翌明治一七年には家職を継いでいる。小学校の教師として、伊予郡興譲小学校(下三谷)に赴任、明治二九年伊予郡伊予第二尋常小学校長となり、明治三七年伊予郡伊予尋常高等小学校を辞職するまで、松前小学校・山崎尋常小学校・米湊尋常小学校・郡中尋常小学校を歴任、二一年間教職にあった。明治三七年一〇月三日、教育界を辞するに当たって、南伊予村村会議員武知源太郎と下三谷禅宗華巌寺住職西谷雲峰の送別の辞が贈られた。
 その後、家職の神官に専念していたが、一九一二(明治四五)年、愛媛県は先例を破り、特命によって武智勝丸を石鎚神社の社司に任命した。社司に任命されると、まず石鎚神社の財政を確立し、神徳を発揚させるため、氏子・崇敬者の組織の改善から始めた。多額の債務を解消するため、神社から交付してある会符(免許証)の整理を行い、夏の大祭には登山保護料を納めるようにした。また一定の規約によって崇敬組合の整備を行い、組織化された運営を推進した。
 続いて、基本財産の造成に尽くし、今日の隆盛の礎を作った。就任以来、一七か年に石鎚神社を全国屈指の神社となる基を築いたのは、彼の偉大な人格と輝かしい業績によるものである。
 現在の石鎚神社は、氏子一、〇〇〇戸、崇敬者四万八、〇〇〇人を数える。また、全国といわずハワイにも分社がある。
 昭和三年三月二四日、六五歳で没した。

  田 中   休
 村治に専念・公共事業に尽力
 一八三一 ― 一九〇三(天保二 ― 明治三六)年
 一八三一(天保二)年二月七日、八倉に生まれた。天資温厚着実、幼時から学を好み、武智愛山先生について漢籍を修め俳諧を能くした。一八五三(嘉永四)年六月、亡父の後を継いで八倉村庄屋職を拝命してから、常に村治に意を用いたので、治績は大いに上がった。村人でその徳を仰がない者はなかった。明治六年二月新政府改革で職を退き、公職につき、また各名誉職に推選されることが少なくなかった。絶えず公共事業に尽力し、功労はすこぶる大きかった。一九〇三(明治三六)年八月一七日、七二歳で没した。

  田 中 英 安
 刻苦して医療を全うした医師
 一八五一 ― 一九一五(嘉永四 ― 大正四)年
 一八五一(喜永四)年一一月、下吾川村に生まれた。向学心に富み、早くから医師で身を立てようと考え、一八五七(安政四)年のころから儒学を習い、ついで漢洋折衷内外治療法、漢法内外科治療法、英学などを修めた。また、長崎で苦学をしながらオランダ医学を研さんして、一八七〇(明治三)年帰村し郷里で開業したが一年足らずして止め、翌四年上京して西洋法内外科治療法を修め、かたわら慶応義塾で学び再び帰村して開業した。当時、氏の技量を知らないため患者も少なく生活に窮することもあって小学校教員を兼務したが、やがて業をやめて松山病院に移った。同病院で実地研究を重ね、ドイツ医学を修めて同四三年帰って再び開業した。患者には親切で薬に対しては慎重であったので、信頼された。
 教育にも熱意を持ち、一九〇二(明治三五)年には学事上の功績により教育一等賞を、また郡中村学校改築費及びため池工事費へ金員を寄付して木杯を受けた。体育衛生面、医師会設立などにも尽すいした。また、村会議員・学務委員・青年支会長・伊予郡医師会長としても貢献するところが大きく、陶惟貞の碑の発起人として碑石の建立にも当たった。
 こうして衛生思想の普及、公共事業の指導、学校教育の向上に努めた。晩年には、氏の手によって施薬された貧困者は数限りなくあった。貧困と戦い、不屈不とう、社会に貢献してその職を全うした人物であった。
 一九一五(大正四)年九月一日没した。六四歳であった。

  田 中 勘兵衛
 大空の英雄 日本の名パイロット
 一八九六 ― 一九七六(明治二九 ― 昭和五一)年
 一八九六(明治二九)年五月五日、父覚治・母タキヨの四男として、森で生まれた。四男二女の末っ子であった。幼小のときから優秀で頑張り強く、北山崎小学校高等科を明治四一年に卒業した。
 飛行機とのかかわりは、大正九年五月一日、操縦術修業員として、所沢陸軍飛行学校に入校したときからである。軍曹のころ、郷土訪問の意味で北山崎小学校の上空に二枚羽根の飛行機で飛来した。
 その後陸軍士官学校に入校し、大正一四年同校を卒業、陸軍航空兵少尉に任官し、陸軍航空本部技術部付となった。昭和三年航空兵中尉に昇進、昭和五年依頼免官となり、川崎造船所飛行機部にテストパイロットとして入社した。三四歳のときである。
 第二次世界大戦終了まで、七〇機種に及ぶ新造機でテストをくり返し、数々の記録で世界に勇名をはせた。我が国テストパイロットの草分けの一人で、川崎KDA5戦闘機で時速三二〇キロの世界最高記録、一万mの成層圏突入と世界記録を達成した。パラシュート降下も日本で初めてで、「飛び降り勘兵衛」の異名がついた。
 昭和一二年には民間航空人に贈られる最高賞航空有功賞を受けており、戦前日本の名パイロットとして、至宝的存在であった。
 四八歳のとき終戦となり、飛行機から離れたが、昭和二五年、川崎設備工業株式会社初代社長に就任、三五年間同社社長、同三九年~四六年同社相談役を務めた。
 勘兵衛は仕事に対して極めて忠実で、かつ厳格であり、とつとつとして語る話し方は、人を引きつけずにはいられなかったという。
 昭和五一年一一月一〇日、八〇歳で没した。墓地は岐阜市にある。

  田 中 重 一
 教育者で田中家系譜を完成
 一八八一 ― 一九二九(明治一四 ― 昭和四)年
 一八八一(明治一四)年下吾川本村の父田中守太郎・母ひでの長男として生まれた。教員を目指し、明治三三年愛媛県師範学校六か月の講習を受け、準訓導となった。
 明治三五年一二月、近衛歩兵第四連隊へ入隊、同三七年一二月、陸軍歩兵軍曹となり、日露戦役中第一軍、近衛師団に属して出征、奉天会戦中、同三八年三月六日激戦中敵弾のため負傷した。同年八月一日、兵役を免除され、内閣恩給局から終身恩給を授けられた。同三九年四月一日、戦役の功により勲七等青色桐葉章、従軍記章を授けられた。
 明治四〇年一〇月から六か月間、師範学校で、愛媛教育会教員養成所第二部修業、同四一年三月、尋常小学校本科正教員となり、北伊予・上灘・松前・松本小学校などで教鞭をとり、明治四一年郡中小学校訓導に任ぜられた。
 理科教育に熱心で、広い屋敷の庭は、植物園のように四季の花や樹木を植え、また小鳥小屋を造り、数十羽の小鳥を飼い、「よく生徒を引率して、教科書だけでなく自然に親しむ実地教育を受けたのが思い出される」と当時の教え子たちは語っている。
 また、我が家の系譜の完成を思い立ち、東宇和郡野村町(現西予市)の緒方陸朗と、その源を同じくすることをつきとめ、資料を付き合わせて研究すること九年の日時を費し、もつれた糸を一つ一つほぐすように明らかにし、ここに田中家・佐伯家・丸田家の系譜をまとめ上げることができた。
 下吾川の田中家一族三四軒は、重一がガリ版印刷一六〇枚にまとめ上げた系譜を「家宝」とし、大切に保存している。

  田 中 良 七 不明 ― 一八八三(明治一六)年
  田 中 権 七 不明 ― 一九一四(大正三)年
 下吾川池田の名工
○田中良七(デコ屋良七)
 下吾川池田の田中進の四代前の祖先である。良七は生まれながらにして、資性巧緻、好んで人形頭を製作し、その技は真に迫り名声高く、阿波の人形一座や、その他の一座が村々に訪れたときや、通過するときは必ず立ち寄って、人形頭を買ったと言われる。
 良七は絵心もあって、現在田中進宅には、水墨画を描いた屏風があり、専門家並みの技術と評価されている。伊予岡八幡宮の楼門に、良七作の「神馬」が二頭左右に置かれている。
 また、下吾川田中義起宅には、良七作のダイバの面と、鐘馗の掛軸が保存されているが、いずれも立派な作である。なお、その名声により、後世この家はデコ屋と呼ばれるようになった。明治一六年一一月一〇日没した。
○田中権七(タンス屋権七)
 下吾川池田の田中満穂の曾祖父である。権七は谷上山宝珠寺の護摩講を発起し、漸次発展するに従い、天性怜俐にして器用な権七は、護摩札の製作を一手に引き受け、家計の資を得た。
 更に松山へ行って弓の製法を学び、後桜井に行き、塗物の奥義を究めた。帰って指物業を開き、農業のかたわら、主としてタンスの製造に従事したため、人呼んで「ダンス屋権七」といわれるようになった。
 また、神輿・獅子頭・ダイバの面などをも製作し、その技に秀で、常に四、五台の神輿の修理または、新調、獅子頭・能面と注文引きも切らず大繁昌であったという。子孫の田中満穂宅には、現在も家宝として、ダイバの面及び能面、伊予岡八幡宮の神輿「四角さん」のそり屋根型などが保存されており、誠に貴重な遺品とされている。大正三年六月三日没した。

