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伊予市誌

二、洋学

 洋学とは「西洋の学」ということであるが、近世末、先ず蘭学として受け入れられた。オランダ語による医学その他諸学のことを意味する。我が国とオランダとの交渉は、一六〇〇(慶長五)年オランダ東洋艦隊五艘のうちリーフデ号(一六〇トン、一一〇人乗)が豊後に漂着、救助された者のうち、航海士ヤン=ヨーステン(一五五七~一六二三)と水先案内人ウィリアム=アダムズ(一五六四~一六二〇)が居住地を与えられたことに始まる。アダムズ(英国人、和蘭東印度会社傭水先案内人)は徳川家康の信任を受け、相模三浦郡逸見村(現横須賀市)に釆地二五〇石を与えられた。当時水先案内人を按針(磁石の針を按べて船の進路を定める)と呼んだので、釆地と職名をとり「三浦按針」と日本名を名乗った。後、江戸日本橋付近にも住宅を与えられ家康に西洋事情を述べ人々に数学を教えた。アダムズの居住の町は俗に「按針町」と称され、派手な生活を送ったが、平戸に英国商館設立のために奔走した。秀忠の代になると疎んぜられ、不遇のうちに一六二〇(元和六)年四月二四日没した。
 蘭学研究に画期的な影響を与えたのは『解体新書』の翻訳刊行である。ドイツ人クルムス著『ターヘル=アナトミア』蘭訳本の和訳で、前野良沢(中津藩)、杉田玄白(若狭藩)、中川淳庵(若狭藩)、桂川甫周(幕府奥医師)、嶺春泰(高崎藩)、石川玄常(一橋家持医)、桐山正哲(弘前藩)、鳥山松園(庄内藩)らが苦心して、一七七四(安永三)年刊行した。同書は、本文四巻、『解体図』一巻から成り、四年の歳月と一一回の改稿を重ね、薄弱な語学力を克服して苦心の末刊行したものである。翻訳の苦労辛苦は杉田玄白著『蘭学事始』(『蘭東事始』、『和蘭事始』ともいわれる)に詳しい。『解体新書』によって蘭学研究が本格的段階に入り、医学だけでなく天文学・植物学(本草学)・薬学・化学・暦学・物理学・兵学なども研究された。更に地誌・歴史・人文学へと発展し、築城術・航海術の発展をも促した。
 伊予八藩ともに積極的に蘭学を受け入れる政策をとり、また志ある人々は、あるいは江戸・大坂に、あるいは長崎に遊学して蘭医・蘭学を学んだ。松山藩の青地林宗(一七七五~一八三三)、大洲藩の鎌田玄台(桂洲、一七九四~一八五四)、宇和島藩二宮敬作(一八〇四~一八六二)など特に著名である。シーボルト(一七九六~一八六六)の鳴瀧塾に学んだ二宮敬作は帰郷後、医業のかたわら蘭学を教授したので、その影響は極めて大きかった。また一八四八(嘉永元)年高野長英(一八〇四~一八五〇)が羽州浪人伊藤瑞溪と変名して宇和島に入り、村田亮庵(蔵六、大村益次郎、一八二四~一八六九)と一八五三(嘉永六)年宇和島に来て蘭学・兵学を教授したことも伊予全域の蘭学推進に寄与するところが大きかった。郡中からもすぐれた学者が出た。藤井道一については既に述べた(「漢学・漢詩文」の項参照)。

 越智高崧 
 一八〇八(文化五)年郡中灘町宮内吉通の長男として生まれた。字は高崧、通称は仙心(僊)といい、号は桂荘、静慎、仏手仙心、一邨と称した。一四歳で京都に上り漢学を修業し、更に江戸に出て箕作秋平和蘭商館長、蘭医ニーマン直門の林洞海らと研さんを積み、一八四二(天保一三)年長崎に出て蘭法眼科を学んだ。この間の越智高崧の刻苦勉励ぶりをその訳書『眼科新説』(別名『銀海金針』。上、中、下三巻。文久元年刊。)に題して友人岩名好謙が述べた「越智高崧人物評」の名文があり、高崧の人柄がよく出ている。
 一八六四(元治元)蘭医ボードウィンの建白によって長崎に分析究理書が開設されると、直ちに入所してボードウィンの指導を受けた。一時郡中に帰ったが再び京都に上り開業した。一八八〇(明治一三)年に没した。著書に『眼科新設』、『眼科秘笈』、『内翳書』(現在「目録」のみ「本文」は所在未詳)がある。

 倉橋考序
 (生没未詳) 一八三八(天保九)年緒方洪庵が大坂瓦町で蘭学塾「適々斎塾」(適々塾・適塾)を開いた。洪庵は備中足守(現岡山県吉備郡足守町)の生まれで、一七歳のとき医学に志して大阪の中天游の門に入り、二二歳のとき江戸に出て坪井信道につき蘭語・科学・医学を学んだ。このころ数編の翻訳書を出し名声を博した。塾開設のとき、洪庵は二九歳であったが、自主的開放的な塾風を維持し、日本の近代化に重要な役割を果たした人物の多くが、この塾から輩出された。塾は医学を学ぶ者と蘭学を学ぶ者とが入塾したが、次第に蘭学を学ぶ塾としての性格が強くなり、独自の塾風がつくり出された。全国から有能な学生が集まり激しい研鑽を重ねた優秀な学生が全国に巣立って明治維新につづく日本の近代化に多大の貢献をした。
 塾は最初の瓦町が手狭になったため、一八四三(天保一四)年一二月一五日、北浜の過書町に移った。『姓名録』記入は一八四四(弘化元)年一月から始まっている(瓦町時代の姓名録はあったかどうか未詳)。記入は入塾の順に自署が原則であった。『姓名録』署名総数は六三七人で愛媛県の入塾者は二二人である。倉橋考序は『姓名録』の三番目に記帳している。これは愛媛県でも最初である(愛媛県からの入塾者は次の大内貞介七二、大洲の武田斐三郎は一一七番目である)。倉橋考序が蘭学を学ぶためか医学修業のためか、不明であるが入塾の意味は大きい。郡中地区に蘭学・蘭医学への関心の深さ、言いかえると文化をいち早く受容しようとする雰囲気が作られていたことを意味する(漢学の項参照)。