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伊予市誌

三、和歌

 伊豫稲荷神社奉納和歌 
 伊豫稲荷神社は、弘仁年間(八一〇~八二四)山城国伏見から勧請創立したと伝えられ、宇迦能御魂命を主祭神とする由緒深い神社である。宮中の御湯殿に奉仕する女官が交代で書き継いだ『御湯殿上日記』の一六八六(貞享三)年六月二五日の記録に「いよの国いなりのかんぬし位かいの御礼にしろがね十両しん上、はうしょう弁ひろう也」(『続群書類従』補遺(三))と述べられているように古来朝廷とも深い関係があり、江戸時代には、大洲・新谷両藩主の祈願所となり、一八〇二(享和二)年正月二二日には正一位の神階の裁下を賜っている。したがって参拝祈願する者が多く、身分をとわずだれかれとなく信仰参拝して、俳句・和歌・漢詩・絵馬などを奉納した。著名なのは仙波盛全ゆかりの歌集である。盛全は、河野宿弥盛家(?~二八一)を祖とする一二代出渕出雲守盛景(中山の盛景寺開基、?~一五七一)の後裔仙波覚右衛門(覚兵衛)の二男である。出渕家は、一五八五(天正一三)年秀吉が四国攻略の際、拠城の出渕城が落城した。一六代盛益のとき帰農して、庄屋初代となり仙波姓を名乗った。盛全の父覚右衛門(覚兵衛)が没落したので、盛全は少年時代松山に出て刻苦勉励し商業で身を立て、一家を興し資産をつくって大平村の庄屋となった(『予州仙波家系譜』)。大月履斎(一六七五~一七三四)・小倉正信(一六八八~一七五七)らと交わり、短歌・漢詩をよくした。

 奉納和歌五十首 
 一七一五(正徳五)年九月、仙波盛全が願主となり、盛全六〇歳の賀に友人ら二五人が「寄松祝」・「寄竹祝」の二部立てとし、各二首ずつ詠み、計五〇首を奉納した一軸ものである。「後書」は青重興の寛文による盛全の人物評と漢詩一首を付している。

  寄松祝
枝かわす並木の松のよはひまであかず契らん千世の友人     大月吉迪
十かへりの花咲春を松がえにちぎるよはひの末のはるけき    池本義附
万年を幾かへりとかわか松のはごとに見ゆる千世の数々     三ヶ義勝
百とせの春を十つゝ十かへりのちぎりつきせぬ宿のわが松    片山勝吉
うへ置て契るよはひの行すゑは幾十かへりの宿の松かえ     黒星峯人
みどり添ふ松の若葉のわかへつゝ千とせをつまむよはひしるしも 小倉為信
いくちとせ花も咲らん松にのみ老せぬよはひゆづる声して    萩田孝延
かげひろくさかへむ末の万代も今日を初子の松に契らん     尾崎氏妻
千世までもかはらぬ色を二葉よりまづちぎりをく庭の若松    汐出安明
幾千世を松に契りて老せずもさぞ十かへりの花を見るらん    小倉正信
吹風も万代よばふまつ山はちとせの坂も麓なるらん       古川久伯
千代までもあかずやなれん言の葉のたねもさかゆく和歌の浦松  津守光重
緑そふ千とせの山の松が枝によはひかさぬる鶴の毛衣      新田良堅
みしめひく神のいかきの松がえに千世のちぎりやかけていのらん 北若宣静
ちぎりうせぬことばの花も十かへりの春をぞ契る庭の松がえ   桜田宣郷
ときはなるこころの松を根さしにて言葉の花は千世も匂はん   松井正伯
契りをくよはひの末はいく千年よむともつきじ和歌のうら松   大内正堅
子日する二葉の松を移しうへてけふより千世のかげも待みむ   玉井倍邑
万代の行末かけていはふかないはねの松のうごきなかれと    阿部宗義
よろづ世を契りや置む子日して植ふる二葉の松のみどりに    豊田正清
頼母しな老せぬ門に十かへりのはな咲春の松のよはひは     小倉善信
行末の千世のためしに引そへてうつしぞ植る庭のわか松     片桐為之
神風や内外の宮の久しさをまつにもよはふ万代の声       小倉行敏
葉かへせぬ山根がえにすむ鶴はなれも千年の声や添ふらん   仙波忠次郎
老の波よるともやがてたちかへれときはの松の千世にならはば  仙波盛全
   「寄竹祝」右二五人が同順で「竹」に寄せて祝歌二五首(略)
   「後書」「漢詩」                 (略)

 奉納(名所)和歌五十首
 一七二三(享保八)年九月九日、重陽のめでたい月に盛全が伊予の名所を独吟し、五〇首にして奉納、「後書」は小倉正信が漢文で盛全の生い立ち人柄を称揚した。その中で伊予に関係あるものを掲げてみる。