  玉 本 善三郎
 第二代伊予市長―市発展の基礎づくり
 一九〇六 ― 一九八五(明治三九―昭和六〇)年
 一九〇六(明治三九)年三月三一日、伊予市三島の造り酒屋、父朝太郎、母ユキエの長男として誕生した。幼時から勉学にいそしみ松山中学校・松山高等学校・京都大学経済学部と歩み、昭和七年京大卒業と同時に神戸製鋼に入社した。
 太平洋戦争中は、統制課長として敏腕をふるったが、昭和二二年帰郷し、伊予農産KK社長、同製釘KK社長、酒造KK社長など会社経営に専念した。
 昭和三〇年二月、推されて伊予市議会議員、副議長、三二年伊予市議会議長としてその重責を全うした。
 昭和三四年二月三日、地域住民の絶対的信頼を受けて初代伊予市長城戸豊吉のあとを継ぎ、二代伊予市長に就任した。その直後、郡中・北山崎両中学校の統合問題では種々困難を極めたが、「中学校教育の向上のためには、統合は絶対必要の所信を貫き、昭和三七年三月九日港南中学校の落成式を迎えた。
 昭和三六年一〇月には伊予市内に赤痢が集団発生したが、その時点でも事態を見極め、適切な対応がなされ、一一月には赤痢も終息した。
 新市建設の基礎確立期から市政を継承し、その四期一六年の事績は極めて多く、中でも新都市計画に伴う道路網の整備や、海の玄関伊予港整備五か年計画の実施は、産業発展に大きく貢献した。
 更に、新農山漁村建設事業・農業構造改善事業及び開発パイロット事業の推進など伊予市の発展に尽くした功績は大きい。
 伊予市歴史文化の会初代会長として、郷土文化の発展と会員の育成への尽力も忘れ難い。昭和五〇年の伊予市名誉市民章に続き、昭和五一年勲四等瑞宝章を受けた。昭和六〇年二月一五日、七八歳で没した。

  玉 井 儀兵衛
 誠実で義理を貫いた人(砥部騒動)
 一七〇〇 ― 一七四二(元禄一三 ― 寛保二)年
 一七〇〇(元禄一三)年上野村に生まれた。幼少のころから学問に志し、日夜勉学に励んで多くの書物に親しみ、学徳並び高かった。
 一七二〇(享保五)年父の後を継いで庄屋職についた。その後、一七四一(寛保元)年に〝砥部騒動〟が起こったが、そのとき、大洲藩では儀兵衛らに騒動の処置を任せた。しかし、事件は容易に解決かつかず、また騒動の中心的人物であった砥部北川毛村庄屋善兵衛は玉井家に身柄を預けられていた。善兵衛は事件に関する顛末書を出して理非を明らかにしようと考え、儀兵衛に相談した。儀兵衛は藩の役人に提出するかどうかを図ったが、役人はそれを喜ばなかった。その内意を善兵衛に伝えると、彼はどうしても聞き入れない。もし、この場合黙っていれば是非曲直が明らかにならず、ただ無実の罪を受けては死を免れまいと無理に提出させようとした。儀兵衛は重ねて上意を伺うことにしたが、役人は、善兵衛の一命にかかわるようなことはしないと堅く儀兵衛に約束した。儀兵衛は、そのことを善兵衛に告げるとともに、顛末書を焼却させた。しかし、意外にも砥部騒動の裁決は、善兵衛及び佐治右衛門に死刑を宣告した。
 責任感の強い儀兵衛は、先に善兵衛らの身命を保証した言責を重んじ、善兵衛の死刑に先んじて切腹し道義を通そうとした。しかし家人らが、その身辺を警戒したため果たされず、その後、数回自殺を図ったが達し得なかった。それでもなお、義心は止めようがなく、ついに善兵衛らの死刑の時刻を見計らって舌を食い切って絶命し、その義理を貫いた。
 一七四二(寛保二)年七月二七日没した。四三歳であった。

  坪 内 道 則
 野球の殿堂入りした中日球団監督
 一九一四 ― 一九九七(大正三 ― 平成九)年
 一九一四(大正三)年四月七日、父坪内若松・母イノの五男として、郡中町灘町に生まれた。幼少から野球が好きで、郡中小学校尋常四年生のとき、同年生でチームを作り、五年生で野球部員となった。この年、日下部先生から、「何事も忍べ」という精神教育を受け、これを生涯に渡って生かし、野球の達人となった。
 高等科一年から野球の名門松山商業へ進学し、野球部へ入った。当時の松商には、三森・尾茂田・景浦とそうそうたる同僚選手がいた。これでは正選手は無理と思い、大阪に嫁いだ姉を頼って天王寺商業に転学し、野球に熱中することができた。
 続いて立教大学へ進学、ここで再び友人景浦と新人チームを作り活躍する。やがて職業野球に誘われ、大東京球団に入った。この球団はやがて、ライオン・朝日と改称し、坪内は主将の重責についた。球団の運営には、さまざまの苦労を重ねたが、折からの太平洋戦争の進行で、野球の公式戦は打ち切られた。
 戦後はいち早く、球団づくりを始め金星スターズを結団した。昭和二一年、八球団が揃ってプロ野球がよみがえった。同年プロ野球功労者として表彰され、昭和二三年には一千試合出場・一千安打の好記録が実現した。この栄誉が、後の野球殿堂入りにつながったのである。
 彼が最後の花を咲かせたのは、八球団中の花形中日球団での活躍である。この球団の名監督天知俊一に見込まれ、のち監督として昭和二九年日本一を達成した。
 退団後は、野球評論家、ロッテの二軍監督を歴任、平成四年野球功労者として、野球殿堂入りした。平成九年九月一六日没した。

  露 口 悦次郎
 優れた教育者で実業家
 一八六七 ― 一九五三(慶応三 ― 昭和二八)年
 一八六七(慶応三)年八月二三日、南伊予村上野に父阿部経胤(鷹吉)・母春の次男として生まれた。
 幼いときに母の兄である久万東明神、露口薀の養子となった。医師であった義父の後を継ぐため、医師を目指して上京を決意したが、兄倍太良の反対でこれを断念し、師範学校に入学した。明治二二年愛媛県尋常師範学校を卒業し、更に特待生として、東京高等師範学校に学んだ。
 卒業と同時に郡中高等小学校へ赴任した。生徒たちの意気旺盛、真剣な勉強態度に引きずられて愉快な日を送った。
 明治二四年松前尋常高等小学校に転任し、同校の校長となった。同二七年愛媛師範附属小学校に転任、今治高等女学校を経て、大正二年松山高等女学校長に就任、同四年今治中学校長に転じた。
 一九一八(大正七)年教育界を退き、伊予鉄道会社社長井上要の要請で、支配人として同社に入社した。入社当時伊予鉄道会社は、経営上非常に多難な時代であった。
 数々の試練の末、昭和一六年一二月二二日、伊予鉄道本社で、新会社の発起人会が開催され、同一七年四月一日、新しい伊予鉄道株式会社設立に至るまで、井上要の信頼にこたえて大いに手腕を振った。
 伊予鉄道会社重役のまま、昭和一〇年~同一三年私立北予中学校長を兼務、同校の県立移管とともに退職した。
 多くの子に恵まれ、それぞれ実業界、教育界で活躍している。昭和二八年六月一四日、八五歳で没した。

  土 井 重次郎
 農村開拓と社会事業につくした人
 一八七一 ― 一九二一(明治四 ― 大正一〇)年
 一八七一(明治四)年一二月二五日米湊村に生まれた。温厚着実な人柄で村民から尊敬された。
 一九〇六(明治三九)年三六歳のとき、郡中村字米湊の総代となり三期九か年の間、大字のために貢献するところが多かった。すなわち、米湊字西野原一帯は畑地であったが、一九〇七(明治四〇)年貯水池賀加池を新造して水田とし、また、一九一一(明治四四)年には倍池といわれるため池を築造してかんがいの便を図ったりした。当時村一円には森林が多く、一毛田が多かったのを伐採開墾についての協定を行い、これを二毛田にした。また、墓地が各所に点在して不便が多かったので、これをまとめるために幾多の困難を乗り切り、ついに一九一三(大正二)年知事の認可を受けて共同墓地を新設した。
 一九一四(大正三)年区長に選ばれ、同時に稲荷総代として尽力した。一九一五(大正四)年には郡会議員となり、同五年には郡参事会員となった。更に一九一七~一九二〇(大正六~九)年郡中村信用組合長となって敏腕を振るい、組合発展のために尽くし、信用組合発展の基を作った。また、大山祗神社の基本財産、愛媛慈恵会、北海道・東北六県の凶作、桜島爆発被災窮民などの救済対策、その他各方面に多額の寄付をなし、それらの社会事業遂行に進んで賛助した篤志家でもあった。
 一九二一(大正一〇)年九月五日没した。享年五〇歳であった。

  豊 川 市兵衛
 万安港築造の工事監督
 不明 ― 一八三九(天保一〇)年
 伊予市栄町庚申堂境内に古めかしい手洗石がある。それは、一八三五(天保六)年万安港完成を期に、豊川市兵衛などが献納したものである。
 大洲藩郡奉行所配下であった市兵衛は、郡中波戸用係として万安港の築造に尽力した。一八一七(文化一四)年より岡文四郎と協力して事に当たり、一八三〇(天保元)年、文四郎が職を辞してからも引き続いて工事監督となってこれに当たり、ついに天保六年港を完成した。
 事に処するに恪勤精励、土工に通じていたばかりでなく、役所の事務にも精通していて、よく文四郎を助けた。築港の工事ができ上がると、築港記録「郡中波戸普請帳」及び築港の図面を記して、後世の人のために役立てた。

