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伊予市誌

六、伊予岡八幡神社の桜門他

 楼門 
 市内上吾川の伊予岡八幡神社の楼門は、一八四九(嘉永二)年の建立で、第267図に見られるとおり、屋根は入母屋作り本瓦ぶきの重層である。唐様折衷式、柱は円柱、蛙股の手法をとり、均整のとれた楼門である。松山市石井の伊予豆比古神社(椿神社)の楼門を再建したときの手法は、この楼門を参考として模したということである。
 伊予岡八幡神社の楼門を建築した人は、植松喜左衛門福長の設計で、その子久右衛門篤政が大工棟領となって完成した。植松家(植松久左衛門篤重)は美濃国(岐阜県)黒野に住んでいた。加藤家普代の大工棟領として仕え、大洲藩主に転封後は大洲中村に住んだ。

 扁額 
 拝殿には大作の扁額が六つ掲げられていて、いずれも立派なものである。中でも中殿にあるものは第268図に見るように、文庸斉円乗の描いたもので、大洲藩主加藤遠江守泰候が奉納したものである。これは神功皇后と武内宿祢が赤子(後の応神天皇)を抱いている絵である。

 神輿 
 八幡神社のみこしは、第269図に見るように八角形を型どっだ豪華なものである。
 これを作った人は下吾川の田中権七で、明治時代の初期に作られた。八角さん(普通こう呼んでいる)ができた由来について、次のようなことがいわれている。
「昔は上吾川と下吾川の間で、たびたび水争いがあった(上吾川宮内家文書にもある)。村の組頭などおもだった人々が集まり、庄屋をまじえていろいろ話し合った末、仲直りの条件として上・下吾川の四角さんを合わせて八角さんを作ろうということになった。」
 下吾川の四角さんは湊町へ譲った。八角さんは重さが米四俵ということなので、二四〇㎏ある。