     名 所               仙波盛全 伊予名所
     二名嶋
  玉匣あけ行春のしるしとやふたなの嶋は先かすむらん
     熟田津
  にきたつに船出せんとや雲はるゝ伊与のたかねを先望むらん
     伊与湯
  飽田津の秋の御幸の古へもおもひいでゆに澄る月影
     同湯桁
  影移す中のゆげたの数とてやわきてさやけきいさよひの月
     伊予海
  月の入山はいづことしらぬひのつくしにつゞくいよの海原
                           (以下略)
     神 社
     村山神社
  豊なる村山かけて神田におりたつ田子の限りしられず
     伊曽乃神社
  打よれるいその社の夕波にきねか鼓や音まがふらん
     黒嶋神社
  おもしろと神もめづらんうば玉の黒嶋かけて出る月影
     湯神社
  朝日さす千木のかたそぎかげろひてかぞふゆげたや数増るらん
     伊佐迩波神社
  けさみれば雪降りしきぬいさにはの清めいそぐな神のみやつこ
     伊予神社
  民くさも尽すなりけり国の名のいよしと守る神のちかひに
     伊曽能神社
  朝夕にぬさとは見えて白波のかけてあらさぬ磯の神垣
     高忍比売神社
  しるしらずふりさけ仰くみやはしらたかをし姫の名にたてりとて
     伊予津彦命神社
  いくしたてよふかくいのる月よみのひかりに猶や心すむらん
                             (以下略)
  享保八年九月九日       当国 松山之住仙波半幽斎盛全 敬白

 奉納干首独吟和歌一軸
 一七三五(享保二〇)年松野盛常が夢告により、千首を独吟して奉納したものである。四季・恋・雑の部立てで小題目百につき各々一〇首ずつ詠んだ。
 松野盛常は、一六六二(寛文二)年高市盛芳が稲荷神社神職星野右京大夫の後任として着任し、中興の祖となってから四代目盛倚の弟である。生没・経歴など何春軒英斎の序文以外不明である。しかし、千首の独吟といい、歌の内容といい、相当の教養と技量の人であったと思われる。平首奉納の経緯は次の序文で明らかである。

   大和見ことうたは、神の御国のならはしにして、ありとある人もてあそばすといふことなし、或は風雲草木の興を詠じ、あるいは喜怒哀楽こもこもをもうたになぐさめて、結ばれる情をとき、こころの塵をうちはらひて、本っ誠を先とする業なれば、八百万のおほん神もあはれみみそなはし給ふ道になん有ける、抑予州伊与郡稲荷村の彦神、稲荷大明神鎮座ましますその恵にめぐまれし八十氏人は、松の千年に習て幾春秋の緑の陰に立並び、日夜業もいやましに正木のかつら長き例しとは成にけらし、四畔の勝状は、宛然として平圃暮林もみな御薗につゝき、四時をかたず名におへる、まのあたりには高根の月のいただきに、あきたつのちいほをおさめ、朝けのけぶり、熟田津の名に立るも是神のいさをしにして、いつつのたなつ物をつかさどるおほん恵みのゆへにやはべらん、爰に藤原朝臣盛正は、この神つかさとなり、其男盛侍其職主をつく、はらからに盛常といへる朝夕神につかふる事はこのかみに等し、ある夜まさまさの霊夢あり、ただちに思ひをめぐらし侍れば、あかねきことの満つべきおほんながめならん、そぞろ有がたく、ぬさもとりあへず言の葉も手向春るとかや、是を筆のはじめにして怠る日なければ、千々のうたもねがひのみてるはじめならん、ただにひめ置も本意なからん、扨てうたよまんとこころざせる時は、ほがらかにして一物もなければ、これをたかまのはらにして、神の御恵みにもひとしからん、歌のよしあしは何かはゞかりのある、御社におさめ奉らんと余にいへらく、しかあれば御はじめに一言を冠らしめよと、せちの雪にあふ、いなまずして老の墨かれをそめて、おそれみおそれみもすがすがしき御舎にそなふる事しかり。
                      柯春軒 英斎  欽叙
   歌(略)
  跋 右は稲荷大明神に宝納し奉る。一千首の和歌は松野盛常の詠ずる所なり。浜の真砂と謂うべきに過ぎず、雅を以て不雅を謗る勿れ、達人を以て不省を賤しむ勿れ、此れ神明を是とし誠道を渇仰するなり。
                        松山軍師 木村勝政

 宮内保如 
 一七五〇(寛延三)年庄屋宮内家に生まれ、四代を継ぎ一八一九(文政二)年六月一七日、七〇歳で没した。
 一七七一(明和八)年庄屋相続し、一八一一(文化八)年末まで四一年間庄屋を務めた。その間短歌にしたしみ、草臣と号して数多くの歌を残している。次にそれらの中から幾つかを掲げると、次のとおりである。