  豊 川   堤
 新砥脈の発見や砥石産業振興に貢献
 一八二一 ― 一九〇五(文政四 ― 明治三八)年
 一八二一(文政四)年伊予郡原町村に生まれた。長じて郡中灘町豊川家に入り婿して家を継いだ。大洲藩に仕え、藩営伊予砥採掘搬送の事務に当たった。その間、唐川地方の新砥脈の発見や砥石の掘り取り、販売などに尽力した。
 当時、伊予砥は主として大阪商人和泉屋の手によって販売され、関東地方へも多く売られていた。これは大洲藩より江戸詰めの各藩に送られていたもので、刀剣のとぎ用に使われたが、このほか、農業用・職人用にも数多く用いられた。
 廃藩後は砥石山一帯は官有地となったが、上唐川村ではその土地を借り受けて採掘を継続していった。この間、官有地である砥石山を村に払い下げて貰うために努力を続け、ついに明治四〇年には民有地となった。このように唐川村のために長年にわたって貢献し、一九〇五(明治三八)年、八五歳で没した。
 なお、村のために尽力する事多大であったので、昭和一〇年村民の手によって上唐川砥石山のふもとに頌徳碑が建てられた。

  豊 川   渉
 明治の激動期に活躍した高潔の人
 一八四七 ― 一九三〇(弘化四 ― 昭和五)年
 一八四七(弘化四)年灘町で豊川堤の子に生まれた。幕末、大洲藩から土佐藩が借り受け、坂本龍馬の海援隊が航海した「いろは丸」に乗り組み、その沈没に至る『いろは丸終始顛末』をのちに綴った。維新期郡中出役民事庶務方を命ぜられ、大洲若宮騒動や郡中騒動の鎮撫に当たりその記録『大洲騒動略記』を残した。これらの記録を含む『豊川渉日記』は幕末~明治一五年ごろの郡中の出来事や庶民生活を知る貴重な史料であったが、今は現本が散逸している。このように、若いときから中堅となって、各方面にわたって活躍した。一九〇二(明治三五)年橋本友直町長の後を受けて郡中町五代目の町長となり、一九一〇(明治四三)年まで町政の長として町の発展に努めた。
 高浜商船組郡中出張所を誘置して運送機関を充実し、あるいは伊予水力電気会社を誘置して地方民の生活の向上を図った。また、郡中港湾を整備して船舶の寄港に便宜を与えるとともに、五色浜神社の合併にも尽力した。このほか、教育にも意を用い、郡中尋常高等小学校の校舎の増築や、郡中商業補習学校を創立した。晩年は諸記録を整理し、『郡中町郷土誌』を編さんして町の歴史と現状を明らかにするなど、大きな学問的業績を残した。
 昭和五年三月二一日、八三歳で没した。

  永 井 貞 市
 草創期の父子二代村長
 一八七〇 ― 一九四七(明治三 ― 昭和二二)年
 一八七〇(明治三)年一月六日、森村に生まれた。伊予郡郡書記として郡政にたずさかっているうち、一八九七(明治三〇)年父良貞の後を継いで北山崎村村長となり一九一七(大正六)年まで勤続、国鉄上灘線敷設問題が起こり一旦退職したが、大正一一年推されて再び村長となり昭和四年六月まで村政の中心となって村のために多くの貢献をした。
 この間、北山崎養蚕組合長・同信用組合理事、伊予郡郡会議員・同農会長、愛媛県農会議員・同評議員・同水産連合会議員及び原町外八か村共有物組合委員など、多くの要職につき地方の中心人物として公共のために力を尽くした。昭和二二年一月、七八歳で没した。
 晩年書画を楽しみとし、みずからも絵筆をとって山水の絵を描いたりした。第328図はその一つである。

  仲 田 百太郎
 明治・大正期郡中町政に貢献した人
 一八六八 ― 一九三八(明治元 ― 昭和一三)年
 一八六八(明治元)年一月二二日、湊町に生まれた。生家は酒造業を営んでいた。家業のかたわら、郡中町会議員はいうまでもなく、郡会議員にも数回選ばれて地方政治に尽くした。
 また、一九二〇(大正九)年五月から大正一三年五月まで町長となり、町政の発展に貢献した。町役場の建設、郡中港湾の整備、学校建築などに尽力した。信仰心も厚く、寺社の設備と充実にも意を注いだ。
 町長辞任後も町の元老として長く町政の指導に当たった。
 昭和一三年一一月二六日、七〇歳で没した。

  仲 田 蓼 村
 伊予地区俳諧の巨星
 一七九四 ― 一八六三(寛政六 ― 文久三)年
 天保から幕末にかけて俳諧は非常な広がりを見せ、町から村へと山間僻地に至るまで流行して句作にふける者が少なくなかった。その当時、郡中やその近辺でも沢山の俳人がいたが、そのなかで郡中の蓼村は特に著名であった。
 蓼村は郡中灘町に、先代和助の予として一七九三(寛政五)年に生まれた。通称は仲田和助、名は真武、蓼村は俳号である。仲田家は辻屋の屋号で古くから種油やびん付け油の製造販売を営んでいた。蓼村は家業に励むかたわら、社会的事業に尽くした徳望家であった。
 一八三四(天保五)年四一歳で家業を譲り、その後、俳道に専念し、当地方の俳諧の指導者として多くのすぐれた句を作っている。蓼村の俳諧における交友関係はすこぶる広く、伊予国内は勿論、京都・江戸その他各地の俳人と交渉を重ねていた。
 また、天保の三大家(俳諧)の一人である田川鳳朗が一八三五(天保六)年の夏、九州からの帰途、伊予に来遊した際には、同年閏七月蓼村宅にも立ち寄り、地方の俳人たちと連句の会や会談を催している。また、桜井梅室門下の大原其戎とも交友があって連句を作ったりした。郡中やその近辺を詠んだ句も多く、その氏神である伊豫稲荷神社には、奉納額が掲げられている。
 蓼村は旅を好み、各地を旅行した時の句作も多く、特に天保六年京阪方面を旅したときに作った「漂泊記」のようなすぐれた俳文もある。
 一八六三(文久三)年六月二二日、七〇歳で没した。墓は灘町栄養寺にある。

  中 村 里 吉
 地域興しに果敢に活躍した人
 一九一〇 ― 一九五八(明治四三 ― 昭和三三)年
 一九一〇(明治四三)年四月一七日、南山崎村上唐川に生まれた。青年のころから農業経営に従事し、果樹の栽培に情熱を注いだが、特に唐川びわとわせみかんの栽培については造詣が深く、また販売面についてもよく研究してその発展に力を尽くした。また戦後には、郡中共選の発展にも寄与した。
 砥の谷国有林一〇〇町歩の総合開発には、幾度かの苦難にもめげず家運を傾けてこれと取り組んだ。すなわち、開拓と道路開通を主目的とした開墾者組合の長として、樟樹早期皆伐、二工場存置などの処理に尽くした。そのためには多くの困難が伴ったが、万難を排して努力を傾けてこれを推進し、ついに開通させることができた。
 また、南山崎村農業委員として農政に寄与するとともに、同村教育委員として教育行政にも協力し、唐川小学校及び伊予農業高等学校の改築・施設の充実を図るなどの業績を残した。そのほか、同村村会議員・伊予市市会議員を歴任し、道路行政・農村電話の新設など、地方行政に尽くした功績は大きい。
 昭和三三年一二月没した。四九歳の働き盛りであった。唐川小学校校庭には、その功績をたたえて頌徳碑が建てられている。

  奈 田 久良吉
 郷土実業界で活躍
 一八六八 ― 一九二四(明治元 ― 大正一三)年
 一八六八(明治元)年一月一三日、父川田勇の次男として灘町に生まれた。幼いころから勉強が好きで、小学校卒業後は、町の学者を師として勉学し、明治一九年には松山、ついで大阪に出て数学や法律学の研究に励んだ。
 翌年帰郷し、下浮穴郡宮内村(現砥部町)役場へ就職して、教育・衛生・勧業と広い分野にわたって積極的に活動して実績をあげた。
 明治二三年、愛媛大林区署判任官採用試験に応募して合格、区署在勤を命ぜられた。以後、高松・徳島などの各林区へ出張した。更に昇進して、林産物会計官吏に任ぜられ、同二四年判任官五等に叙せられ、その地位を確立した。
 明治二六年には伯父奈田孫八の養子となり、家業の酒造業兼醤油製造業を受け継ぎ、その発展を図りながら、各方面にわたって多彩な活動を開始した。
 また赤十字事業にも協力その他郡中慈恵院院長や衛生組合長にも任ぜられ、県知事その他から賞を受けた。
 政治活動では、自由党に籍を置き、伊予郡自由会社交倶楽部の創立委員として活躍し、支部常議員に任ぜられた。やがて憲政党に移り、伊予郡部会常務幹事として党のために尽力、明治三二年九月の県会議員改選にあたり、憲政党から打って出て県会議員に当選した。
 実業界でも活躍、明治二八年六郡一市織物共進会が松山で開催された際は委員及び審査員、同年、清酒醤油業連合会本部理事、明治三二年には伊予郡酒造組合長に就任した。伊予鉄道監査役、伊予織物会社取締役にも任ぜられた。
 大正一三年五月一日没した。