  小夜あらし寒くふけばや浜千鳥 ねるまをふみの上に鳴くなり
  有明の月に鳴くなるさをしかの 心もほのくしらみぬるかな
  万代の亀にならひて君もまた のどかにいませ長き月日を
  のこしおく人の言の葉思ふかな かわらぬ月のながめするにも
  なつかしみおばな葛花わけくれば 帰るさのみちは月になりぬる


 宮内保家 
 一八五七(安政四)年一〇月、宮内家に生まれ、九代を継ぎ一九〇六(明治三九)年二月一三日に五〇歳で没した。通称を治三郎といった。
 保家は松山の歌人井手真棹や石井義卿らと歌を通じて親交があった。真棹も義卿もそのころ、松山における有力な指導者であった。この二人の書いた短冊も幾つかある。保家の歌を掲げると、次のとおりである。

  ひるさえもとふ人のなき草のいほにたれまつむしの夜夜に啼くらむ
  むらさめにぬれていろこくなりにけりいなりの山のみねのもみじ葉
  いくそぼくひとのゆめをやさますらむたがみの山のあかつきのかね

 鄙のてぶり 
 内題は『伊豫国人・和歌類題鄙能天布理』初編は上下二冊で一八五四(嘉永七)年二編は一八五七(安政四)年に刊行された。編者は半井梧庵(一八一三~一八八九)、表紙絵は山本雲溪(一七八〇~一八六一)。京都書林越後屋治兵衛、林芳兵衛で作られ、製本は今治本町久保正五郎、同風早野島屋喜太郎である。初編は四二七人、短歌一、六三〇首・長歌一六首で伊予一国の和歌総覧ともいえる。二編は初編に洩れた人及び近国の人々三一六人の歌を集めた。梧庵は本名元美、五二歳のときに忠見と改称した。若くして家業の医学を学び、国学和歌を足代弘訓(一七八四~一八五六)、海野遊翁(幸典。一七八五~一八四八)に学んだ。著書に紀行文『西行紀行』、『花の家包』、『月が瀬紀行』、地誌に『愛媛面影』、歌学に『歌格類選』がある。梧庵の『歌のてぶり』編さんによって、亡失のおそれの多い伊予歌人の歌が残された意味は大きい、伊予地域からは次の人々の歌が採られている。

  立春眺望  打かすむ山のけしきを見渡せばをのへよりこそ春は立けれ
                        美則(村瀬伊織)
  若菜   ふみわけて雪の中なる初わかないくその春が袖につむらむ
                        〃
  雉子    つま木こる音もとたえて打かすむ桧原がおくにきぎす鳴也
                        草臣(宮内才右衛門)
  夏草    この頃は野中の庵のかよひ路もたえぬ計にしげる夏草
                        師古(町田杏庵)
  鵜舟    のぼり行鵜舟なるらんかがり火の芦間芦間にみえかくれつつ
                        〃
  雁     打むれて渡来ぬらんこの頃は何所もかりの声のみぞする
                        〃
  三日月   打みればいとほのかなる三日月のかげにもしるしあきの哀は
                        草臣
  山家月   夕かぜのそよぐこの間にほのめきて月も奥ある秋の山さと
                        〃
  寒蘆    風寒み入江の蘆の折ふして霜おきわたす冬のさびしさ
                        美則
  夜雪    宵の間はそよと音せし竹のはも動かぬまでにつもる雪哉
                        草臣
  遠山雪   寒かりしきのふの雨は雨ならで雪こそつもれ遠の山々
                        嶌守(藤井道一)
  冬夜    よもすがら聞こそわかね降音は雨かあらぬか雪かみぞれか
                        〃
  夢     かりそめに見し夢ながら嬉しさは覚ての後もかはらざりけり
                        草臣
 (雑)太平  もののふの大刀とる手にも筆とりて月よ花よとはやす御代かな
                        嶌守

 一八八二(明治一五)年山下清風(武知五友の別名)は「郡中八景」と題し次のように詠んでいる。

  紫海夕陽 いよのうみながめつくしのうらかけてかがやきわたるゆふひなるかな
  住吉小雨 おひしげる松のこのまにふる雨の音しづかにもすみよしのかみ
  谷上山鐘 たちならびしげれる松のみね谷上くもよりひびくいりあひの鐘
  米湊鳴蛙 ゆたかなる年のもよしに米湊のかはづもうたをうたふなるらむ
  浚浦漁戸 もくづたくうらみのけぶりたちならぶ海士のとまやの秋の夕ぐれ
  万安夜泊 ふるさとの夢もやすくやむすぶらむ夜を海わたる旅のをぶねに
  稲荷翠嵐 ふかみどりかさなる奥の宮居よりあらしにたぐふすずの音かな
  南山積雪 とほ山のたかねにつもるしらゆきの光にあくるしののめのそら

 五友が友人の六〇歳祝寿におくった歌につぎのようなものがある。

       六十に上の一つをはじめにてまたいくさちのよはいへぬべき
       六十より三つのわらべにかえるこそとはのわらべぞ君はなりぬる
       つるの千亀のよろずを合せてもちよろずとしを君ぞへぬべき