  日 野 吉五郎
 郷土開発と発展に尽くした人
 一八三〇 ― 一八九六(天保元 ― 明治二九)年
 一八三〇(天保元)年七月九日、下三谷村に生まれた。性格は豪気不屈で、世にへつらわない風があり、断髪令が出されても、終生まげを切らなかったという。
 学問が好きで、少年のころには寺子屋に通って学業に励み、長じてから郡中灘町に出て働いていたが、二〇歳のとき帰村した。村に帰ってからは、農業を営むかたわら、公事にたずさわって地方開発に尽くした。
 役場の収税係としては、村民に納税観念をうえつけることに努めて、大い功績をあげた。土木工事の面においては、当時下三谷地域は従来用水地として岩崎池が造られていたが、耕地が広いため、干天の際には用水に欠乏して植え付け不能となる場合が多かった。
 そこで目を付けたのは、富田池の拡張工事であった。この工事が始まると二か年の間、寝食を忘れて工事に没頭し、ついに富田池の拡張を成し遂げた。それがため付近の耕地は、その後用水についての心配がなくなり、約六〇~七〇町歩の田地がその恩恵に浴する事になった。
 また、一八八七(明治二〇)年、湊町外二か村連合会議員となった際には、たびたびのはんらんで人々を悩ました八反地川の治水工事として、阿部倍太良その他地方民の協力により堤防を築造した。

  日 野 政 吉
 郷土の産業及び交通の開発に尽力
 一八三二 ― 一九〇一(天保三―明治三四)年
 一八三二(天保三)年一二月一二日、下三谷村に生まれた。一八九七(明治三〇)年ころ眼病を煩い、谷上山宝珠寺に病気平ゆを祈り、その心願成就のため谷上山登山道の建設を志した。
 当時、氏は既に六〇歳を過ぎていたが、あらゆる難関に屈しないでこれに当たり、更に谷上山信者の協力を得て上吾川吾水池水口からの道を切り開いた。やがて下三谷、上吾川、下吾川地区の人々もこれに協力し、毎年、年中行事として道作り人夫が出されるようになった。完成した道路は、産業の発展と観光に、また谷上山本堂の資材運びに多大の貢献をした。
 また、一八九八(明治三一)年には大谷池横の大谷七折線新道も氏が発起人となって呼びかけ、伊予郡下の関係各町村からの寄付金や夫役寄付によって完成し、産業及び交通の面で郷土のために力を尽くした。
 一九〇一(明治三四)年九月一六日、六九歳で没した。

  日 野 開三郎
 研究に徹した偉大な東洋史学者
 一九〇八 ― 一九八九(明治四一 ― 平成元)年
 一九〇八(明治四一)年五月一一日、郡中村下吾川に、父日野幾次・母ツヤの次男として生まれた。松本尋常高等小学校へ入学、卒業後松山中学校へ進学した。四年生から松山高等学校へ飛び級入学して、中国哲学の今村完道教授に私淑し、東洋史に興味を持った。
 高校卒業後、東京帝国大学文学部東洋史学科に進み、翌年同級生と東洋史同好会を結成してともに研究に励んだ。東大を卒業して、東京府立第九中学校教諭、三年後九州大学に栄転した。
 昭和一四年三月、九州帝国大学助教授となった。昭和一六年、太平洋戦争開始後は学園は多事となり、在郷軍人班長、その他七、八の長を集中的に命ぜられ、研究が思うようにできなかったという。
 昭和一九年に北支に出張したが、大陸の治安は悪く不安を抱いて帰国した。終戦後の昭和二一年三九歳の若さで教授に発令された。昭和二四年西日本史学会を結成し、初代委員長となった。昭和三三年『小高句麗』の研究で文学博士。昭和四六年西日本学術文化賞を受賞した。翌年定年退職し名誉教授となった。同年久留米大学商学部教授に就任した。
 昭和四八年、『唐代邸店の研究』で学士院賞受賞。久留米大学を異例の延長で定年七〇歳まで勤め、昭和五四年退職。同年勲二等を授けられた。
 昭和六〇年までの発表論文は約一七〇余で、著書六冊と、多年の研究成果は偉大であった。この学績をまとめた『日野開三郎論集』全二〇巻の膨大な書が、後世に残された。既刊の論集一三冊を伊予市の後輩たちへのプレゼントとして、伊予市立図書館へ寄贈している。平成元年九月二九日、八一歳で没した。

  福 井 倉 吉
 果樹園芸の発展に貢献
 一八七四 ― 一九一二(明治七 ― 明治四五)年
 一八七四(明治七)年一月一日、大平村武領に福井菊衛の長男として生まれた。長じて農業に従事していたが、やがて新果樹栽培を志し、明治三五~三六年ころ佐川与市・吉沢兼太郎らとともに梨・りんご・ネーブルを導入した。
 氏は武領の墓地山(鳥屋が社)数反歩を開墾して、梨三〇〇本を植え付けた。その品種は大長十郎、早生赤金龍であった。また、りんご中成子一〇〇本、ネーブル五〇本を植え付けたが、その当時の苗木代は一本一〇銭程度であった。しかし、折角栽培したこれらの苗木も、武領では梨のふらん病・りんごの綿虫などの被害にあって失敗に終わった。
 一九〇四(明治三七)年〝果樹園芸は高等農業〟と自負して同志とともに熱心に研究し、一九一〇(明治四三)年二月に設立せられた園芸研究会の副会長として、会の組織と活動に尽力するなど、郷土の果樹園芸の発展に貢献した。氏は佐川与市らとともに、南山崎村における果樹園芸の先覚者の一人である。
 一九一二(明治四五)年一月二六日、三九歳で没した。

  藤谷 嘉之寿計
 果樹園芸の普及発展に貢献
 一八六七 ― 一九四九(慶応三 ― 昭和二四)年
 一八六七(慶応三)年六月二〇日、稲荷村に生まれた。人となり着実勤勉で事物に通じ、事に処するに明敏であった。
 しばしば大字の総代をつとめ、また村民の信頼を受けて村会議員となり村政に寄与した。特に、明治二七、八年の干ばつに際して水不足を解消するため、村民に呼びかけて笠谷池の増築を行って干害を防いだ。これがため、稲荷二五〇余アールの水田は日照りの害を免れるようになった。
 後には、伊予果物同業組合の評議員として果樹園芸の普及、発展に貢献した。特に村の耕地面積が狭小なのでこれを補うため、開墾した山の斜面や山すそを利用して梨を作ることを考え、一九〇五(明治三八)年ころ、久米村から梨の木を持ち帰り自ら率先して栽培し、また村人にも勧めた。この間、梨の樹の良種選択のためほとんど寝食を忘れて東奔西走してこれに当たった。
 やがて栽培に成功し、梨か多く取れるようになった。これを見て村民は次々と梨の栽培を始め、山々にも梨畑が見られるようになった。その後、産額は増し、阪神や北九州方面へ盛んに出荷されて農家の暮らし向きもよくなり、村の経済も豊かになっていった。
 昭和二四年二月二五日、八二歳で没した。

  藤 谷 庸 夫
 教育者 画家
 一八九六 ― 一九六二(明治二九 ― 昭和三七)年
 一八九六(明治二九)年三月七日、北山崎村稲荷に藤谷嘉之寿計の長男として生まれた。一九一六(大正五)年愛媛県師範学校を卒業後、南伊予村伊予小学校に奉職した。一九一九(大正八)年塩月桃甫の勧めによって東京美術学校に入学、同一一年同校を卒業した。
 その後、佐賀県三養基中学に勤務し中等教育に従事した。昭和一三年に母校愛媛県師範学校に帰り美術教育に専心するとともに、生徒の訓育面にも力を注いだ。戦後引き続いて愛媛大学教授として多くの学生を教育し、そのなかより幾多の人材が輩出した。
 その間、県美術界の育成にも尽力し、その発展に貢献した。情熱家で親切な人柄、生徒の個性をよくとらえその伸長を図った。昭和三〇年県教育文化賞を受けた。なお、県美術界に多大の功績を残し、その功労をたたえるために、特に県展の洋画部門に〝藤谷賞〟を設けている。
 昭和三七年一一月二五日、六七歳で没した。

  藤 谷 隆太郎
 情熱と実践力に富んだ指導者
 一八九八 ― 一九六三(明治三一 ― 昭和三八)年
 一八九八(明治三一)年九月二五日、北山崎村稲荷に藤谷喜之寿計の二男として生まれた。大正七年松山農業学校を卒業後同校助手、更に喜多郡出海村で農会及び養蚕組合技術員として数年間勤めた後、一九二一(大正一〇)年帰郷して北山崎村農会技術員・同村青年団長、更に同村青年指導員として青年教育の指導に当たった。
 一九二五(大正一四)年一〇月、伊予郡農会技手並びに伊予郡連合青年団長となり、農会の振興及び青年団の育成と教育を行った、昭和一五年一一月、大政翼賛会愛媛県支部組織部長、実践部長となり、同一七年に大政翼賛会愛媛県本部長、更に翌一八年には食糧増産隊愛媛県隊長に就任した。
 戦後は愛媛県農業協同組合中央会会長など農業団体の要職を歴任した。氏は頭脳明晰、豪放闊達、名利に淡白で熱情と実践力に富み、その一生を県下各地の青壮年の指導と農業振興及び農業団体活動の推進にささげた。
 郷里、稲荷神社境内には氏の胸像が建てられている。
 昭和三八年一〇月九日、六六歳で没した。

  藤 谷 豊 城
 郡中港の大改修を行う
 一八五九 ― 一九三三(安政六 ― 昭和八)年
 一八五九(安政六)年六月二九日、大洲藩士稲葉六良右衛門の第三子として生まれた。長じて郡中藤谷家に入り婿してその家を継いだ。
 一八七八(明治一一)年二〇歳で町の議員に選ばれて以来、郡会議員、郡参事会員に推されるなど、長年にわたって町政、郡政に参与した。この間、郡中銀行・南予鉄道会社及び伊予汽船会社の設立など多くの仕事をして町のために尽くした。
 一九一一(明治四四)年町長となり、苦しい財政事情を克服して郡中港の大改修を実施し、埋立地の築造、波戸の新設、護岸工事などを行い、町民の安全と船舶の往来を容易にした。港は広くなり、埋立地には伊予陶器会社をはじめ多くの建物が立ち並び、ここに郡中港は従来に比べて面目を一新し町発展の礎を築いた。また、五色浜神社の建立を図り、港南の地に社殿を造営して町内各社を合祀して整備するなど、社会公共のために尽くした功績ははなはだ大きい。
 資性温良、長者の風格があり、困難な紛争もその調停によって解決することができた。なお、家業は酢の製造、販売をしていた。
 昭和八年六月二九日、七五歳で没した。その徳をたたえて住吉神社の社前に銅像が建てられている。

  藤 本 政 夫
 創造力豊かで洞察と勇断の人
 一八九五 ― 一九九一(明治二八 ― 平成三)年
 一九一五(大正四)年愛媛県師範学校卒業、郡中尋常高等小学校訓導となり、北山崎小学校を経て大正一四年三〇歳で、大平尋常高等小学校訓導兼校長となった。
 後、砥部・下灘・上灘第一小学校の校長を歴任し、昭和一三年郡中尋常高等小学校長、昭和二〇年郡中青年学校長、翌二一年終戦を機に依願退職。時に五一歳。教職にあること三一年であった。
 この間、大正デモクラシーを体験し、昭和一二年日中戦争に突入してからは戦時体制の強化で勝つための教育を実践した。昭和一六年太平洋戦争が勃発、郡中小学校は郡中旭国民学校となり、県下五校の研究校に指定され、「鍛練」という名にふさわしい非常時の教育に全力を傾けた。
 国民学校の研究指定校になってからは、たびたび研究会が持たれて参観者も多かった。そのときには、校長としてどの時間にどの教科に合わすと教員が生きるかを綿密に考えていたため、教員はいつも安泰だという気持ちをもつことができたという。
 戦後、北山崎村村長となり、伊予市に合併するまでの七年八か月余、合併後、伊予市議会議員として二期、その間において市議会議長を一年間務めた。
 昭和二一年南海地震による地盤沈下のため、井戸水に塩分が混じった地域に、県下ではじめて簡易水道を設置。海岸線の護岸工事により村民の不安解消、森紙業の誘致、保護士、県土地収用委員など永年にわたり、地方自治の育成発展に貢献した。
 これらの業績により、昭和四三年勲五等瑞宝章を受けた。平成三年没した。

  藤 井 未 萌
 医師で俳人『炎昼』『天狼』で活躍
 一九一二 ― 一九七八(大正元 ― 昭和五三)年
 一九一二(大正元)年七月三〇日、父林唯雄の三男として越智郡菊間村で誕生した。本名健三。昭和一〇年藤井正子と結婚し藤井姓を名乗った。同一二年日本大学医学部を卒業し、その後二三年伊予郡郡中町灘町藤井内科を継いだ。
 このころ、俳句を作り始めたが、当時郡中町では町の公会堂であった彩浜館施設に転用し、毎月一回ここを会場として「公民館句会」が開かれた。彼も、これに参加して活発な発言で注目された。
 昭和二四年、未萌と号し、谷野予志主宰の『炎昼』に所属、俳句の評論と実作にたゆまず精進努力した。昭和三〇年には抜擢されて編集の任に当たり、同人となった。
 昭和三七年、山口誓子主宰の『天狼』同人に推され、翌三八年には、愛媛新聞夕刊俳壇の選者となり、その年の七月『現代俳句の観照』を出版した。夕刊俳壇の選は四二年まで続けられた。
 未萌は、山口誓子俳句を現代俳句の粋と考え、研究に余念がなかった。特に天狼二百号記念大会(昭和四一年)には指名されて「誓子感動」を講演したり、俳句研究社の依頼を受けて「誓子俳句における方位論」を掲載した、その評論に深いものがある。
 「自分は長生きできないから」と一日を大切に生き抜き『現代俳句の観照続編』の原稿と句集『千年』の原稿と多くの弟子を残し、昭和五三年五月一〇日没した。
  金魚眠るいのち一途の去年今年
  枯れきって葦原のなほ何か期す

  星 野   通
 明治民法史学の先駆者
 一九〇〇 ― 一九七六(明治三三 ― 昭和五一)年
 一九〇〇(明治三三)年一〇月一日、父星野章太郎(神官・旧郡中町収入役)・母くらの長男として郡中町灘町に生まれた。松山中学校・松山高等学校を経て、大正一四年東京大学法学部独法科を卒業した。
 父親が没したため、母親の希望に沿って東大卒業と同時に郷里に帰り、創立間もない松山高等商業高校の教授となった。以後松山経専・松山商大を通じ法学、民法の講義を担当。昭和二三年、明治民法史の大著『明治民法編纂史研究』で法学博士の学位を得た。
 昭和三二年四月に学長に就任し、三八年一二月辞任するまで六年余在任して、大学キャンパスの拡充、図書館の建設、地域経済研究所の充実を図った。また、中小企業研究所を設立し、昭和三七年には従来の商経学部の単科大学を改組し、経済学部・経営学部の複合 大学に発展させるなどの業績をあげた。
 昭和四一年に定年退職、その後も嘱託教授を続け、松山高商の第一回卒業生から始まる教え子は一万人を超えた。
 昭和一三年初秋のある日、古本屋で見つけた民法草案が明治民法史学研究のきっかけとなったが、後年「学問の起源や動機はどこにころがっているかわからない」と述懐している。
 切手の収集家でもあり、将棋に趣味を持って銭湯の番台で誰かれとなくさすなど庶民性を持った温かい人柄であった。
 学術への貢献と教育振興に尽くした業績で愛媛新聞社賞、県功労賞を受賞した。長男陽も松山大学教授となり二代にわたって学者・教育者として活躍した。
 昭和五一年二月一〇日、七五歳で没した。

  槇   鹿 蔵
 江山焼の創始者
 一八六〇 ― 一九三六(万延元 ― 昭和一一)年
 一八六〇(万延元)年一一月一七日、上灘村河村家に生まれた。幼少のころから手先が器用で、その作品には大人も驚かされた。
 一二歳のとき、山口県萩へ行き其処で焼物の修業を重ね、一八歳のとき、一人前の陶工として帰郷した。やがて三島町の高橋陶器製造所の職長となり、暇々には楽焼の研究にも取り組むようになった。二一歳のとき、土佐へ行き、そこで職人として働き、二七歳になって帰国して、砥部で職人として働いた。このように各地を転々として腕をみがいていたが、後、郡中の槇家の養子となり元郡役所裏、殿町に一家を持ちこの所に居を定めた。
 このごろから楽焼に取り組み一九〇二(明治三五)年ごろからは熱心にその業に精励した。やがて素朴雅致に富んだ味わいのある作品は人々に賞讃されるようになって、しばしば皇室のお買上げ品にもなり、また、一九〇九(明治四二)年には伊藤博文が郡中彩浜館に来遊した際、庭焼を行ったりした。その勝れた作品(茶器・花器・人形など)によって名声は四方に広まった。また、共進会・展覧会などの出品も少なくなかった。その交際範囲は広く、各地から訪れる人も多く多忙であった。
 なお、〝江山焼〟の名称は土佐の政治家林有造が名付けたものである。人となり無欲で、金銭にこだわらない性格でその逸話も少なくない。
 昭和一一年一〇月、七七歳で没した。

  水 木 要太郎
 文化財の価値を自覚させた恩人
 一八六五 ― 一九三八(慶応元 ― 昭和一三)年
 一八六五(慶応元)年一月一七日、水木金十郎の子として宮下村に生まれた。幼少のころ、書道を武知五友に、また、漢学を鶴吉村の相原賢について学んだ。一八八三(明治一六)年七月、松山中学校を終え正岡子規らと上京し、東京高等師範学校に学び史学を専攻した。一八八七(明治二〇)年七月、同校を卒業後教員生活にはいり、三重県及び奈良県下の学校を歴任、郡山中学校を経て、一九〇九(明治四二)年四月、奈良女子高等師範学校教授となった。
 更に、一九一五(大正四)年帝室博物館学芸委員となり、続いて同八年一〇月には、史蹟名勝天然記念物調査会考査員となるなど、史学界に多大の貢献をした。特に天平文化の権威者であり、書面骨董の鑑識にも長じていた。
 昭和二年退職、その後同校講師、鉄道省などの嘱託となり歴史学を講じた。十五堂と号したが、このほかにも生家の近くにある茶臼山の名に因んで茶丘などとも号していた。
 昭和一三年六月一日没した。享年七四歳であった。

  宮内九右衛門・清兵衛
 伊予市灘町の創始者
 生没年不詳
 宮内九右衛門及びその弟清兵衛は、灘町の創始者である。父は宮内庄右衛門正信(元和五年八月没)と言い、風早郡宮内に住し、後上灘に移ったと言われている。
 一六三六(寛永一三)年の春、兄弟は上灘村より米湊村戦場が原(牛飼原)に移住し、藩の許可を受け、荒地を開拓して民家を建て、次第に町並みを整えていった。また、兄弟及びその親族ともどもよく協力し合い、その私財をなげうって町の発展に尽くし、町作りのために種々献身的な努力を続けた。
 やがて、大洲藩主からもその働きを賞されて、ここを諸役御免の地とされた。町名は上灘より移住したので灘町とし、屋号を灘屋と名付けた。
 両名の墓は灘町栄養寺にある。

  宮 内 弥一郎
 維新改革の中で村政に貢献した人
 一八四四 ― 一九〇〇(弘化元 ― 明治三三)年
 一八四四(弘化元)年五月五日、下三谷村に生まれた。生まれつき温厚で利発、のちに南黒田村鷲野南村について漢籍を修めた。一八六四(元治元)年二一歳で庄屋職を受け継ぎ、徳望が高かった。一八七三(明治六)年二月、新政改革に伴い庄屋職を辞した。以来、あるいは公職に奉じ、あるいは名誉職に当選するなど、終身公共のために尽力して功労顕著であった。一九〇〇(明治三三)年三月五日病のため没した。享年五七歳。公職名を列挙すると、次のとおりである。
 一、元治元年五月祖父小右衛門より家事諸帳簿一切引き受く
 一、明治六年二月里長免役仰付らる
 一、明治六年四月三日第一九大区四小区の副戸長代理拝命、次いで副戸長申付けらる
 一、明治七年五月二四日第八区第九小区戸長拝命する
 一、明治七年一二月依願により戸長差し免さる
 一、明治八年一〇月一日第一五大区一〇小区戸長補助拝命する
 一、明治九年六月二八日第一五大区一〇小区戸長免じ、補助免職、同日戸長拝命する
 一、明治一〇年六月一一日依願戸長差し免さる
 一、明治一二年二月五日下三谷村戸長申付らる
 一、明治一二年二月一七日依願戸長差し免さる
 一、明治一三年二月六日下三谷村戸長申付らる
 一、明治一三年六月依願戸長差し免さる
 一、明治二三年一月五日本村会議員に当選する
 一、明治三三年三月五日死亡する

  宮 内   長
 郷土産業界に貢献した政治家
 一八七〇 ― 一九四六(明治三 ― 昭和二一)年
 一八七〇(明治三)年一〇月二六日、松山に生まれた。のち、伊予郡下三谷村宮内家の養子となった。一九〇七(明治四〇)年二月から一九一四(大正三)年四月まで南伊予村村長を務めた。この間、幾多の辛苦を重ねて同村産業組合の設立に尽力した。
 一九〇九(明治四二)年の夏から玉井和三市・武智惣五郎らとともに信用組合の設置勧誘に着手し、村民を説得し、奮発精励、自ら村吏とともにこれの勧誘に努め、一九一〇(明治四三)年三月一〇日数多くの障害を排して本組合を創立した。そして農村の事業家に資金を供給し、兼ねて貯金の便宜さを村民に納得させることになった。
 一九二三(大正一二)年県会議員となって県政にも寄与し、伊予郡畜産組合長・農会会長などの要職について地方の産業界にも貢献した。
 昭和二年九月二四日、五八歳で没した。

  宮 内 治三郎
 地域発展に貢献した実業家・政治家
 一八五七 ― 一九〇六(安政四 ― 明治三九)年
 一八五九(安政四)年郡中灘町に生まれ、長じて実業家及び政治家として活躍した。一八八二(明治一五)年ころ、海南新聞社設立発起人としてその設立に努め、明治一八年には国道開さく委員に委嘱されて道路開発に力を尽くした。また、町の有志と図って一八八六(明治一九)年に郡中銀行を設立し、後頭取となって当地方の金融界に活躍した。更に一八九四(明治二七)年南予鉄道会社を設けて南予鉄道の開通に尽力し、自ら専務取締役として会社の経営に当たった。
 一八九六(明治二九)年、肱川汽船会社を誘致して伊予汽船会社を設立するなど、実業界に多大の貢献をするとともに、県会議員(明治二一~二七)年として県政界に、更に一八九四(明治二七)年からは衆議院議員として国政にも参与するなど、社会に尽くした功績は大きかった。
 一九〇六(明治三九)年二月一三日、五〇歳で没した。

  宮 内 惣 衛
 灘町の発展に貢献した人
 一八一一 ― 一八八九(文化八 ― 明治二二)年
 一八一一(文化八)年一二月一五日灘町に生まれた。温厚篤実な性格であり、常に質素倹約を旨としてよく家運の衰えを回復し再興した。
 当時、灘町には町債があったが、これを償却するために自ら町老となって、不要な旧来の慣行を廃し、その費用をもってこれに当て、更にその後は積立金として利殖することとし、これを町内の者に限って貸し与えるなど、剛毅果断なところもあった。
 明治維新後は、郡中貯えから積み立て米を分離して、これを前の積み立て金と合わして取り扱うように尽力した。これを義倉と言ったが、後に通否社と改めた。明治時代中期に創立された郡中銀行は、この通否社をもとにして企てられたものである。
 後年、町老を辞してからも港のために富くじを企てたり、あるいは頼母子講を起こしたりして終身社会のために貢献した。
 一八八九(明治二二)年一〇月一五日、八〇歳で没した。

  宮 内   彌
 戦後地方自治に貢献した人
 一九〇三 ― 一九八六(明治三六 ― 昭和六一)年
 一九〇三(明治三六)年七月二〇日、伊予郡南伊予村下三谷(現伊予市)の旧家、宮内家の次男として生まれた。父宮内長は、産業組合長・県会議員として、郷土の発展に貢献した。
 温厚篤実で向学心が強く、松山中学校から松山高等学校を経て、昭和三年九州帝国大学法文科を卒業した。卒業後、内務省に入り、東京府内務部地方課・佐賀県及び秋田県警察部、内務省文書課へと歴任し、昭和一四年まで一二年間内務省官僚として勤務した。
 やがて日中戦争が始まり、昭和一五年に満州関東庁に出向し、昭和二〇年の終戦まで勤務した。昭和二一年引き揚げて、原爆で被災した広島で民生部長・経済部長として公職に就いていたが、翌二二年七月愛媛県初代副知事に迎えられた。
 その後、県政に尽力したが、昭和二六年事情により職を辞することになった。翌年上京して都道府県会館で全国知事会事務局長・自治省審議委員として、地方行政と中央政府を結ぶ要職に就いた。
 以後昭和四五年まで勤め六六歳で引退した。退職後の昭和五二年その業績をたたえ、勲二等瑞宝章を受章された。
 特に、戦後の混乱期の中で地方と中央の行政機関のかなめとなって、誠実に地方自治に尽力、貢献したその功績は大きい。
 余生は趣味の謡曲、俳句、旅行などで過ごしたが、持病が高じて昭和六一年四月二八日、八二歳で没した。

  宮 内 角 丸
 郡中地方俳壇の実力者
 一八二三 ― 一八九六(文政六 ― 明治二九)年
 一八二三(文政六)年五月一五日、郡中湊町向井治平の長男として誕生した。本名與八郎。文政一〇年七月一五日、灘町の開拓者宮内清兵衛を祖とする分家の二代宮内與三郎の養子となり、三代をいだ。
 仲田蓼村に師事して俳諧に精進し、次第にその力量を高めていった。
 一八六〇(万延元)年八月三津浜の俳人大原其戎は、『あら球集』二巻を出版したが、郡中地区からは二一人・六〇句が載せられており、その中には、角丸の句も含まれている。なお『あら珠集』には、上野村・稲荷村・三谷村・大平村からも出句があり、俳諧への情熱がうかがえる。
 彼は明治五年京都より帰臥した淡節に学んだと思われ、その実弟二人(青芳・枝丈)もまた行動を共にした。因みに、淡節は京都の桜井梅室宗匠の養子となった俳人で、「花の本脇宗匠」にまで進んだ俳諧の指導者であった。
 宮内家からは、初代與三左衛門(渭江)、三代與八郎(角丸)、六代好一郎(甲一路)と、文学的才能に恵まれ、俳諧・俳句に情熱を傾け、その実作と普及に力を尽くし、地方俳壇の指導者として活躍した俳人が多く出ている。
 角丸は、松前町出作の弓立木長とともに、蓼村を撰者として「薫声三十六英」を採録した。また大原其戎との関係を深め、一八八〇(明治一三)年に発行した明栄社の月刊紙「真砂の志良辺」にも多くの作品が見られる。
 明治二〇年 初空は澄むやいづくの果までも
 明治二九年四月五日、七四歳で没した。

  宮 内 木 きゅう(むしへんにイン)
 郡中俳壇を代表した俳人で町発展の功労者
 一八四〇 ― 一九一五(天保一一 ― 大正四)年
 藩政時代牛飼原を開いた宮内兄弟の兄九右衛門の名を襲名し、一〇代目小三郎を継いだ。実名昌信。父小平太・母夕力の長男として、一八四〇(天保一一)年に生まれた。学問は、伊予郡南黒田村(現松前町)の庄屋で、漢学者・教育者であった鷲野南村に学んだ。
 当時松山地方の俳界は、松山俳壇の指導者であった栗田樗堂の没後で、梅室・蒼きゅう・鳳朗などの有名俳人が郡中地方へも来遊した。木きゅうの師は花木欣舎で、幕末から明治へかけ、京都俳壇の権威者であった。
 木きゅうが有名になったのは、明治一四年後に郡中町長になった豊川渉とともに武知五友が提唱した「郡中八景」を題として作句を試みた。すなわち、南山積雪・米湊鳴蛙・谷上午鐘・稲荷翠嵐・紫海夕照・萬安夜泊・港浦漁戸・住吉松雨について、月並的でなく情緒豊かな作品(俳句)であった。
 明治二六年一月、木きゅうの長男寿一郎がその英才を期待されながら、わずか一七歳で亡くなった。同家にはこの永眠を悼んだ一枚刷りが残されていて、これに来賛した人々から、木きゅうの交流の幅の広さと、弔慰の情を表現した文学作品を味わうことができる。その中の木きゅうの作
  雪ふかく呼へとこたへぬ別かな          木きゅう
 木きゅうは単なる俳人でなく、郡中灘町に明治初年開校の山崎小学校へ多額の寄付、郡中郵便局の創業時代その基礎づくりに参画、彩浜館の建設、伊予汽船の誘致、伊予商業銀行の創立など郷土発展への功績も大きい。
 余生は一切の公職を辞し、灘町に住み、俳句・謡曲・魚釣りなどをたしなんだ。大正四年七六歳で没した。

  宮 内 甲一路
 教育・文化に貢献した俳人
 一九一〇 ― 一九九二(明治四三 ― 平成四)年
 宮内甲一路の祖先は、現在、伊予市の中心街である灘町開拓の功労者宮内清兵衛である。甲一路から五代前の謂江(與三左衛門)と三代前の角丸(與八郎)は、その時代にこの地方の有力な俳人であった。父徳太郎・母キヌの長男として一九一〇(明治四三)年に生まれた。名は好一郎。松山商業高校卒業後、父の家業陶器商に従事した。
 幼いころから文学の才があったが、昭和六年に先輩篠崎活東に誘われて、飯田蛇笏主宰の『雲母』に投句すると同時に、地方俳誌『松山』や『糸瓜』にも、花丘の俳号で句を投じて俳句に情熱を傾け、実力を鍛えた。
 戦後の昭和二二年、市内彩浜館に置かれた郡中町公民館を会場として、公民館句会が始まり、復員した花丘も、甲一路と俳号を改めてこれに参加した。やがて『雲母』での躍進が認められて同人となり、活東の句会の代表者となって会活動を推進した。
 地方教育委員会の発足の際は推されて郡中町の教育委員となり、引き続いて伊予市教育委員として、昭和四八年までのうち数年間は、伊予市教育委員長として市教育の発展に寄与した。後その功績を認められて、文部大臣から表彰された。
 昭和五八年、市文化協会設立の際は、文芸部門長に就任し俳句部長を兼任した。平成四年急病により、八三歳で没した。蛇笏の子竜太は、葬儀に当たり「二代に渡る反映を顧み、感慨無量です。誠実一路のご生涯に今はただ感銘を深めるのみ」と弔電を寄せられた。
 自信句に
  白菊のまつはる闇に冴ゆるのみ
  中秋の己が影踏む酔歩かな
  内港まで満潮の紺今朝の冬

  宮 西 通 可
 謎の「不知火」を解明した科学者
 一八九二 ― 一九六二(明治二五―昭和三七)年
 一八九二(明治二五)年一二月一五日、郡中村米湊西野の旧家に生まれた。郡中村立松本小学校を経て松山中学校へ入学し、更に愛媛県師範学校から広島高等師範学校理科へ進学した。一九一九(大正八)年同校卒業後、京都大学理学部へ入学、一九二四(大正一三)年三月、同校卒業、同年九月京都大学理学部副手となり、一九二七(昭和二)年には理化学研究所から研究を嘱託されて、それに専念した。
 一九二九(昭和四)年には京都大学理学部講師となった。同年八月には、「電気火花中におけるストリーマーの性質」についての研究論文によって京都大学より理学博士の学位を授与された。
 熊本高等工業学校の教授時代、八代海(及び有明海)の不知火の研究に取り組み、一九三六(昭和一一)年には、古くよりその原因が不明とされていた〝不知火〟の現象が科学的に研究され、それが光の異常な屈折現象であることが氏の手によって解明された。更に、この現象を分類して親火、盛火、離合火、流火、飛火などと名付けられた。
 氏は、このように分光光学の権威者であり、前述の研究外にも、「炭水化物の低温燃焼の分光的研究」「炭水化物燃焼に対する鉛壁の作用」などのすぐれた研究がある。
 一九三八(昭和一三)年には熊本高等工業学校から広島高等工業学校に転任、同校教授となった。そして、一九四〇(昭和一五)年には「不知火について」の研究に対して福岡日日新聞文化賞を、更に翌一九四一(昭和一六)年には、「不知火の神秘性についての研究」によって日本学術協会学術賞を授与されるなど、その学問上の功績は大きい。戦後の一九五一(昭和二六)年には広島大学工学部教授となり、一九五六(昭和三一)年には同校を定年退職した。その後、エリザベト音楽短斯大学教授・近畿大学工学部教授として多くの学生を育成した。
 昭和三七年四月四日、七〇歳で没した。

  明 関 友 市
 花かつを製造創業者の一人
 一八八三 ― 一九五六(明治一六 ― 昭和三一)年
 一八八三(明治一六)年七月五日、本郡村に、父伊平・母クラの次男として生まれた。成人し畳商として一家を構え、妻ナツヨを迎えた。結婚を期に妻の縁戚を頼って渡満し、畳商を開業、大正二年長女チヨエが誕生した。その後、末弟道太郎に畳商を譲り、三〇歳のときに帰国した。
 当時郡中村米湊、現マルトモ株式会社の場所で長兄和三郎が海産物商を営んでいたが、これを帰国した友市に譲った。これがマルトモ株式会社の起源である。
 一九一八(大正七)年一一月煮干を売りながら、削機械三台で削節業を始めた。そのとき販路を県内のほか、国内は勿論遠く満州にまで延ばした。削機械は手動式・足踏み式からやっと動力化したが、生産能力は現在とは比較にならない位少量であった。友市はよく働き、人の面倒を見、人々に慕われた。
 昭和四年企業経営状態が不況で困難になり、個人企業から明関合名会社に改組した。昭和六年満州事変勃発以来苦難の時代が続いたが、大阪中央市場と業務提携していたことが幸いして、この苦しい時代を切り抜けた。
 当時、原料の仕入れ・荷送りともに郡中港(現伊予港)を利用していたので、昭和一四年には海洋丸(八〇トン)、同二五年には海光丸(一五〇トン)を建造した。また、同二〇年八月南宇和郡深浦で漁獲網を取得、販売面では同二四年東京支部開設、長崎駐在所開設と着々と成果を上げたが、昭和三一年四月一日、周囲の人々に惜しまれながら七四歳で没した。その後、会社は和雄に引き継がれ、現在東京支店、ロサンゼルスなど国内外に四七拠点を持つまでに発展した。

  向 井 利一郎
 消防活動と郡中農協の再建に尽力
 一八八六 ― 一九六五(明治一九 ― 昭和四〇)年
 一八八六(明治一九)年一一月三〇日、下吾川村に生まれた。一九一五(大正四)年八月、郡中村消防組頭となってから、消防精神の普及と防火思想の向上に尽力し、昭和六年一二月には大日本消防協会から、全国優良消防組として表彰された。
 その後も、引き続いて消防施設の改善や組員の育成に努め、幾多の火災や水難には常に出動してその救済に当たり、郷党の信望を集めた。
 こうして、昭和二一年一二月消防界を退職するまで、三四年の長い間消防のために貢献した。また、一九二五(大正一四)年郡中村助役となり、更に昭和一九年には郡中町助役として地方行政のためにも貢献するところが大きかった。この間、昭和四年五二銀行に入り、五二銀行郡中支店長代理として金融界にも力を注いだ。
 戦後、昭和二六年郡中農協再建整備委員長として同農協再建のために全力を傾け、専務理事となり、更に同三四年には組合長に就任した。こうして郡中農協は氏の人格と識見、手腕により遂に再建の道が開かれ、やがて同農協は県下の優秀農協となった。
 人となりは温厚篤実で明敏、常に円満主義を信条として人に接した。昭和四〇年七月一五日、七九歳で没した。同四六年五月には、その徳をたたえて頌徳碑が建立された。

  森 田 雷死久
 僧侶・俳人・伊予果物同業組合専務理事
 一八七二 ― 一九一四(明治五 ― 大正三)年
 一八七二(明治五)年一月二六日、伊予郡西高柳村(現松前町)に、父善兵衛の二男として生まれた。本名は愛五郎。一一歳で谷上山宝珠寺小僧となった。長じて京都本山の学林に学び、真言宗智山派の権田雷斧について修業し、小僧都に任ぜられた。明治二八年、業成り帰山の後、伊予郡南山崎村上唐川の唐川山真成寺の住職となった。僧名は貫了。同三二年、唐川尋常小学校の教員となったが、翌年退職した。
 明治二八年ころから俳句を始め、同三二年ころ唐川矯風会・唐川上楽社と二つの俳句会をつくって、地域の人々を指導した。これら唐川の俳人たちの句を見ると、頭で作った月並句でなくて、子供の唱えた写生句となっている。
 明治三三年『ほととぎす』に投句、一〇月四点句に入選した。同三四年に海南新聞俳壇の選者となり、また松風会復興俳句大会を主導したりした。明治三六年還俗して唐川を去るとき、真成寺の書院に「行く春を花に佐きにけり蕗の薹」という帰俗の句を書き残した。
 後この寺が廃寺になる際に、下唐川の兼岡久一の努力により、大工の城戸鶴夫が切り取って額に収め、現在伊予市中央公民館に、保存されている。
 明治三八年、松山市潮見町平田にある宝珠院常福寺に入り、第四世の法灯を継いだ。このころ、梨の栽培に専念し、園芸家としての実績をあげた。大正二年松山・伊予・温泉の一市二郡の同業者で伊予果物同業組合を組織した。
 明治四二年ころ河東碧梧桐を知り、翌四三年荏原村(現松山市)での碧梧桐の俳夏行に通い、新傾向俳句に進むようになった。
 大正三年六月八日、四二歳で没した。

  山 田   穣
 九大学長・炭鉱研究の権威
 一八九七 ― 一九八五(明治三〇 ― 昭和六〇)年
 一八九七(明治三〇)年一二月二七日、郡中村下吾川に生まれた。父が住友社員であった関係で、新居浜の住友小学校から松山中学校へ入学した。
 大正四年三月松山中学を卒業、第五高等学校を経て九州帝国大学工学部に進んだ。大学では採鉱学を専攻、研究のかたわら、科学者らしい空想をめぐらし広大な自然を愛した。
 大正一一年九大卒業、直ちに築豊炭田に入り、二年間現場体験をした後、九大に帰り助教授になった。そのころから炭鉱爆発があると直ぐ現地に飛び、ひまさえあれば鉱山を見て歩き、九大内に考案したガス爆発の実験装置で実験を続け、そのデータは学会や鉱山保安監督局、現場などの貴重な指針となった。
 昭和一四年、「ガス爆発の研究」で工学博士となり、同年教授。同二六年には生産科学研究所長、同年工学部長。昭和二八年~三六年九州大学学長を務めた。
 昭和三八年一一月、三井三池炭鉱三川鉱で大規模なガス爆発が発生した。九大名誉教授山田穣は、政府から技術調査団長として任命され原因究明に当たり、困難を克服して原因を調査し、その後の炭鉱保安措置に貢献した。
 ユーモアと明るい人柄で、ヒューマニスト。西鉄ライオンズの後援会長にもなった。定年後は、九州炭鉱技術連盟会長や九州産業大学学長に就任した。
 著書に『保安ハンドブック』、『防爆対策』などがあり、炭鉱業者に広く読まれた。長年の業績により、勲一等瑞宝章を受章した。
 昭和六〇年一二月四日、八八歳で没した。

  山 本 親 雄
 日本海軍の知将(少将)
 一八九六 ― 一九八〇(明治二九 ― 昭和五五)年
 一八九六(明治二九)年一〇月一三日、父西野本三郎・母西野ムメの次男として、喜多郡新谷で生まれた。西野姓であったが、早く父を亡くし母の郷里郡中町で生育した。
 明治四三年郡中小学校を終えて、松山中学校に入学した。大正元年、同町灘町の山本家を継ぐことになり、西野姓を山本姓に改めた。大正四年松山中学校を卒業し、同年海軍兵学校に入学した。兵学校では知育・体育ともに優れ、当時の学校長に激賞されたと言われている。更に水雷学校、砲術学校、霞ヶ浦航空学校に学んだ。
 大正一三年から三年間、アメリカ大使館付武官補佐官としてワシントンに着任した。帰国後、昭和四年少佐に任官、同七年の一一月に海軍大学を首席で卒業し恩賜の長剣を貰った。
 彼が中佐のとき、第一航空戦隊の参謀となった。昭和一一年には空母「鳳翔」や「龍驤」に乗り、一年後には大本営海軍参謀、作戦主任及び軍備計画主任として作戦に参画した。昭和一四年の末に海軍大佐に昇進、第一航空隊司令として中国に出征した。
 太平洋戦争中、ガダルカナル戦での敗色濃厚な昭和一八年初期、軍令部第一課長に就任数多の作戦指導を行ったが、必ずしも意見が入れられず、東条英機参謀総長にも反対された。御前会議にも列席、天皇に戦況を説明した。昭和二〇年三月、第一〇航空艦隊参謀長、続いて五月には第七二航空隊司令官となり、鹿児島県鹿屋で終戦を迎えた。
 戦後商業に従事していたが、昭和三〇年ころ台湾に渡り、蒋介石総統の軍事顧問として約一〇年間当地に留まった。帰国後、戦史の著述に専念、『日本海軍航空史』を編さん中、昭和五五年一一月四日、八四歳で没した。

  吉 沢 兼太郎
 果樹栽培の先駆者
 一八八〇 ― 一九四七(明治一三 ― 昭和二二)年
 一八八〇(明治一三)年四月二三日、吉沢定五郎の三男として上唐川に生まれた。一九〇二(明治三五)年ころ同志とともに果樹園芸を志し、梨・りんご・ネーブルの栽培を行い、また、翌三六年には田中びわを初めて南山崎に導入し、その後、茂木種の苗木をも導入して熱心にその栽培に努めた。当時植え込んだ苗木は四~五年後には待望の結果をみたが、それが在来の唐川びわの二、三倍の大果であったため大評判となった。このようにして田中びわは唐川地方で認識され、やがて県外から苗木を導入して地元で育苗し、在来種に高つぎ改良して順次普及されていった。
 また、びわの栽培だけでなく、唐川びわの共同販売にも長年にわたって尽力し、一九一〇(明治四三)年二月に創立された園芸研究会の幹事として果樹園芸の改良に努めた。
 長年にわたり農会長や村会議員を歴任し、唐川地区への電燈の導入、あるいは唐川道路改修など村政に貢献した。特に砥の谷山林の管理権獲得にも努力し、昭和六年には南伊予村とともに、平等権利のもとに両村共同保護に当たることができるようになったのも、氏に負うところが大きい。
 晩年には中台へ隠居し、わせ温州の集約密植栽培に先鞭をつけるなど、みかん栽培の研究も怠らなかった。
 昭和二二年九月五日、六八歳で没した。

  吉 沢 武 久
 果樹産業と地方自治に貢献した人
 一八九一 ― 一九六三(明治二四 ― 昭和三八)年
 一八九一(明治二四)年、吉沢信吉の長男として南山崎村上唐川に生まれた。若いころから耕地が少なく山の多い唐川を、豊かな村にすることを心がけ、貯蓄組合を作って人々に貯金を奨励させた。
 一八歳のとき、一家の経営を委ねられ、果樹園芸に志を立てるに至った。一九〇七(明治四〇)年ころ、温州みかんを取り入れて栽植し、また田中びわの栽培をも行うなど、果樹園芸に情熱を注いだ。
 明治時代末期より大正時代初期にかけて栽植されたわせみかん「大長早生」を、一九一五(大正四)年唐川の山畑に植え、この土地にも早生みかんを取り入れた。しかも、この所での栽培は劣等品種の混入などがあって、結果は余り良くなかった。しかし、その後も早生温州の有利性に着目して、昭和五年には宮川早生を導入して栽培した結果、同七年には立派な結実を見るようになり、従来の品種の中、樹勢も盛んで最優良品として万人が認めるようになった。
 また、昭和五年には郡中共選を創始し、更に同七年びわの共選設立に尽力し、いずれも責任者としてそれらの育成・運営の指導に当たった。このほか、地方の生活改善にも意を用い、村の自治・文化・産業の向上のために中心となって活動した。すなわち私設電話の導入、唐川道路の改修・延長などがあり、村会議員、村建設会長、公民館長、森林・産業・農協各組合長として、地域社会の発展のために尽くした。
 昭和一七年には、自治功労・勤勉貯蓄の功績により内務・大蔵両大臣より表彰された。
 戦後、昭和二二年伊予園芸協同組合副組合長となり、県青果農協設立に当たっては理事となった。その後、同三二年五月には黄綬褒章を授与された。
 昭和三八年一二月二四日、七三歳で没した。

  米 井 連三郎
 青果業界で活躍した神戸青果社長
 一八八九 ― 一九八二(明治二二 ― 昭和五七)年
 一八八九(明治二二)年一一月二五日、北山崎村市場に生まれた。北山崎尋常小学校(四年)を卒業後、明治三三年一二歳のとき、神戸で青果商を営む叔父の勧めにより、神戸へ出て商業に従事することになった。
 神戸の青果店で働くかたわら、五年間夜学校に通い、勉学に励んだ。通学の余暇を見ては全国の産地を回り、各地の青果物の取り引きを行った。二三歳のとき、独立して米井商店を開いた。三年後には、二、五〇〇万円の資産を築き、伊予みかんの神戸市場進出にも尽力した。みかんを摘むときははさみを使うこと、また、みかんを大玉・小玉により分けることを農家に指導し、これが選果機の元祖となった。
 このほか、周桑の柿も大正五年から、盛んに買い付け、地元では、あたご柿の命名者と言われるようになった。
 一本気な性格であったが、自分が苦労しているだけに下で働く者の気持ちがよくわかり、人使いが上手だった。
 「無理するな、独占するな」が処世訓であった。また、商売人は信用が大切だから、かけ事や勝負事は絶対してはならないと、常に人々を戒めた。
 業界でも信用を集め、昭和五年、神戸湊川市場青果組合長に推され、同一〇年には神戸中央青果株式会社取締役社長、同三三年神果神戸青果社長となり、戦中戦後を通じて、兵庫県下の青果物流通の責任者として尽力した。
 特に戦後の混乱期、業界のまとめ役としての功績には多大なものがある。
 昭和三五年黄綬褒章、同三八年には紺綬褒章を受章した。昭和五七年一月一四日、九三歳で没した。

伊予市合併前の歴代町村長 1

伊予市合併前の歴代町村長 1


伊予市合併前の歴代町村長 2

伊予市合併前の歴代町村長 2